静かなる経済戦争の始まり
ロザリア女王がラザリスを去った、翌朝。
カフェ『KIRABOSHI』の空気は、いつになく重かった。
「……五十メートル」
俺はテーブルに突っ伏したまま呟いた。
「まだ言ってるの?」
セラが呆れた声を出す。
「だって、五十メートルだぞ? 王都の中央広場に、五十メートルのミスティア様!」
「自分で言い出したんでしょうが」
「そうなんだけど!」
昨夜から何度も想像してしまう。
巨大なミスティア様が、王都の空を背に堂々と立つ姿。
太陽の光を浴びて輝く御姿。
それを見上げる人々。
ああ、尊い。
想像だけで寿命が延びそうだ。
『実現したら、王都の景観が一変するであろうな』
「だろ、ゴルドス!」
『褒めてはおらん』
「知ってた!」
俺が身を起こすと、リアが心配そうに尋ねた。
「先生、あの勝負……本当に大丈夫なんでしょうか?」
「大丈夫!」
即答した。
そして、少しだけ考える。
「……たぶん」
「たぶん!?」
セラが眉を上げた。
「そもそも、まだ正式な条件だって決まってないじゃない」
「そうなんだよな」
市場で勝負することには合意した。
でも、何をもって勝ちとするかは決めていない。
ロザリアが欲しがったタクミ・ブレイザーについても、譲る約束なんてしていない。
『拙者を勝手に賭けるなよ』
「分かってるって!」
『その返事は昨日も聞いた』
「今回はちゃんと考えてる!」
アーグは朝から出かけていた。
勝負条件を整理し、今後の仕入れや販売について確認するためだ。
だから俺たちは、店で帰りを待っている。
……落ち着かない。
「なあ、セラ」
「何?」
「経済戦争って、具体的に何をすればいいんだ?」
「それを私に聞く?」
「剣で戦うなら分かりやすいんだけど」
『その剣を使いこなしているかどうかは別の話だがな』
「ゴルドス!」
そんなやり取りをしていた時だった。
カラン、と店の扉が開く。
アーグが戻ってきた。
しかし、その表情を見た瞬間、俺は口を閉じた。
「……アーグ?」
いつもの冷静な顔。
だが、眉間には深い皺が刻まれていた。
手には、何枚もの書類。
「みんな、少し話がある」
その声で分かった。
何かが起きたのだ。
◇
「……取引停止?」
俺は、アーグの言葉を繰り返した。
「ああ」
アーグは書類をテーブルに並べた。
「これまで材料を融通してくれていた商人のうち、複数が取引を見合わせたいと言ってきた」
「え? なんで?」
「理由はそれぞれ違う。品薄、仕入れ価格の高騰、他の取引先との契約変更……」
「だったら、別の店に――」
「それも確認した」
アーグが首を振った。
「似たような返答ばかりだ」
セラが書類を手に取る。
「……偶然にしては、重なりすぎじゃない?」
「俺もそう思う」
アーグは静かに答えた。
「取引条件の変更を検討していた商人もいるらしい。今日突然、全員が方針を変えたわけではなさそうだ」
「……じゃあ、女王様が昨日のうちに命令したってことじゃないのか?」
「そこまでは分からない」
アーグは俺を見た。
「以前から動いていたのか、昨日の謁見を受けて動いたのか。誰が指示したのかも、まだ確認できていない」
「……そっか」
「ただ、取引先に同じ方向の圧力がかかっている可能性は高い」
俺は、机の上の書類を見つめた。
「……それって、アクスタが作れなくなるってこと?」
「今ある分は作れる。だが、このままでは継続が難しい」
俺たちのアクスタは、スライム由来の素材を加工して作っている。
スライムそのものが世界から消えたわけじゃない。
問題は、その素材を透明な板へ加工するために必要なものや、仕上げに使う道具だった。
「加工用の資材が入らない。仕上げの部品も、以前の価格では買えない。包装材まで入手しづらくなっている」
「包装まで!?」
「遠方へ届けるなら、なおさら必要だ」
アーグの声は淡々としていた。
でも、その説明を聞くほど胸が重くなった。
つい昨日まで、俺は女王様の言う『流通の力』を、少し大げさな話だと思っていた。
材料が足りなければ、買いに行けばいい。
店が駄目なら、別の店へ行けばいい。
そんなふうに考えていた。
だけど。
行く先々で同じことを言われたら?
