セイレーンの正体
湖畔には、まだ薄い霧が残っていた。
オタクミとシエルが名乗り合ってから、しばらく誰も大きな声を出さなかった。
シエルは食べかけの焼き魚を両手で持ったまま、こちらを警戒するように見ている。リアはその隣に座り、アーグは少し離れた場所から様子を見ていた。
セラだけが湖の方へ目を向けていた。
「さっきの歌、もう聞こえないわね」
「鳥の方も移動したんじゃないか?」
オタクミが答えた、その時だった。
木々の向こうから羽音がした。
丸い影が霧を抜けて飛んでくる。
「あ」
オタクミが指を差す。
「さっきのアイドリ!」
「勝手に名前決めないで」
セラが即座に返す。
鳥は一行を警戒するように少し高い枝へ止まった。
けれど、シエルが顔を上げると、その様子が変わった。
「……ぴーちゃん」
その声だけは、さっきまでより少し柔らかかった。
鳥が首を傾げる。
「ぴーちゃん」
まるで返事をするように、同じ言葉を繰り返した。
「名前ついてる!」
オタクミが小声で興奮する。
「やっぱり知り合いなんだ」
リアが訊くと、シエルはこくりと頷いた。
「……友達」
ぴーちゃんは枝から降りると、シエルの近くへ飛んできた。
オタクミも思わず一歩出る。
「ちょっと触って――」
シエルがすぐにぴーちゃんの前へ手を出した。
「待って」
オタクミの足が止まる。
「……怖がるから」
「あ、ごめん」
反射的に謝ってから、オタクミはその場へしゃがみ込んだ。
「近づかない方がいい?」
「今は」
「了解」
セラが横から見る。
「素直」
「俺だって学習する!」
『毎回自己申告するな』
「ゴルドス、お前それ気に入ってるだろ!」
少しだけ空気が緩んだ。
その時、ぴーちゃんが嘴を開いた。
静かな歌が流れ始める。
湖で聞いた、あの旋律だった。
オタクミたちの表情が一斉に変わる。
「それ」
リアがシエルを見る。
シエルはぴーちゃんを見上げたまま、小さく言った。
「……私の歌」
「え?」
オタクミが聞き返す。
「ぴーちゃん、覚えてるから。私が歌ったの」
鳥はまた同じ節を繰り返した。
「じゃあ、さっき俺たちが聞いてた歌って」
「ぴーちゃんだったかもしれない。でも……元はシエルが歌った」
セラが整理するように言う。
オタクミは一瞬、何も言わなかった。
奇跡の一枚。
湖の噂。
歌真似鳥。
そして、目の前の少女。
ばらばらだったものが、ようやく一本につながった。
「……シエル」
「なに?」
「歌うんだな」
シエルは少し迷ったあと、頷いた。
「……うん」
「この辺で?」
「ここなら、人いないから」
その答えに、オタクミは少しだけ表情を変えた。
「人がいると、歌わない?」
シエルの指が、魚を包む紙の端をぎゅっと掴んだ。
「……あんまり」
リアがすぐに口を挟まなかった。
アーグも黙っている。
しばらくして、シエルの方から言葉が続いた。
「前に、人がいるところで歌ったことがある」
「うん」
「変だって言われた」
声は小さい。
「気味悪いって。近くで歌わないでって」
オタクミの眉がわずかに動く。
だが、何も言わない。
「それから、あんまり人のいるところで歌わなくなった」
「ここに来たのも、それで?」
リアが優しく訊く。
シエルは少し考えてから答えた。
「……人が少ないから」
「ずっと一人だったんですか?」
「ずっとじゃない」
シエルがぴーちゃんを見る。
「ぴーちゃんがいる」
鳥が首を傾げる。
「いる」
「自分で言った!」
オタクミが思わず吹き出しそうになる。
セラが肘で小さく小突いた。
「静かに」
「はい」
シエルはぴーちゃんの羽をそっと撫でた。
「歌うの、やめようと思ったこともある」
「……」
「でも、静かにしてる方が苦しくて」
リアがシエルを見る。
「苦しい?」
「歌いたくなるから」
それは説明というより、本人にとって当たり前の感覚を口にしただけのようだった。
