はじめてのお留守番
シエルが一行に加わってから、数日が経った。
ラザリスでの暮らしは、彼女にとってまだ何もかもが新しかった。
朝になれば誰かが起きる音がして、食事の匂いがする。昼になれば、リアが何かを描いていたり、アーグが紙を広げて数字を確認していたり、セラが道具を手入れしていたりする。
そしてオタクミは、だいたいうるさい。
「よし! 今日は市場へ行くぞ!」
「ほら」
セラが言った。
「何が!?」
「うるさい」
「朝の元気な挨拶だろ!」
「市場へ行くぞ、が挨拶なの?」
シエルは少し離れたところで、そのやり取りを眺めていた。
もう驚かなくなった、とはまだ言えない。
けれど最初に会った頃ほど、オタクミが急に大声を出すたび身を固くすることは減っていた。
「今日は制作に使う物と、生活用品の買い足しです」
リアが荷物を確認しながら説明する。
「私も紙を見たいですし」
「食料も見ておきたい。人数が増えた分、少し量を調整する必要がある」
アーグが続けた。
「人数が増えた」
シエルが小さく繰り返す。
「はい。シエルちゃんの分もありますから」
リアは当たり前のように笑った。
その言葉が、まだ少し不思議だった。
自分の分。
食事も。
寝る場所も。
使う布も。
誰かが、最初から数に入れている。
「準備できた?」
セラに声をかけられ、シエルは顔を上げた。
「……どこに?」
「市場」
「市場……」
その一言で、胸の奥が固くなった。
人が多い場所。
知らない声。
知らない顔。
近くを通る誰かが、こちらを見るかもしれない。
それだけのことなのに、喉が少し狭くなる。
「……」
シエルは無意識に、ぴーちゃんの羽へ指を伸ばしていた。
肩に止まったぴーちゃんが首を傾げる。
「市場」
「言わなくていいよ……」
鳥がもう一度、
「市場」
と返した。
「シエルちゃん?」
リアの声で、はっとする。
「顔色、少し悪いです」
「……大丈夫」
反射的にそう答えた。
でもリアはすぐには頷かなかった。
セラもシエルの顔を見る。
「人が多いところ、嫌?」
シエルはしばらく迷ったあと、小さく頷いた。
「……ちょっと」
「じゃあ今日は残る?」
「え」
「無理して来られる方が、こっちも気を使うし」
セラはいつも通りの顔で言った。
「買う物も多いから、どうせゆっくり歩けないわよ」
「でも……私だけ」
「残っていいですよ」
リアが言う。
「ぴーちゃんと一緒なら寂しくないですし」
「……いいの?」
「もちろん」
あまりにも普通に返されて、シエルは言葉に詰まった。
オタクミも頷く。
「よし。では本日、シエルには重要任務を任せる!」
セラが嫌そうな顔をする。
「始まった」
「留守番隊長!」
「……隊長?」
「そう! 俺たちの拠点を守る、非常に重要な役職だ!」
『単に留守番ではないか』
「ゴルドス、夢のないこと言うな!」
シエルは目を瞬いた。
「守る……?」
「怪しい奴が来たら無理に戦わなくていい! 扉を閉める! 危なかったら逃げる! それが最優先!」
「守るんじゃないの?」
「自分の安全を守るんだよ!」
セラが少しだけ笑う。
「そこはまともなのね」
「当然!」
オタクミは胸を張った。
「あと何も起きなかったら、それが一番偉い!」
シエルは少し考えた。
「……じゃあ」
「うん?」
「留守番、する」
「任せた!」
オタクミが勢いよく親指を立てた。
シエルも真似しようとして、途中でよく分からなくなり、結局小さく手を上げた。
「……がんばる」
◇
一行が出ていくと、急に静かになった。
さっきまであれだけ声が飛び交っていたのに、今は外から遠く人の行き交う音が聞こえるくらいだ。
シエルは入口の近くに座り、しばらく真面目に扉を見張っていた。
ぴーちゃんも隣で丸くなっている。
「……」
「……」
「何も来ないね」
「何も来ないね」
「真似しなくていいよ」
「真似しなくていいよ」
「……」
シエルはぴーちゃんを見る。
ぴーちゃんも見る。
「ふふ」
少し笑ってしまった。
しばらくして、シエルは立ち上がった。
ずっと扉だけ見ていても仕方がない。
室内を歩く。
リアが使っている紙や筆が、きちんとまとめられている。
セラが置いていった小さな道具袋。
アーグの荷物は、相変わらず無駄なく並んでいる。
そしてオタクミの周りだけ、やたらとミスティアが多い。
「……いっぱい」
「いっぱい」
「本当にいっぱいだね」
その近くに、自分が使っている器があった。
まだ新しい。
他のものと並べて置かれている。
シエルは足を止めた。
「……私の」
触れてみる。
ただの器だ。
