小さな光を集めて
翌朝。
カフェ『KIRABOSHI』のテーブルには、アーグが持ち帰った書類が広がっていた。
仕入れ価格の一覧。
取引を見合わせたいという商人からの返事。
今後の製作に必要な材料の数。
そして、どれもこれも、見ているだけで胃が痛くなる数字ばかりだ。
「……数字って、こんなに人を傷つけるものだったんだな」
「お前が今まで目を逸らしていただけだ」
アーグが容赦なく言った。
「もう少し優しくしてくれない!?」
「優しくして材料が増えるなら、いくらでもそうする」
「ぐうの音も出ない!」
俺は椅子の背にもたれた。
昨日、市場で聞いた歌が頭から離れない。
小さな板を有難がる愚か者。
飾り物に金を使う物好き。
あの歌を笑いながら聞いていた人たちの顔まで、思い出してしまう。
隣では、リアが使いかけの紙を丁寧に揃えていた。
新しい画材の値段が上がったと聞いてから、少しでも無駄にしないようにしているらしい。
セラは腕を組んで窓の外を眺め、シエルはぴーちゃんを膝に乗せている。
いつもなら誰かが騒ぎ始める時間なのに、今日は静かだった。
「現状を整理するぞ」
アーグが書類を一枚、引き寄せた。
「在庫はある。取引を続けてくれる商人も残っている。ギルドの通常利用もできる」
「じゃあ、まだ何とかなるんじゃ?」
「今までと同じ規模で続けようとすれば、すぐに行き詰まる」
「……ですよね」
「材料を高値で買い続ければ利益が消える。無理に価格を上げれば、買える人が減る。だからといって、品質を落とすのも難しい」
アーグが指で書類を叩く。
「今までの取引先と公的な協力だけに頼る方法では、厳しい」
「……完全に囲まれてるみたいね」
セラが呟いた。
「そう見える。ただし、誰がどこまで関わっているかは分からない」
アーグは慎重に言った。
「確かなのは、今のやり方を続けるだけでは勝ち目が薄いということだ」
セラは少し黙ってから、俺たちを見渡した。
「……一度、活動を縮小することも考えた方がいいかもしれないわね」
「えっ!?」
「やめろって言ってるんじゃないわよ。材料が高いなら、無理に作り続けない。落ち着くまで待つのも手でしょ?」
正論だ。
分かっている。
けれど、リアが揃えた紙の束を見た時、胸の奥がちくりと痛んだ。
「……待ってる間、みんなはどうするんだ?」
「どうするって?」
「リアは描きたいって言ってた。シエルは歌いたいって言ってた。俺も、まだ作りたいものが山ほどある」
「気持ちは分かるわ」
「でも、材料がなければ何もできない……か」
言葉にした途端、情けなくなった。
金がない。
材料がない。
場所も借りにくい。
まるで、好きなことを続けるには、誰かの許可が必要だと言われているみたいだった。
『……人の心が先に折れれば、道具が残っていても何も生まれぬ』
ゴルドスが低く呟いた。
「……ゴルドス?」
『昨日まで描けていた者が、今日は描く気力を失う。歌えていた者が、声を出すことを恐れる。それが何より厄介だ』
リアの手が止まった。
シエルも顔を上げる。
俺は、テーブルの上のアクスタを見た。
ミスティア様は、いつもどおり美しかった。
なのに、俺の頭の中は暗いことばかりだ。
「……ん?」
不意に、何かが引っかかった。
暗い。
希望がない。
好きなことをする気力まで奪われる。
それって、どこかで――。
「…………あ」
思い出した。
次の瞬間、俺は思わず笑っていた。
「……ふっ」
「先生?」
「ふふ……はははっ!」
「オタクミ!?」
セラが目を丸くする。
「ちょっと、大丈夫!? 数字の見すぎで壊れた!?」
「違う! 違うんだ!」
俺は勢いよく立ち上がった。
「俺たち、何か大事なことを忘れてた!」
アーグが眉をひそめる。
「何だ?」
「答えなら、とっくにミスティア様が教えてくれてたんだよ!」
『……また始まったぞ』
「ゴルドス! 今回は本当に大事な話だ!」
『毎回そう言っておる』
「今回は特に!!」
◇
「『輝星のルミナス』第十八話!」
俺はテーブルに両手をついた。
「名エピソード、『絶望結界』の回だ!」
「……絶望結界?」
リアが首を傾げる。
「そう!」
俺は大きく息を吸った。
「敵の四天王が街全体を結界で覆って、人々から希望を奪うんだ。笑顔が消えて、誰もが『どうせ無理だ』って諦めてしまう!」
「……昨日の私たちみたいね」
セラが小さく言った。
「そうなんだよ!」
俺は勢いよく頷く。
「ルミナスたちも、最初はどうにもできない。敵を倒そうとしても、人々の絶望が力になって、結界が強くなるんだ!」
「それは厄介だな」
