革命は一本の線から始まる その2
「……高い」
印刷工房で見積書を受け取った俺は、思わず呟いた。
「だから言っただろう」
隣でアーグが腕を組む。
「紙の値段が上がっている。以前と同じ感覚で印刷するわけにはいかん」
「でもさ! この告知、せっかくリアと一緒に考えたんだぞ!?」
「内容が良くても、予算は増えない」
「正論の暴力!」
俺は見積書を見下ろした。
そこには、俺が思い描いていた華々しい宣伝活動とは、ずいぶん違う現実が並んでいる。
大量の告知を刷って、街中に配る。
それを見た人が次々と集まってくる。
そして、ラザリス全体が創作の熱気に包まれる!
……そんな未来を想像していたのだが。
「最初は、必要な分だけだ」
アーグが言った。
「開催条件を決めたうえで、少部数を印刷する。それ以上は今の予算では難しい」
「……分かった」
俺は頷いた。
「少ないなら、少ないなりに届ければいいんだよな」
『ほう。今回は引き下がるのが早いのう』
「俺だって学習するんだよ!」
『では、その学習が明日も続くことを祈ろう』
「ゴルドスの信用、低すぎない!?」
リアが小さく笑った。
その手には、昨日みんなで仕上げた告知原稿がある。
『みんなで描こう! リアと一緒にお絵描き』
彼女が描いたミスティア様。
その横には、俺が描いたミスティア様。
……まあ、ちょっとじゃがいもに似ているという意見もあるが。
大事なのは、上手いか下手かじゃない。
描いてみたいという気持ちなのだ!
「先生」
「ん?」
「私、少ない人数でも嬉しいです」
リアが原稿を胸に抱いた。
「一人でも、一緒に描いてみたいって思ってくれる人がいたら」
その言葉を聞いて、俺は笑った。
「そうだな!」
革命は、人数の多さで決まるものじゃない。
最初の一本の線。
そこから始めればいい。
◇
工房から戻った俺たちは、さっそく準備を始めた。
まずは開催場所。
候補だった『KIRABOSHI』を使えるかどうか、営業の予定や机の配置を確認する。
幸い、短い時間なら店内の一角を使えそうだった。
次に、画材。
リアが手持ちの紙と描画道具を並べ、アーグが必要な費用を計算する。
「この量なら、初回は五人までだな」
「五人!」
俺は思わず声を上げた。
「五人も来てくれるかな!?」
「来なかった場合は、その時に考えればいい」
アーグは淡々と答える。
「参加費は、今回は無料にできそうだ。ただし、道具は共有してもらう」
「本当か!?」
「ああ。今回は手持ちの道具と予算で賄える。ただし、次回も同じ条件で開催できるとは限らん」
「そっか……」
「人数を制限し、無駄遣いをしないことが条件だ」
「分かった! ありがとう、アーグ!」
「礼を言うのは、まだ早い。実際に予算内で収めてからにしろ」
「はい!」
セラが横から覗き込んだ。
「開催日時も決めないとね」
「そうだった!」
店の営業に支障が出にくい時間を選び、初回の日取りを決める。
参加したい人には事前に申し込んでもらうことにした。
これなら、準備した道具が足りなくなる心配も少ない。
「じゃあ、これで全部決まった?」
「告知の内容を確認してからだ」
アーグの視線が、俺の描いたミスティア様へ向いた。
「……これも載せるのか?」
「もちろん!」
「本当に?」
「本当に!」
俺は胸を張った。
「上手く描けなくても参加していいって、一目で伝わるだろ!」
「……確かにな」
アーグは少し考えてから頷いた。
「目的には合っている」
「やった!」
『しかし、ミスティア本人が見たらどう思うかのう』
「感動するに決まってるだろ!」
『その自信はどこから来るのだ』
「愛!」
リアが吹き出し、セラが呆れたように笑った。
そうして最終原稿を整え、アーグの確認を受けてから、少部数の印刷を頼んだ。
大量には作れない。
でも、最初から街中へばらまく必要はなかった。
俺たちは、一枚ずつ、届けたい人に届けることにした。
◇
印刷が仕上がったあと、俺たちは少しずつ告知を配り始めた。
それから数日が過ぎた。
最初のうちは、なかなか申し込みが来なかった。
告知を受け取ってくれた人は、興味深そうに見ていた。
別の人は、値段を聞いてから首を傾げた。
無料だと説明すると驚かれたが、それでもすぐに申し込むとは限らなかった。
市場で流れていた、あの歌の影響もあるのかもしれない。