特別な模様があるわけでもない。
高そうでもない。
それでも、そこに自分の分があることが、妙に胸に残った。
少し離れた場所には、寝る時に使う布も畳まれている。
それも自分の分。
誰かが余ったものを押しつけたのではなく、最初から置く場所を作ってくれていた。
「……変なの」
誰に言うでもなく呟く。
湖では、自分とぴーちゃんだけで過ごすことに慣れていた。
静かな場所は好きだった。
誰もいない方が安心できた。
なのに今は、静かすぎると少しだけ物足りない。
「ぴーちゃん」
「ぴーちゃん」
「みんな、いつ帰るかな」
「帰るかな」
「……早いといいね」
窓から入る光が、床の一部を明るくしていた。
シエルはそこへ座る。
ぴーちゃんも隣へ降りてくる。
何となく、息を吐いた。
肩の力が抜ける。
「……あったかい」
小さく声が漏れた。
ぴーちゃんが首を傾げる。
もう一度。
「……あったかい」
今度は、少し音が伸びた。
言葉がそのまま旋律になる。
自分でも、最初は歌っているつもりはなかった。
ただ、静かで。
光が柔らかくて。
ここに自分の器があって。
帰ってくる人がいる。
そんなことを考えていたら、自然に声が続いた。
歌詞らしい歌詞ではない。
意味のまとまった歌でもない。
ただ、思ったことが少しずつ音になっていく。
「……ここにいても……いいのかな……」
ぴーちゃんが聞いている。
怖がらない。
いつもと同じ。
だから、もう少しだけ歌う。
「……帰ってくるって……変なの……」
声は小さかった。
でも、湖で一人歌っていた時とは違う。
誰もいないのに、誰かを待っている歌だった。
◇
買い物を終えた一行が戻ってきたのは、それからしばらく後だった。
「いやー、買った買った!」
「持ってるのほとんど私たちなんだけど」
「指揮官だから!」
「荷物持ちなさい」
セラが言いながら扉へ手を伸ばす。
その時だった。
「……待って」
リアが小声で言った。
「何?」
「聞こえませんか?」
全員が黙る。
室内から、歌が聞こえていた。
オタクミの目が大きくなる。
「シエ――」
言いかけた口を、セラが手で塞いだ。
「静かに」
「むぐ」
リアも息を潜める。
アーグも何も言わない。
扉の向こうから聞こえるのは、湖で聞いた歌とは違った。
整った旋律でもない。
誰かに聞かせるために作った歌でもない。
ただ、シエルが今感じていることが、そのまま音になっているようだった。
オタクミは、扉の前で動けなくなった。
聞きたい。
もっと聞きたい。
中へ入って、すごいと言いたい。
でも。
本人は今、誰かに聞かせようとして歌っているわけじゃない。
だから、入らなかった。
最後まで聞いた。
やがて歌声が止まる。
しばらくして、ぴーちゃんの声がした。
「……あったかい」
中でシエルが小さく笑う。
リアの表情がゆるむ。
アーグは荷物を持ったまま、静かに言った。
「……数字にするものではないな」
オタクミが何か言おうとして、止まった。
その代わり、深く頷く。
そして慎重に扉を開けようとして――
手にしていた袋の端を柱へぶつけた。
ごん。
「……」
「……」
「……先生」
「事故!」
中から物音がした。
「誰!?」
「俺です!」
「何で名乗るの!?」
仕方なく全員で扉を開ける。
シエルは窓際で立ち上がり、ぴーちゃんを抱えるようにしてこちらを見ていた。
「ただいま!」
オタクミがいつもより少しだけ明るすぎる声を出す。
リアも続ける。
「ただいま、シエルちゃん」
「……ただいま」
セラも言った。
アーグは荷物を置く。
「異常は?」
シエルは一瞬迷ってから、胸を張った。
「……ありませんでした」
「おお!」
「何も来なかった」
「完璧な留守番だ!」
シエルは少しだけ嬉しそうにする。
それから、不意に言った。
「……おかえりなさい」
今度は、誰もすぐに返さなかった。
リアが最初に笑った。
「はい。ただいま」
セラも小さく頷く。
アーグは荷物を整理し始める。
オタクミは一瞬だけ何か言いたそうな顔をしたが、結局いつもの調子で、
「よし! 留守番隊長への報酬として、本日のおやつを――」
「あるの?」
シエルの目が一気に輝く。
「食いつき早っ!」
「契約だから」
「そこだけ覚えてる!」
ぴーちゃんも元気よく鳴く。
「契約だから」
「お前まで!」
また、部屋が騒がしくなる。
シエルはその真ん中で、少しだけ笑っていた。
誰もいない静かな場所で歌うのも、まだ好きだった。
けれど今は、帰ってきた人たちの声がする場所も、少しだけ好きになれそうだった。