アーグが顎に手を当てる。
「で、どうやって勝った?」
「そこが最高なんだ!」
思い出しただけで胸が熱くなる。
「一人の少女がいるんだ。特別な力なんて持ってない、本当に普通の女の子」
俺は指を一本立てた。
「その子が、ポケットからチョークを取り出す!」
「……チョーク?」
「そう! しかもそれ、第十八話で突然出てきた道具じゃないんだよ!」
『話が長くなる予感しかしない』
「第十八話を語るなら、第三話から説明しないと駄目なんだ!」
「ほら始まった」
セラが呆れた顔をした。
だが、俺は止まらない。
「第三話で、その女の子はミスティア様に助けられるんだ。で、別れ際に、自分の大事なチョークをお守りみたいに握り締めてる場面がある!」
「……それが、あとで出てくるんですか?」
リアが身を乗り出した。
「そう! 十五話越しの伏線回収!」
俺は天井を仰いだ。
「あの時の制作陣、天才だろ! 何気なく映ったチョークが、あんな形で――!」
俺は思わず両手を広げた。
「しかも第三話では、あのチョークが特別な魔法道具だなんて、一言も説明されないんだ! 何でもない小道具だと思わせておいて、第十八話で人々の希望をつなぐきっかけになる! これが伏線回収の美学だろ!?」
「先生、続きを!」
「はい!」
リアの一言で、俺は我に返った。
「絶望結界の中で、その少女が地面にミスティア様を描くんだ。震える手で、一生懸命に」
少女は絵が上手いわけじゃない。
線は曲がっている。
顔の形だって、少しおかしい。
でも、少女は覚えていた。
自分を助けてくれた人の笑顔を。
「それで、その子が言うんだ。ミスティアは、絶対に諦めないって」
自分の声が、少し震えた。
「その絵を見て、隣にいた子供が主題歌を口ずさむんだよ」
「……歌?」
シエルが顔を上げた。
「うん。最初は小さな声。でも、それを聞いた別の子も歌い始める」
俺は目を閉じた。
あの場面の映像が、今でもはっきり浮かぶ。
暗い街。
地面に描かれた、不格好なミスティア様。
小さな歌声。
窓から顔を出す人。
壁に絵を描き始める子供。
それぞれが覚えている、ルミナスたちの姿。
「誰かが絵を描く。誰かが歌う。別の誰かが、覚えている言葉を口にする」
俺は、ゆっくりと続けた。
「そうやって、小さな光が増えていくんだ」
リアは黙って聞いていた。
シエルも、ぴーちゃんを撫でる手を止めている。
「一人の希望は小さい。でも、集まったら街を覆うほど大きくなった」
俺は拳を握った。
「そして、絶望結界が崩れる! 人々の想いがルミナスたちに届いて、ついに逆転するんだ!」
「……なるほど」
アーグが静かに頷いた。
「武器でも資金でもなく、人々自身が動いたのか」
「そう!」
俺は勢いよく頷いた。
「しかも、最初のきっかけは一本のチョークだぞ!?」
改めて考える。
一本のチョーク。
たった一人の少女。
それだけで、街の空気が変わり始めた。
……そうだ。
俺が好きだったのは、そういう話だった。
◇
「……でも、先生」
リアが遠慮がちに口を開いた。
「それは、物語の中のお話ですよね?」
「うん」
「私たちのところには、希望を集めたら消える結界はありません」
「そのとおり!」
俺は頷いた。
「だから、同じ奇跡が起こるとは思ってない」
今の俺たちに必要なのは、魔法じゃない。
仕入れ先の問題も、ギルドの支援も、現実に困っていることばかりだ。
「でもさ、リア」
「はい?」
「絵を描くのに、必ず新しい画材を山ほど買わなきゃ駄目かな?」
リアが目を瞬いた。
「……いえ。紙と、描くものがあれば」
「だったら、小さく始められるんじゃないか?」
「小さく?」
「みんなで絵を描くんだよ!」
俺はテーブルの上にあった紙を一枚取った。
「まずは『KIRABOSHI』みたいな小さな場所で、描きたい人が集まって、リアと一緒に絵を描くんだ。誰かに教わるだけじゃなく、みんなで好きなものを描ける場所にしたい!」
「……お絵描き教室、ですか?」
「そう! リアのお絵描き教室みたいに!」
リアの目が大きくなった。
「私が、教えるんですか?」
「教えるっていっても、難しく考えなくていい。まずは一緒に描くところからさ」
俺は笑った。
「リアが描くのを楽しんでる姿を見たら、自分も描きたくなる人がいるかもしれないだろ?」
「……!」
リアは手元の紙を見つめた。
それから、少しずつ笑顔になっていく。
「私、上手く教えられるか分かりませんけど……」
「俺だって、最初から上手く布教できたわけじゃない!」
「今も上手くできているかは怪しいわよ」
「セラ!?」
