アイドリ
霧の向こうから、歌が聞こえていた。
姿は見えない。
言葉も聞き取れない。
それでも、湖面を渡ってくる声だけは不思議なくらい澄んでいて、オタクミは息をするのも忘れたように立ち尽くしていた。
「……これだ」
小さく呟く。
「この声、もっと近くで聞きたい」
リアも絵を胸元へ抱えたまま、静かに頷いた。
「きれいですね……」
誰かが強く張り上げているわけでもない。むしろ遠く、薄く、霧へ溶けてしまいそうなのに、耳を離せない。
オタクミは一歩踏み出しかけた。
「よし。まず会って――」
「待って」
セラが鋭く制した。
「今度は何!?」
「静かにして」
セラは歌声の流れてくる湖の奥ではなく、少し離れた岩場を見ていた。
霧と木々の境目。
大きな岩。
その陰。
「……誰かいる」
「歌ってる人?」
「違う。声はもっと向こうから聞こえる」
セラが目を細める。
「さっき、あそこで何か動いた」
オタクミも目を凝らしたが、何も見えない。
「俺には岩しか見えん」
「だからあんたは正面だけ見てなさい」
「扱い!」
アーグが湖と岩陰を交互に見る。
「二つを同時に追うのは効率が悪いな」
「じゃあ分かれる?」
リアが尋ねる。
オタクミは一瞬考えたあと、頷いた。
「俺とセラは歌声の方。リアとアーグは岩陰を見てきてくれ」
「分かりました」
「無理に近づくな」
アーグが短く言った。
「逃げるなら追わない。それでいいな?」
「うん。まず誰なのか見るだけで」
オタクミも頷く。
「よし。会う、見る、話す、聞く。忘れるなよ!」
「先生が一番忘れそうです」
「信用!」
◇
岩陰に近づくにつれて、リアは小さな物音に気づいた。
葉が擦れる音。
衣服が岩へ触れた音。
そして、もう一つ。
きゅるる、と控えめに鳴った腹の音。
リアが足を止めた。
「……」
アーグも聞こえたらしく、黙ってリアを見る。
二人の荷物には、昼に焼いた魚の残りが包んであった。食べ切れなかった分を、アーグが「捨てる理由はない」と持ってきたものだ。
風向きが変わる。
焼いた魚の匂いが岩陰へ流れた。
今度は、明らかに枝が揺れた。
「誰かいますか?」
リアはその場から動かず、穏やかに声をかけた。
返事はない。
「驚かせたなら、ごめんなさい。近づきませんから」
しばらく待つ。
やがて、岩の陰からほんの少しだけ顔が覗いた。
大きな瞳。
その瞳がまずリアを見て、それからアーグを見て、最後にリアの手元へ移る。
包みの中の魚。
「……」
「食べますか?」
リアが訊いた瞬間、顔が引っ込んだ。
「警戒されてるな」
アーグが小声で言う。
「当たり前です。知らない人ですから」
「それもそうだ」
リアは包みを地面へ置いた。
「ここに置いておきますね。私たちは離れますから」
二人で数歩後ろへ下がる。
しばらく何も起こらなかった。
しかし、やがて岩陰から細い腕が伸びた。
魚の包みを掴む。
また引っ込む。
「……食べてる」
リアが思わず笑う。
少しして、少女が姿を現した。
腰まで伸びた、濡れ羽色の黒髪。
霧の中でも分かるほど白い肌。
大きな瞳。
身にまとっているワンピースはところどころ擦り切れ、裾には泥がついている。
細い身体で魚を抱え、こちらを警戒したまま、少しずつ食べていた。
リアは思わず息を呑んだ。
絵だ。
あの一枚に描かれていた少女と、よく似ている。
けれど、すぐには絵を取り出さなかった。
目の前にいるのは、絵の中の人物ではない。
お腹を空かせて、知らない人間を警戒している一人の少女だ。
「おいしいですか?」
リアが訊く。
少女は少し迷ってから、小さく頷いた。
「……うん」
初めて声を聞いた。
歌とは違う。
普通の、少しかすれた少女の声だった。
「よかった」
リアが笑う。
アーグは何も言わず、その場で少女の逃げ道を塞がない位置に立っていた。
少女は魚をもう一口食べる。
そして、リアの胸元にある木炭画へ気づいた。
「……それ」
「え?」
「その絵……」
リアはそこで初めて、手にしていた絵を見せた。
「これですか?」
少女の目が大きくなる。
食べる手が止まった。
「……どこで?」
「ラザリスの古いお店で見つけました」
少女は絵をじっと見る。
「あなたに、似てると思ったんです」
「……」
