リア覚醒
「締め切りは、一週間後だ!」
オタクミ編集長の非情な宣告から、数日が過ぎた。
カフェの地下は、完全にリアの専用工房……いや、「修羅場」と化していた。
床には描き損じで丸められた羊皮紙が山をなし、壁一面にはミスティアの名場面を模写したスケッチがびっしり貼られている。
机の上は、インク壺・羽ペン・消しカス・よだれの染みで埋め尽くされ、カオスの坩堝。
主役であるはずのリアは、机に突っ伏し、インクまみれの手で頭を抱えていた。
「うぅ……だめです……描けません……」
彼女の前に広げられた羊皮紙には、ただ四角い枠が引かれているだけ。
オタクミが熱弁していた「漫画」という表現方法――そしてその根幹をなす「コマ割り」という概念が、天才絵師リアの前に、巨大な壁として立ちはだかっていたのだ。
(物語を、絵で、順番に……それは分かります。でも、この『枠』は何なのでしょう……?)
(この枠の中で騎士様が剣を構えて、次の枠で敵を斬る……その“間”は? 読んでいる人にはどう伝わるのでしょう? 枠線の太さや形で、感情を表現……? そんなこと、考えたこともありませんでした……!)
リアは混乱していた。
美しく描くことはできる。しかし、面白く「語る」ことができない。
「違うぞ、リア!」
背後からオタクミ編集長の檄が飛ぶ。
「コマの“間”を読ませるんだ! 読者の視線を右上から左下へとスムーズに、しかしドラマチックに誘導する! ページをめくった瞬間に決めゴマが目に飛び込んでくる、このカタルシス! これが漫画の醍醐味なんだ!」
『いや、お前も描く方は素人だろ!』と、ゴルドスが即ツッコミ。
だが、熱弁も抽象的すぎて、追い詰められたリアにはプレッシャーにしかならなかった。
その筆は、完全に止まってしまった。
その日の昼下がり。
リアは重い足取りでカフェの地上階へ。週に一度の「お絵描き教室」の時間だった。
本当は休みたい。だが彼女を待っている生徒たちの顔を思い浮かべると、どうしても足を運ばずにはいられない。
「リア先生、こんにちは!」
「今日は何を教えてくれるの?」
子供たちや街の人々のキラキラした瞳を前にして、リアは悩みをひとまず胸の奥へ押しやった。
その日の授業中。
一人の生徒――例の衛兵の男が、照れくさそうに一枚の羊皮紙を差し出してきた。
そこには、三つの絵。
① 衛兵姿の男が街角で一匹の猫と出会う。
② 男が猫に干し魚をあげる。
③ 猫が足元にすり寄ってくる。
線は拙く、構図もバラバラ。コマ割りなど、もちろんない。
だが、それは確かに、一つの心温まる「物語」になっていた。
「先生、どうだろうか。俺も、あんたたちの新聞みたいに、物語を描いてみたくてな」
その瞬間、リアの心の霧がすっと晴れていく。
(そうだった……。そうですよね……)
(私、難しく考えすぎていたんだ。オタクミ先生の言う“文法”や“技術”に囚われすぎていた……)
(大事なのは――伝えたい、という気持ち!)
「……とても、素敵です!」
リアは心からの笑顔で応えた。「あなたの優しさが、この絵から、ちゃんと伝わってきます!」
その夜。
お絵描き教室を終えたリアは地下へ戻ってきた。もう迷いはなかった。
彼女は、技術論をいったん忘れることにした。
頭の中に浮かぶのは、自分が描きたい物語だけ。
以前から構想していた――男体化ミスティアと男体化オタクミ。
出会い、反発し、そして共に戦う熱き物語。
「伝えたい……この想いを!」
筆が走り出す。
コマ割りなんて考えない。物語の流れのままに自然と枠が生まれ、キャラクターの感情のままに線がほとばしる。
仲間たちは息をのんで見守った。
「……すごい。今の彼女、完全にゾーンに入ってるわ!」
セラが呟く。
「リアさんの“魂の響き”が……キラキラして、見えます!」
シエルの瞳も輝いていた。
オタクミは、ただ涙ながらにその姿を見ていた。
(ああ……これだ……! これこそが、クリエイターが神になる瞬間! 彼女は俺の教えを超え、自分だけの文法で物語を紡いでいる……!)
そして締め切り当日の朝。
地下工房は、インクと情熱と徹夜の匂いで満ちていた。
セラはポーションをカフェイン代わりに一気飲みし、アーグは計算用紙を抱えたまま床で気絶。シエルはぴーちゃんを子守歌代わりに原稿を見守っていた。
机の上には、羊皮紙の山――だが、その最上段にある一冊は、明らかに違っていた。
リアは最後のページにペンを入れる。
「……できました」
インクで汚れた顔に深いクマ。それでもその表情は、達成感に満ちていた。
オタクミが震える手で原稿の束を手に取る。
最終ページには、男体化ミスティアとオタクミが力強く握手する姿。
「互いの存在を認め合い、これからも共に歩む」というテーマを象徴する一枚だった。
「“原稿”……確かに受け取りました! ……あんたは神絵師や……!!あとは任しときぃ!」
それは、勝利宣言だった。
彼らは、この世界で最も恐ろしい悪魔――「締め切り」との戦いに、確かに勝利したのだ。
一行は、完成したばかりの、まだインクの匂いが残る自分たちの「本」を囲み、言葉にならない感動に、ただ打ち震えるのだった。




