観賞用戦闘術、初陣
神殿を出てしばらく歩いたところで、俺は早くも一つの問題に直面していた。
いや、正確には神器が完成した瞬間からわかっていたことだ。《タクミ・ブレイザー》を傷つけたくない。でも、武器として使わなきゃいけない。この二つが、どう考えても両立しない。
「オタクミ殿。先ほどから一度も抜いておらぬな」
背負った鞘からゴルドスの声が飛んできた。
「抜くわけないだろ。るみたんが描いてあるんだぞ」
「神器だぞ?」
「知ってる。だから大事なんだろ」
「なぜ神器であることが、使用しない理由になるのだ!」
森の中にゴルドスの声が響いた。
俺は肩にかけた痛バッグを押さえながら、《タクミ・ブレイザー》を背負い直す。刀身はゴルドスが憑依している専用の鞘へきっちり収まっているので、今は肝心のミスティアの絵も外からは見えない。
それでも安心はできなかった。枝にぶつけるのも嫌だし、転ぶのも嫌だし、何かが飛んできて鞘ごと傷つくのも嫌だ。異世界へ来て最初の冒険だというのに、俺の注意力の半分以上が推しの安全管理へ割かれている。
「そもそも、どうして森なんだよ」
「この先に人の住む場所がある。まずはそこを目指す」
「道ないじゃん。これ獣道じゃん」
「道は道だ」
「舗装という文明を知ってほしい」
「異世界へ来て最初の要望がそれか」
そんなことを言い合いながら歩いていると、前方の茂みが不自然に揺れた。俺は足を止める。さっきまで聞こえていた鳥の声も途切れ、一瞬だけ森全体が静かになったように感じた。
「……なんかいる?」
「構えよ。来るぞ」
次の瞬間、茂みが大きく弾けた。
飛び出してきたのは、犬ほどの大きさがある丸い生き物だった。半透明で、ぶよぶよしていて、全体的に青っぽい。ゲームでも漫画でも散々見てきた、説明不要なくらい異世界らしい姿だ。
「スライム!」
「知っておるのか?」
「異世界の義務教育みたいなやつ!」
「何を言っておる!」
スライムが地面を弾むように跳ね、そのまま俺へ突っ込んできた。見た目だけならそこまで怖くないのに、実際に自分へ向かってくると話は別だ。反射的に《タクミ・ブレイザー》の柄へ手をかけ、抜こうとする。
そこで、頭の中にピンクメタリックの刀身と、その上で笑っているミスティアの姿が浮かんだ。
これを、この粘液の塊へ叩きつける?
「無理!」
俺は剣を抜くのをやめ、そのまま横へ飛んだ。スライムがすぐ脇を通り抜けていく。
「何をしておる!」
「見ればわかるだろ、避けた!」
「戦え!」
「るみたんが汚れる!」
「だから武器なのだ!」
「武器だからって何してもいいわけじゃないだろ!」
「何を言っているのだ貴殿は!」
スライムは地面へ着地すると、すぐに身体の向きを変えた。そして今度はさっきより勢いをつけて跳んでくる。
避けるには遅い。
俺は咄嗟に《タクミ・ブレイザー》を両手で持ち上げた。
だが、抜かない。
鞘ごと振る。
「ええい!」
横薙ぎに振った鞘が、鈍い音を立ててスライムへめり込んだ。そのまま横へ吹き飛ばされたスライムは木の幹へぶつかり、ぷるぷると震えながら地面へ落ちる。
俺は敵を見るより先に鞘を確認した。目立った傷はない。当然、鞘の中のミスティアも無事だ。
「……いける」
「何がだ」
「これなら、るみたんを外へ出さずに戦える」
嫌な予感を覚えたらしいゴルドスが黙る。
俺は鞘を握り直した。
「鞘で殴ればいいんだ!」
「神器の使い方として何かがおかしい!」
だが、俺の中では完全に筋が通っていた。刃を使わない。刀身を外へ出さない。それなら傷つく確率は一気に下がる。しかも今、実際にスライムを吹き飛ばせた。
「観賞用だからな」
「戦闘用だ!」
「戦闘もできる観賞用!」
「順番が逆ではないか!」
スライムが再び跳ねる。今度はさっきより速かった。
俺は鞘を構える。最初は偶然当たっただけだ。次はちゃんと相手を見て狙う。
跳んできたスライムへ半歩だけ身体をずらし、鞘の平たい部分を横から叩き込む。ゴッ、と重い感触が手に返り、スライムが地面へ叩き落とされた。