「……そんなの、ずるいだろ」
思わず声が漏れた。
アーグは否定しなかった。
「それだけじゃない」
「……まだあるの?」
リアが小さく尋ねる。
アーグは彼女を見た。
「画材を扱う店も、仕入れ先から値上げを通告されたそうだ」
「……え?」
リアの顔から笑顔が消えた。
「紙も、顔料も、ですか?」
「全部ではない。ただ、普段使っているものの一部は影響を受ける」
リアは自分の指先を見つめた。
その手は、今まで何枚もの絵を描いてきた手だ。
『はしれ!ぴーちゃん』も、ルミナス通信の挿絵も。
痛馬車輝号に描かれたミスティア様も。
「……描けなくなるんでしょうか」
その声が、あまりに小さかった。
「リア」
「私、まだ描きたいものがたくさんあるんです」
リアは顔を上げた。
「でも、紙がなかったら……」
「大丈夫だ!」
反射的に言った。
「紙くらい、俺が何とか――」
「どうやって?」
セラが静かに尋ねた。
「……え?」
「先生が何とかするって言えば、紙が増えるの?」
責めるような声ではなかった。
だからこそ、答えられなかった。
「……ごめん」
俺は、リアを見た。
「すぐに解決できるとは言えない。でも、描くのを諦めなくて済む方法は、一緒に探したい」
リアは少し驚いた顔をした。
それから、小さく頷いた。
「……はい」
◇
昼前。
さらに悪い知らせが届いた。
「……申し訳ない」
『KIRABOSHI』を訪ねてきたギルドマスターは、開口一番そう言った。
「どうしたんですか?」
俺が尋ねると、ギルドマスターは重々しく答えた。
「これまで協力できていた活動について、今後は制限がかかることになった」
「……制限?」
「ギルドの公的な後援や、優遇条件での施設の貸し出しだ。広報への協力も、今までどおりにはできん」
アーグが顔を上げた。
「上からの通達ですか?」
「……詳しい事情は話せん。ただ、ギルドとして従わざるを得ない決定だ」
その言葉で、また胸が冷えた。
「じゃあ、今後イベントを開こうと思っても……」
「少なくとも、ギルドの後援を受けて開催するのは難しい。以前と同じ条件では施設も使わせてやれん」
「……ギルドに入るのも駄目になるんですか?」
「いや、そういう話ではない」
ギルドマスターは首を振った。
「通常の依頼や取引まで禁止する通達ではない。民間での活動をギルドが取り締まるという話でもないんだ」
「……じゃあ、俺たちが何かを作ったり売ったりするのは?」
「そこまで止める権限はない。ただ、ギルドの看板を使った協力は難しくなる」
俺は唇を噛んだ。
全部を取り上げられるわけじゃない。
でも、今まで当たり前のように頼れていた場所が、一つ遠くなってしまった。
「お前たちが何をしてきたか、俺は知っている。街を賑やかにしてくれたこともな」
「……それなら」
「だが、俺個人の考えだけでギルドを動かすわけにはいかん」
俺は口を閉じた。
怒鳴っても、どうにもならない。
この人も、好きで断りに来たわけじゃないのだろう。
シエルが、そっとセラの服をつかんだ。
「……歌う場所も、なくなるの?」
セラはしゃがんで、シエルの顔を見た。
「まだ歌う場所を決めていたわけじゃないわ。でも、使える場所は減るかもしれない」
「……そっか」
シエルが俯く。
以前なら、何も言わず黙り込んでいたかもしれない。
でも、今日は小さく口を開いた。
「……歌、練習してるのに」
その言葉を聞いて、胸が痛んだ。
歌うための場所を探す。
誰かに聞いてもらう機会を作る。
そんな当たり前に思えたことさえ、簡単ではなくなっていた。
「……すまんな」
ギルドマスターは、もう一度頭を下げた。
俺は慌てて首を振った。
「頭を上げてください。事情は分かりました」
分かった。
でも、納得できたわけじゃない。
◇
午後。
俺たちは、必要なものを探しに市場へ出た。
いつもなら人の声で賑わうラザリスの通り。
けれど、今日は別の声が聞こえていた。
弦楽器の音。
それに合わせた、軽快な歌声。
「……吟遊詩人?」
俺は足を止めた。
広場の一角で、数人の吟遊詩人が演奏している。
最初は、ただの流行歌だと思った。
だが、歌詞が耳に入ってきた瞬間、俺は眉をひそめた。
小さな板を有難がる人々。
絵に夢中になり、金を無駄にする若者。
働きもせず、飾り物に心を奪われる愚か者。
「……何だよ、それ」
明らかに、俺たちのアクスタを揶揄していた。
周囲の人々が笑っている。
ただ面白がっている人もいる。
困ったように顔を見合わせている人もいる。
「あれって、最近流行ってるやつだろ?」
「高い金を出して集める人もいるらしいな」
「そんなに価値があるのかねぇ」
声が、次々に聞こえてくる。
俺は思わず前へ出かけた。
「ちょっと待――」
「オタクミ」
アーグが腕をつかんだ。
「今、飛び込むな」
「でも!」
「相手があの歌を広めたいなら、騒ぎになればなるほど都合がいい」
「……っ」
悔しかった。
ミスティア様のアクスタを好きになってくれた人もいる。