「でも……面白そうね」
セラは、今度は笑っていた。
「大きな会場を借りられなくても、少人数ならできるかもしれないもの」
「だろ!」
俺は頷いた。
「それに、ルミナス通信だってある!」
アーグが顔を上げる。
「紙の値段は上がっているぞ」
「分かってる。だから、前と同じ数を刷る必要はないんだ」
「……ほう?」
「少しだけ作って、読んだ人が誰かに見せてくれたらいい。記事を読んだ人が、今度は自分の好きなものを教えてくれてもいい」
俺は、創刊号を手に取った。
「俺たちだけで全部作ろうとしなくても、いいんじゃないかな」
アーグが腕を組んだ。
しばらく考え込む。
「……なるほど」
「何か思いついた?」
「大きな工房や既存の流通網に頼らず、個人同士のつながりで活動を広げる、ということか」
「そう! ……たぶん!」
「そこは自信を持て」
「だって、難しい言葉で説明されると分かんなくなる!」
アーグは小さく笑った。
「だが、考え方としては悪くない」
そして、すぐに真剣な顔へ戻る。
「すぐに売上へ結びつくとは限らない。だが、材料や大きな施設に頼らず、人とのつながりを増やす方法にはなる。今の俺たちでも試せる可能性がある」
「……うん!」
「もちろん、これだけで材料不足が解決するわけじゃない。費用もかかる。無理のない方法を考える必要がある」
「うん」
「それに、市場勝負の正式条件もまだ決まっていない」
「分かってる」
俺は頷いた。
「でも、何もしないで待つよりはいいだろ?」
「ああ」
アーグが、はっきり頷いた。
「まずは、続けられる規模を見極めよう」
その言葉を聞いて、胸が少し軽くなった。
◇
「……先生」
今度は、シエルが口を開いた。
「そのお話の女の子、歌った子も……普通の子だったの?」
「うん。特別な力はなかったよ」
「……そっか」
シエルは、膝の上のぴーちゃんを見つめた。
「……私も、誰かが嬉しくなる歌を歌いたい」
その声は小さかった。
でも、昨日より少しだけ、はっきりしていた。
「うん」
俺は笑った。
「きっと、できるよ」
シエルは頷いた。
まだ人前で歌う予定が決まったわけじゃない。
何か特別な力が生まれたわけでもない。
ただ、自分がどんな歌を歌いたいのか。
その気持ちが、少しだけ形になった気がした。
リアも、手元の紙を見つめながら言った。
「……私、描いてみたいです」
「何を?」
「みんなで描く時に、最初に見せる絵です」
「おお!」
「上手く描こうとしなくていいって、伝わるようなものを」
「最高じゃないか!」
セラは肩をすくめた。
「じゃあ私は、どこでできるか考えてみようかしら。ギルドの後援がなくても使える場所、探せばあるかもしれないし」
「頼もしい!」
アーグは書類を引き寄せた。
「俺は必要な紙と道具の量を調べる。使える予算も確認しよう」
「数字……!」
「お前も一緒に確認するんだぞ」
「はい!」
『少しは学んだようだな』
「ゴルドス、俺だって成長するんだよ!」
『その成長が持続することを願う』
「信用ないな!?」
みんなが笑った。
ほんの少し前まで、あんなに重かった店の空気が、少しだけ明るくなっていた。
何も解決していない。
材料は足りない。
使える場所も限られている。
俺たちを笑う歌だって、きっと今も市場で流れている。
それでも。
リアは紙を広げた。
アーグは数字を確かめ始めた。
セラは使えそうな場所を思い浮かべている。
シエルは、小さく鼻歌を口ずさんでいた。
俺は、ミスティア様のアクスタを持ち上げた。
「……ミスティア様」
あの第十八話で、少女が描いた一枚の絵。
それは、敵を倒す武器じゃなかった。
立派な商品でもなかった。
でも、人の心を動かした。
俺たちにも、できることがある。
小さくても。
不格好でも。
誰かの『好き』を、誰かへ渡していくことなら。
「……よし!」
俺は拳を握った。
「一本のチョークからだって、革命は始められる!」
「革命って、ずいぶん大きく出たわね」
セラが笑う。
「だって、最初から小さくまとまってたら、五十メートルのミスティア様には届かないだろ!」
「結局そこ!?」
アーグが頭を抱えた。
『せっかく良い話になっておったのに……』
「良い話のままだろ!?」
リアが笑い、シエルも小さく微笑んだ。
大きな資本も、立派な工房も、今の俺たちにはない。
それでも、一本の線を引くことはできる。
誰かがそこへ、もう一本の線を重ねるかもしれない。
それが続けば、いつか大きな絵になる。
俺はまだ、その絵の完成形を知らない。
でも。
今度は、みんなで描いてみたいと思った。