絵に夢中になるなんて、変わり者。
そんな空気が、まだ残っている。
「……誰も来なかったら、どうしましょう」
リアは『KIRABOSHI』のテーブルに座り、落ち着かない様子で指先を合わせていた。
「大丈夫! きっと来るって!」
俺は元気よく答えた。
「……本当に?」
「……たぶん!」
「先生!?」
セラがため息をつく。
「不安な人に『たぶん』はどうなのよ」
「だって、まだ分からないんだもん!」
「そこは正直なのね……」
実際、俺だって不安だった。
告知を少部数にしたのは、予算を守るためだ。
でも、そもそも届いた人が少なければ、申し込みも少ない。
分かっていたつもりでも、待つ時間は長く感じた。
「……やっぱり、難しいのかな」
俺が呟いた時だった。
カラン、と扉が開く。
「すみません」
顔を覗かせたのは、小さな女の子だった。
後ろには、母親らしい女性がいる。
「ここで、絵を描けるって聞いたんですけど……」
「……!」
リアが顔を上げた。
俺も思わず立ち上がる。
「もちろん! 大歓迎だよ!」
「先生、落ち着いてください!」
「ごめん!」
女の子は少し驚いた様子だったが、手に持った告知を見せてくれた。
「これ、見ました」
そこには、リアのミスティア様と、俺のじゃがいも……じゃなかった、ミスティア様。
「私、絵を描くの、好きなんです」
女の子は少し恥ずかしそうに笑った。
「でも、あんまり上手じゃなくて……」
リアが、ゆっくり立ち上がった。
「……大丈夫ですよ」
優しい声だった。
「上手じゃなくても、楽しく描けたら、それでいいんです」
女の子の顔が、ぱっと明るくなる。
そして、母親と相談して、初回の参加を申し込んでくれた。
一人目。
本当に、一人目だ。
俺は嬉しくて、その場で飛び跳ねそうになった。
『落ち着け。まだ開催前だぞ』
「分かってる! でも嬉しいんだよ!」
リアも、嬉しそうに笑っていた。
その後、締め切りまでに、さらに二人の参加希望者が現れた。
子供がもう一人。
そして、大人の女性。
最終的に、初回の参加者は三人になった。
定員の五人には届かなかった。
でも、十分だった。
たった三人。
いや。
三人も、だ。
◇
そして、教室当日。
『KIRABOSHI』の一角には、三人分の席が用意されていた。
机の上には、紙と描画道具。
豪華なものじゃない。
特別な道具でもない。
でも、リアが一枚ずつ丁寧に整えたものだった。
「……先生」
リアが俺の袖を引く。
「緊張してきました」
「大丈夫!」
俺は親指を立てた。
「昨日、決めただろ? リアは完璧な先生にならなくていいんだ」
「……はい」
「一緒に描く人になればいい」
リアは深く息を吸った。
そして、ゆっくり頷く。
「……やってみます」
参加者たちが席につく。
最初に申し込んでくれた女の子。
もう一人の子供。
そして、少し緊張した顔の大人の女性。
リアは、みんなの前に立った。
「……今日は、来てくださってありがとうございます」
小さな声。
でも、はっきり聞こえた。
「私はリアです。今日は、みなさんと一緒に絵を描きたいと思っています」
女の子が手を挙げた。
「先生!」
リアの肩が、ぴくっと動く。
「は、はい!」
「何を描けばいいんですか?」
リアは一瞬、言葉に詰まった。
それから、ゆっくり笑った。
「……好きなものを、描いてください」
「好きなもの?」
「はい。お花でも、動物でも、家族でも……何でもいいんです」
リアは、自分の紙を広げた。
「私も、一緒に描きますから」
そう言って、一本の線を引いた。
さらさらと動く手。
少しずつ形になっていく、小さな鳥。
「……ぴーちゃん!」
シエルが思わず声を上げた。
リアは笑った。
「はい。今日は、ぴーちゃんを描いてみました」
「ぴっ!」
本人……いや、本鳥も嬉しそうである。
参加者たちが笑った。
少しだけ、空気が柔らかくなった。
◇
最初に動き出したのは、女の子だった。
紙の真ん中に、大きな丸を描く。
そこから、細い線を伸ばす。
「……お花!」
女の子が嬉しそうに言った。
「いいですね!」
リアが笑う。
「花びらの形、すごく楽しそうです」
女の子は、ますます嬉しそうに線を重ねた。
隣の子供も、負けじと描き始める。
どうやら、犬を描いているらしい。
……いや、猫か?