「おお、いけるじゃん俺!」
「調子に乗るな。まだ一体だぞ」
「一体倒せたら初陣成功だろ!」
「倒れておらぬ」
見ると、地面へ落ちたスライムが再び身体を起こしていた。
「しぶとっ」
「魔物なのだから当然であろう」
「じゃあ何回殴ればいいんだよ!」
「それを確かめるのが戦闘だ!」
至極もっともなことを言われてしまった。
スライムがまた跳ぶ。俺は鞘を振る。一度、二度、三度と打ち合っているうちに、少しずつ動きがわかってきた。
抜刀しない以上、斬ることはできない。だったら相手を弾く。叩く。近づけさせない。推しを守ることだけ考えていたはずなのに、気づけばそれ自体が戦い方になり始めている。
「……なんだこれ。普通に剣を使うより、こっちの方が俺向きな気がする」
「比較対象となる剣術経験がないだろう」
「それはそう」
スライムが今までで一番高く跳び上がった。
俺は両手で鞘を握り、打ち上げるように振り抜く。
その瞬間、胸の奥が急に熱くなった。
「……っ?」
何かが流れた。
身体の奥から腕へ。腕から、握っている鞘へ。目に見えるものなのかどうかもわからない。それでも、そこに確かな力が通った感覚だけはあった。
ゴルドスが息を呑む。
「尊輝か」
「そんき?」
聞き返す間もなく、鞘がスライムへぶつかった。
さっきまでとは明らかに違う衝撃だった。スライムは空中で弾き飛ばされ、地面を何度か跳ねたあと、今度こそ動かなくなる。
俺はしばらく自分の手を見つめた。
「今の何?」
「尊輝だ」
「だから何それ」
「貴殿の“推す心”と強く結びついた力、とでも言えばよいか」
「推す心が力になるの?」
「少なくとも貴殿の場合はな」
「最高じゃん」
「食いつきが早い!」
気になって、《タクミ・ブレイザー》をほんの少しだけ鞘から抜いてみる。ピンクメタリックの刀身がわずかに顔を出したが、ミスティアの絵まではまだ見えない。
もう少しだけ。
銀色の髪が見えた。
それだけで、さっき戦っていた時よりも胸の奥がじんわり熱くなる。
「これ、見たら戻る感じする」
「推しを拝することが、貴殿にとって尊輝を整える助けになっているのだろう」
「つまり、るみたん見れば回復する?」
「そこまで単純化するな!」
「いいじゃん、わかりやすくて!」
「仕組みを勝手に決めるな!」
俺はすぐに刀身を鞘へ戻した。長時間外へ出して、万が一何かあったら困る。
それにしても、推しを見て力を得て、推しを守るために戦う。それなのに、推し本人は一切傷つけない。
それなら答えは決まった。
「……これだな」
「何がだ」
「観賞用戦闘術」
「今名付けたな?」
「抜かない、傷つけない、鞘で戦う」
「剣術ではない」
「戦えてるんだからいいだろ」
「よくない!」
「でも推しは無傷!」
「そこだけは徹底しておるな!」
戦い方として正しいのかは知らない。でも、俺にとっては正しい。《タクミ・ブレイザー》を傷つけないまま敵を倒した。その事実だけで、さっきまで抱えていた問題が一つ片づいた気がした。
「よし。この調子で――」
言いかけたところで、森の奥から枝の折れる音がした。
続いて、何かが地面を滑る音。そして、
「きゃあっ!」
女の子の声が響いた。
俺は即座に振り向く。
「今の、人だよな?」
「人だ。行け!」
返事をするより先に走り出した。痛バッグが背中で跳ねる。枝を避け、茂みをかき分け、声のした方へ進む。
途中でバッグが木の枝へ引っかかりそうになり、俺は慌てて身体の前へ抱え込んだ。
「今は人命を優先せよ!」
「してる! でも中身も人命級なんだよ!」
「物だ!」
「推しだ!」
「話が進まぬ!」
前方の木々が途切れ、小さく開けた場所へ出た。
倒木のそばに、一人の少女がいた。
金髪で、ローブ姿。地面へ尻もちをつき、片手で何かを抱えている。その周囲を、さっきより小さなスライムが数体取り囲んでいた。
少女は立ち上がろうとしているが、足元がもつれてうまく動けない。
「伏せて!」