「誰もいないところで歌って、ぴーちゃんが真似すると……」
シエルの口元が、ほんの少し緩む。
「もう一回歌ってもいいのかなって思えた」
オタクミは、そこで初めてぴーちゃんを見る目を変えた。
面白い鳥。
使えそうな鳥。
さっきまでは、そんなふうにしか見ていなかった。
けれどシエルにとっては違う。
自分の歌を怖がらず、聞いたまま返してくれる存在。
「……そっか」
オタクミが呟く。
セラが湖を見る。
「じゃあ、あの噂」
「噂?」
シエルが聞く。
「この湖の近くで、妙な歌が聞こえるって話。聞いた人が怖がって、“セイレーン”だなんだって勝手に呼んでた」
シエルの目が少し大きくなる。
「……私?」
「少なくとも、元になった歌はそうかもしれないわね。ぴーちゃんもあちこちで真似してたなら、余計に話が広がったんでしょうし」
ぴーちゃんが鳴く。
「セイレーン」
「覚えるな!」
オタクミが反射的に突っ込む。
鳥がもう一度、
「覚えるな!」
と返す。
「そっち覚えた!」
リアが思わず笑い、セラも口元を緩めた。
シエルも一瞬だけ目を丸くして、それから小さく笑った。
ほんの一瞬だった。
けれど、オタクミはその顔を見逃さなかった。
そして同時に、以前ならここで勢いのまま何かを言っていた気がした。
この子だ。
絶対に売れる。
絶対に届く。
そういう言葉を。
けれど、今は少し違った。
「シエル」
「なに?」
「誰かの前で歌ってみたいって、思ったことある?」
少女の表情が固まった。
ぴーちゃんの羽に触れていた指が止まる。
「……ない」
即答ではなかった。
考えて。
それでも、はっきり答えた。
「怖い」
「そっか」
オタクミはそれだけ言った。
シエルが少し驚いたように見る。
「……それだけ?」
「うん」
「もっと、歌ってって言わないの?」
「言いたい」
「先生」
リアが小さく止める。
「言いたいけど!」
オタクミは両手を上げた。
「今は言わない!」
セラが感心したように眉を上げる。
「成長したわね」
「褒めて! もっと!」
「今ので台無し」
「ひどい!」
オタクミは一度笑ってから、シエルを見る。
「怖いなら、今はそれでいいと思う」
「……」
「でも、もしそのうち『誰かに聞いてほしい』って思うことがあったら、その時は教えて」
シエルはすぐには答えなかった。
ただ、さっきより少しだけ警戒の薄れた目でオタクミを見る。
「……分かった」
短い返事だった。
それで十分だった。
◇
しばらくして。
リアが残っていた焼き魚をもう一つ取り出した。
「シエルちゃん、これも食べますか?」
シエルの視線が、一瞬で魚へ移る。
「……食べたい」
「即答!」
オタクミが叫ぶ。
シエルは少しだけ頬を赤くした。
「だって、おいしいから」
「人前で歌うのは考えるのに魚はゼロ秒!」
「それとこれは別」
「強い!」
リアが嬉しそうに魚を渡す。
シエルは受け取ると、今度は少し遠慮がちではあったが、さっきより自然に食べ始めた。
ぴーちゃんが横から覗き込む。
「ぴーちゃんも欲しい?」
「欲しい」
「お前が答えるな!」
また小さな笑いが起こる。
アーグはその様子を黙って見ていたが、やがて口元へ手を当てた。
「……なるほど」
「何が?」
セラが聞く。
「歌の話には慎重だが、食事への反応は極めて素直だ」
オタクミが勢いよく振り返る。
「お前まさか!」
「事実を述べただけだ」
シエルが魚を食べながら、こちらを見る。
「……ごはん、毎日あるの?」
今度は全員が黙った。
オタクミの目が、ゆっくりと輝き始める。
セラが額を押さえた。
「嫌な予感がする」
リアはもう笑っている。
アーグだけが静かに頷いた。
「食事なら、話を聞いてもらえる可能性は高そうだ」
「交渉材料にするな!」
湖畔に、また笑い声が広がった。