俺が首を傾げていると、リアがそっと耳打ちした。
「先生。何を描いてるか、聞いてみたらいいと思います」
「なるほど!」
俺は子供のそばへしゃがんだ。
「これ、何を描いてるの?」
「ドラゴン!」
「ドラゴン!?」
俺は目を見開いた。
「すごいじゃん!」
「……変じゃない?」
「全然!」
よく見ると、確かに背中に翼らしいものがある。
足だと思っていた部分は、どうやら炎だったらしい。
「おお! 口から火を吹いてるのか!」
「そう!」
子供は嬉しそうに頷いた。
俺も、つられて笑ってしまう。
……ああ。
そうか。
こういうことなんだ。
俺が何に見えるかなんて、関係ない。
描いた本人の頭の中には、ちゃんとドラゴンがいる。
大事なのは、それを描きたいと思ったことだ。
少し離れた席では、大人の女性が白紙を前に手を止めていた。
「……私、こういうの、久しぶりで」
女性が困ったように笑う。
「子供の頃はよく描いていたんですけど、もう何年も……」
リアが隣に座った。
「……何か、描いてみたいものはありますか?」
「そうですね……」
女性は少し考える。
「庭に咲いている花、でしょうか」
「素敵ですね」
「でも、上手く描ける自信がなくて」
リアは、自分の紙に小さな丸を描いた。
「……私も、最初から上手く描けたわけじゃないんです」
そして、もう一本。
丸の周りに、少しずつ花びらを描き足していく。
「最初は、こんなふうに簡単な形からでいいと思います」
「……こんな感じですか?」
女性が、そっと線を引いた。
少し歪んだ丸。
その周りに、小さな花びら。
「……あ」
女性が、驚いたように声を漏らした。
「描けた……」
リアが微笑む。
「はい。描けましたね」
女性は、しばらく自分の紙を見つめていた。
それから、嬉しそうに笑った。
「……楽しいですね、これ」
その言葉を聞いた瞬間。
リアの顔が、ぱっと輝いた。
「……はい!」
俺は、その光景を少し離れたところから見ていた。
リアはもう、誰かに教えることを怖がっていなかった。
自分の知っている楽しさを、目の前の人に渡している。
それだけだった。
でも。
それが、とても大きなことに思えた。
◇
教室が終わる頃には、三人の机の上に、それぞれ違う絵が並んでいた。
大きな花。
火を吹くドラゴン。
庭に咲く、小さな花々。
どれも、同じものは一つとしてない。
「……みんな、すごいな」
俺が呟くと、セラが隣で笑った。
「そうね。思っていたより、ずっと楽しそうだったわ」
「思っていたよりって!」
「いい意味よ」
アーグは、使った紙の枚数を確認していた。
「予定していた範囲で収まったな」
「さすがアーグ!」
「俺は何も描いていないが」
「でも、アーグがいなかったら、この教室はできなかっただろ!」
アーグは一瞬だけ驚いた顔をした。
それから、小さく笑った。
「……そうかもしれんな」
シエルは、完成した絵を一枚ずつ眺めていた。
「……みんな、違うね」
「うん」
俺は頷いた。
「みんな、それぞれ好きなものがあるからな」
シエルは、小さく微笑んだ。
「……いいね」
その時。
最初に申し込んでくれた女の子が、リアの前へやって来た。
「リアさん!」
「はい?」
女の子は、描いた花の絵を大事そうに持っている。
「……また、描いてもいいですか?」
リアが目を見開いた。
「……え?」
「今日、すごく楽しかったから」
女の子は、少し照れくさそうに笑った。
「おうちでも、描いてみたいです」
リアは、しばらく何も言わなかった。
そして。
「……もちろんです」
優しく、そう答えた。
「好きな時に、好きなものを描いてください」
「うん!」
女の子は嬉しそうに頷き、絵を抱えて帰っていった。
ほかの二人も、自分の作品を大切そうに持ち帰る。
その背中を、リアはいつまでも見送っていた。
「……先生」
「ん?」
「私……やってよかったです」
その声は、少し震えていた。
でも、今度は不安からじゃない。
嬉しさからだった。
「……私の絵じゃなくて、みんなが自分の絵を好きになってくれたのが、嬉しいです」
俺は笑った。
「それが、リアのやりたかったことだろ?」
「……はい!」
リアは、大きく頷いた。
たった三人の、小さなお絵描き教室。
街の経済が変わったわけじゃない。
カルテルの影響が消えたわけでもない。
ロザリア女王との勝負だって、まだ何も決まっていない。
だけど。
今日、三人が自分の手で絵を描いた。
そして、そのうちの一人は、家でも描きたいと言ってくれた。
それだけで、十分だった。
『……一本の線から、始まったわけか』
ゴルドスが静かに呟いた。
「そうだな」
俺は、空になった机を見つめた。
まだ何も、大きなことはできていない。
でも。
ここから何かが広がっていくかもしれない。
「……次は、もっといろんな人に描いてもらいたいな」
俺が呟くと、アーグがすかさず言った。
「予算を確認してからだ」
「分かってるって!」
セラが笑い、シエルも笑った。
リアは、三人が座っていた机を見つめながら、小さく微笑んでいる。
革命は、まだ始まったばかり。
だけど、その最初の一本は。
確かに、誰かの心へ届いたのだった。