俺が叫ぶと、少女が驚いた顔でこちらを見る。
その隙に一体のスライムが跳んだ。
間へ入って鞘を振る。一体を横へ弾き、反対側から飛んできたもう一体を身体の回転に合わせて叩き落とす。
「おおっ、連続!」
「実況するな!」
「テンション上がるだろ!」
「今は救助中だ!」
残りのスライムが少女へ向かった。
俺は位置を変えて、その前へ立つ。《タクミ・ブレイザー》は抜かない。鞘のまま、推しを守る。それで目の前の人も守れるなら、一石二鳥だ。
「来い!」
スライムが一斉に跳ねる。
一体目を弾き、二体目を横から叩く。
三体目は間に合わない。
反射的に痛バッグを胸の前へ引き寄せたところへ、スライムがぶつかった。衝撃に押されて数歩下がる。
「おい!」
ゴルドスの声が飛ぶ。
俺は真っ先にバッグを見る。透明窓、缶バッジ、アクキー。目立った異常はない。
「無事!」
「まず自分を確認せよ!」
「俺も無事!」
だったら問題ない。
痛バッグを背中側へ回し、残ったスライムへ鞘を振り下ろす。ゴンッ、と鈍い音が響き、最後の一体が地面へ沈んだ。
同時に、さっき感じたものと同じ熱が腕を走った。
尊輝。
細かい仕組みはまだわからない。ただ、確かに同じ感覚だった。
少し待っても、倒れたスライムたちは動かなかった。
「……終わった?」
「この辺りはな」
「よし」
俺はすぐに少女の方へ向かった。
「大丈夫?」
少女はまだ少し呆然としていた。近くで見ると金髪が乱れ、ローブの裾には土がついている。
「た、助けていただいて……ありがとうございます」
「怪我は?」
「少し転んだだけです。大丈夫です」
丁寧な話し方だった。
ひとまず大きな怪我はなさそうだと安心していると、少女の視線が俺の背中へ向いた。
正確には、《タクミ・ブレイザー》へ。
「……その剣」
「ん?」
「さっき、少しだけ見えたんですけど」
俺は一瞬で身構えた。傷でもついたのかと思い、慌てて鞘を確認する。
「どこ!? どこ見えた!? 傷!? 汚れ!? ミスティアの顔!?」
「ち、違います!」
少女が慌てて両手を振った。
「絵です。剣に、絵が描いてありましたよね」
俺は少しだけ固まる。
少女の目は《タクミ・ブレイザー》を見ていた。武器としてではなく、そこに描かれたものを見ている。
「……見たい?」
「いいんですか?」
「ちょっとだけな」
念のため周囲を確認してから、慎重に刀身を鞘から抜いた。今度は戦闘じゃない。枝も近くにないし、倒れたスライムも動いていない。
ピンクメタリックの刀身が少しずつ現れ、その上から銀髪の少女――ミスティアの姿が見えてくる。
少女の目が大きくなった。
「……すごい」
その反応だけで、思わず口元が緩んだ。
「だろ?」
「武器に、こんなふうに絵を描くんですね」
「いいだろ、るみたん」
「るみたん?」
「ミスティア・ルミナス。俺の推し」
当然、少女には知らない名前だ。
けれど、変だとも、おかしいとも言わなかった。ただ刀身を見つめ、色や線や、そこに描かれたミスティアそのものをじっと追っている。
やがて、少女は小さく言った。
「……綺麗です」
それが妙に嬉しかった。
もう少し見せようとした時、少女が胸元へ抱えているものに気づいた。
薄い板のようにも見えるが、よく見ると紙が何枚も綴じられている。その端から、黒い線が少しだけ覗いていた。
「それ、何?」
少女は俺の視線に気づき、抱えているものを少しだけ胸元へ寄せる。
「これですか?」
「うん」
一瞬だけ迷ってから、少女は答えた。
「……絵を描くものです」
「絵?」
「はい」
さっきまでミスティアを見ていた時とは少し違い、今度はどこか恥ずかしそうだった。
「絵、描くの?」
少女は抱えているものへ視線を落とし、それから小さく頷いた。
「……好きです」
森の中で、異世界へ来て初めての戦いを終えたばかりだった。
推しを傷つけたくないという理由だけで妙な戦い方を始め、その直後に、俺はこの世界で初めて「絵を描くのが好きだ」と言う人に出会った。