リアの絵を見て、笑顔になってくれた人もいる。
それを全部、馬鹿にされたような気がした。
隣で、リアが俯いている。
「……私たち、そんなに変なことをしてたんでしょうか」
「違う!」
今度は、迷わず答えた。
「リアの絵を見て喜んでくれた人がいた。それは本当だろ?」
「……はい」
「だったら、あの歌だけが全部じゃない」
リアは小さく頷いた。
その少し後ろで、シエルが吟遊詩人たちを見つめていた。
「……歌って」
ぽつりと呟く。
「楽しい気持ちに、なるものだと思ってた」
セラがシエルの隣へ立った。
「そういう歌もあるわ」
「……でも、あれは」
「誰かを笑いものにするためにも、使えるのよ」
シエルは、しばらく何も言わなかった。
それから、小さく首を振った。
「……私は、ああいう歌は嫌」
セラは静かに頷いた。
「うん」
それ以上は言わなかった。
シエルも歌い出さなかった。
ただ、吟遊詩人たちの歌を、じっと聞いていた。
俺は思った。
歌も、絵も、アクスタも。
人を笑顔にできる。
でも、使い方によっては、人を傷つけることもできるのだ。
◇
夕方。
『KIRABOSHI』へ戻った俺たちは、いつもの席に集まった。
店の中には、少しだけ客がいた。
けれど、普段より会話が少ない気がした。
常連の一人が、俺たちの様子を見ながら声をかけてくる。
「……あのさ。ルミナス通信、次も出すのかい?」
「え?」
「いや、最近いろいろ聞くからさ。大丈夫なのかなって」
俺は、すぐには答えられなかった。
次も出したい。
もちろん出したい。
でも、紙の値段は上がっている。
印刷の手配だって、どうなるか分からない。
「……まだ、はっきりとは言えません」
そう答えると、常連客は少し残念そうな顔をした。
「そうか……」
そして、小さく笑った。
「次のぴーちゃん、楽しみにしてたんだけどな」
リアが顔を上げた。
「……ありがとうございます」
常連客は頷き、席へ戻っていった。
俺は、その背中を見送った。
不安は広がっている。
だけど。
まだ、楽しみにしてくれている人もいる。
アーグが、テーブルに書類を置いた。
「……状況は厳しい」
誰も否定しなかった。
「材料の仕入れは不安定。公的な協力も期待できない。評判にも影響が出始めている」
「……全部、一気に来たわね」
セラが呟く。
「偶然とは考えにくい」
アーグは頷いた。
「だが、ロザリア陛下本人の命令なのか、カルテル側が動いているのかまでは分からない」
「……どっちにしても」
俺は拳を握った。
「俺たちが困ってるのは、変わらないよな」
「ああ」
リアは手元の下描きを見つめていた。
シエルは、ぴーちゃんをそっと撫でている。
セラは考え込むように腕を組んでいた。
みんな、疲れている。
俺も、正直怖かった。
剣を抜いて戦う相手なら、まだ分かりやすい。
でも、店から材料が消える。
使える場所が減る。
好きなものを笑われる。
そんな攻撃を、どうやって防げばいい?
「……なあ、みんな」
俺は顔を上げた。
「俺、まだ何をすればいいか分からない」
アーグがこちらを見た。
「でも、これだけは分かる」
俺はテーブルに置かれた、ミスティア様のアクスタを手に取った。
「俺たちが好きで作ったものを、好きでいてくれた人がいる」
リアを見る。
「リアの漫画を待ってる人もいる」
セラを見る。
「セラの記事を読んで、店へ足を運んでくれた人もいる」
シエルを見る。
「それに、これから歌を聞かせたい相手だって、きっといる」
シエルが小さく顔を上げた。
「……うん」
「だから、まだ終わりじゃない」
俺はアクスタを、そっとテーブルへ戻した。
「ロザリア陛下が言ってた『価値を証明しろ』って言葉。今なら少し分かる気がする」
アーグが尋ねる。
「……どういう意味だ?」
「売上だけじゃないってことを、ちゃんと見てもらいたいんだ」
俺は、店の中を見渡した。
不安そうにこちらを見ている常連客。
壁に飾られた、小さな絵。
テーブルの上のアクスタ。
そして、一緒にここまで来た仲間たち。
「まだ方法は分からない。でも、諦めたら、それこそ何も残らないだろ?」
リアが、ゆっくりと頷いた。
「……私、まだ描きたいです」
セラが小さく笑う。
「そうね。私も、こんなところで終わるのは嫌」
シエルは少し迷ってから、口を開いた。
「……私も、歌いたい」
アーグは、俺たちを見回した。
そして、静かに頷く。
「なら、まずは今できることを整理しよう。感情だけで動けば、相手の思うつぼだ」
「……うん!」
俺は大きく息を吸った。
今日一日で、何もかもが変わってしまったように感じる。
だけど。
目の前のアクスタは、昨日と同じように輝いていた。
値札が変わっても。
誰かに笑われても。
俺がミスティア様を好きな気持ちは、変わらない。
「……絶対、負けないからな」
誰に聞かせるでもなく、俺は呟いた。
静かな経済戦争は、もう始まっていた。
そして俺たちは、まだ反撃の方法さえ知らなかった。