少女はすぐには答えなかった。
否定もしない。
ただ、困ったように眉を寄せた。
「これ……私に、似てる」
「やっぱり、そう思いますか?」
「でも……知らない」
「絵を描かれた覚えが?」
少女は首を横に振った。
「ない」
リアとアーグは顔を見合わせた。
まだ分からない。
だから、それ以上は聞かなかった。
◇
一方。
オタクミとセラは、歌声を追って湖沿いを進んでいた。
「静かに歩いて」
「分かってる」
ぱきっ。
「今踏んだでしょ」
「枝が勝手に!」
「枝は動かない」
「異世界だからあるかも!」
「ない」
さらに数歩。
今度は顔に蜘蛛の巣がかかった。
「うわっ!?」
「声!」
「ごめん!」
『見事なまでの足手まといだな』
「ゴルドス、お前まで言う!?」
セラはため息をつきながらも、歩みを止めなかった。
歌声は近い。
同じ旋律が何度も聞こえてくる。
「……同じところ、繰り返してない?」
セラが言う。
「歌ってそういうもんじゃない?」
「でも、間まで同じ」
「間?」
耳を澄ませる。
確かに。
歌声が途切れる。
数秒。
そしてまったく同じ高さ、同じ入り方で、また始まる。
「……録音?」
「何それ」
「いや、こっちの話」
霧の先で枝が揺れた。
「いた!」
オタクミが飛び出す。
「だから先に行くな!」
セラが追う。
木々の間を抜けた先にいたのは――
「……鳥?」
丸い。
思った以上に丸い。
鮮やかな羽毛を膨らませた鳥型の魔物が、倒木の上へちょこんと乗っていた。
そして嘴を開く。
あの歌が流れた。
「…………」
オタクミが固まる。
セラも目を瞬いた。
『おお。歌真似鳥か』
ゴルドスが言った。
「知ってるの?」
『聞いた音や声を真似る鳥だ。こうして気に入った音を繰り返すことがある』
「じゃあ」
オタクミが鳥を見る。
鳥がもう一度歌う。
「この歌、こいつ自身の歌じゃない?」
『少なくとも、どこかで聞いたものを真似ている可能性はあるな』
数秒の沈黙。
オタクミの肩が落ちた。
「歌ってたの鳥かぁぁぁ……!」
「何でちょっと残念そうなの」
「いや、鳥が悪いわけじゃない! めっちゃ上手い! でも俺たちが探してるのは!」
鳥が首を傾げる。
「探してるのは!」
鳥が言った。
「探してるのは!」
「……」
「……」
オタクミの目が光った。
「この再現力……」
「やめなさい」
「まだ何も言ってない!」
「顔が言ってる」
鳥が真似する。
「顔が言ってる」
「ほら! 完璧!」
「だから何」
「歌ってる人と組ませたら、コーラスとか合いの手とか――」
「人を探しに来たんでしょ」
「いやでも鳥まで加えた新時代ユニット!」
「却下」
「待てよ。アイドルじゃなくて鳥だから……アイドリ……?」
セラが無表情になる。
「帰るわよ」
「タイトル級のひらめきだったのに!」
鳥が元気よく鳴く。
「アイドリ!」
「ほら本人も気に入ってる!」
「真似してるだけ!」
◇
二人が戻ると、リアとアーグのそばに誰かがいた。
オタクミの足が止まる。
長い黒髪。
白い肌。
ぼろぼろのワンピース。
手には食べかけの焼き魚。
そして、こちらを見た大きな瞳。
オタクミは思わず、懐にある絵と少女を見比べた。
「……」
頭の中で、何かが弾けた。
いた。
見つけた。
奇跡の一枚の少女。
新しい表現者。
アイドル候補。
言葉が喉まで出かかった。
けれど、止まった。
花屋の少女。
酒場の歌い手。
見ただけでは分からなかった人たち。
それから、ついさっき鳥へまで話を広げかけてセラに止められた自分。
「……先生?」
リアがこちらを見る。
オタクミは一度息を吸った。
少女を見る。
絵ではない。
噂でもない。
歌声でもない。
今、目の前にいる人を見る。
「……えっと」
いつもの勢いが少しだけ消えた。
「俺、オタクミ」
少女は警戒したまま、こちらを見ていた。
それでも、少しして口を開く。
「……シエル」
小さな声だった。
霧の中で聞いた歌とは違う。
ただ一人の少女が、自分の名前を名乗っただけの声。
けれどオタクミは、その名前を聞いた瞬間、今まで集めてきたどんな噂よりも、はっきりと彼女がそこにいることを感じた。
「シエル、か」
少女――シエルは、もう一度だけ小さく頷いた。




