嘆きの湖
翌朝。
ラザリスの門前に集まった一行を見て、オタクミはしばらく何も言わなかった。
リアは旅用の荷物を背負い、簡単な調理道具と食料袋まで用意している。セラは短剣の位置を確かめ、周囲を警戒しやすい軽装。アーグは水、保存食、火起こし用の道具、簡単な縄まできっちり揃えていた。
全員、完全に旅へ出る格好だった。
『……くぅ。ついにこの地を出るとはな』
腰の鞘から、ゴルドスが妙に感慨深そうな声を出す。
『ようやく冒険者らしくなってきたではないか、オタクミ殿』
「お前、急に親みたいなこと言うなよ」
オタクミは呆れながらも、少しだけ胸を張った。
「まあな。奇跡の一枚を手掛かりに、謎の歌声を追って危険な湖へ――」
「危険って自分で言った」
「そういうところも含めて冒険!」
「不安になってきた」
セラがため息をつく。
オタクミは気を取り直し、全員を見渡した。
「ところで!」
「何」
「湖まで行くんだぞ?」
「そうね」
「水辺だぞ?」
「だから?」
「つまり――昼飯はバーベキューだ!」
沈黙。
リアが首を傾げた。
「ばーべきゅー?」
「知らないですよねー!」
オタクミは予想していたように頷く。
「簡単に言えば、水辺でみんなで食材を焼いて食べる! 旅の途中にちょっとしたレジャーを挟む、最高のイベントだ!」
「つまり現地で食材を確保して焼く、と」
アーグが真顔で確認する。
「まあ、それもできるけど」
「魚なら川があれば取れますね」
リアが嬉しそうに言う。
「保存食を減らさずに済むわね」
セラも納得する。
オタクミは少し待った。
誰も「楽しそう」とは言わない。
「……あれ?」
「何?」
「もっとこう……水辺イベント感は?」
「危険な湖へ行く途中でしょ」
「でも昼休憩くらい楽しく!」
「食事は楽しむわよ」
「そうじゃなくて! こう……キラキラした何か!」
セラがオタクミをじっと見る。
「目的忘れてない?」
「忘れてない!」
『本当か?』
「ゴルドスまで疑うな!」
◇
ラザリスを出ると、街の喧騒はすぐに遠ざかっていった。
しばらくは緩やかな街道が続いたが、嘆きの湖へ近づくにつれて道は細くなっていく。木々が増え、空を覆う葉も濃くなった。
オタクミは歩きながら、何度も荷物を背負い直す。
「旅って、もっとこう……景色見ながら『未知の世界だー!』ってなるもんじゃないの?」
「歩く時間の方が長いでしょ」
セラが前を見たまま答える。
「現実!」
「転ばないように見てなさい」
「はい」
リアは時折、道端の植物や岩を眺めていた。
「この辺り、少しずつ湿ってきましたね」
「湖が近い?」
「まだだと思います。でも、絵にあった景色に近づいてる気はします」
その言葉に、オタクミは少しだけ表情を引き締めた。
懐には、あの木炭画が入っている。
水辺に座る少女。遠くから聞こえたという歌声。それが同じ人物なのかすら、まだ分からない。
「楽しみですね」
リアが言う。
「うん」
「先生、今度はちゃんと話を聞くんですよ」
「分かってます!」
「会って五秒で『君、アイドルにならない?』は禁止」
「そこまで信用ない!?」
「あると思う?」
「……頑張ります」
アーグが後ろから淡々と続ける。
「まず本人が何をしているのか確認する。目的を聞く。話が通じるなら、その後に提案だ」
「分かってるって!」
「確認だ」
「プロデューサー監督されすぎじゃない?」
『必要だからだろうな』
「全員敵!」
◇
昼頃。
一行は森の途中を流れる浅い川のそばで休憩を取ることにした。
「よし!」
オタクミは荷物を下ろすなり、元気を取り戻した。
「ここだ!」
「何が?」
「バーベキュー会場!」
「休憩場所でしょ」
「言い方の問題!」
リアが簡単な焼き台を用意し、アーグが周囲から乾いた枝を集める。セラは水辺を見ながら、周囲に人や魔物の気配がないか確認していた。
「よし。ここなら少し休めそうね」
「で、魚は?」
オタクミが期待に満ちた顔をする。
「釣ればいいんじゃないですか?」
リアが荷物から細い糸と針を取り出した。
「準備してたの!?」
「水辺を通るって聞いたので」
「有能!」
オタクミも勢いよく立ち上がった。
「よし、俺もやる!」
「竿ないけど」
「ある!」
そう言って背中へ手を伸ばす。
セラが嫌そうな顔をした。
「……まさか」
「そのまさか!」
オタクミは《タクミ・ブレイザー》を抜いた。
ピンクメタリックの刀身に、大きく描かれたミスティア。そこには「尊い」「二期待ってます」の文字が走り、柄元ではチャームが揺れている。
日差しを受けたその姿を、オタクミは満足そうに眺めた。
「先生、それ武器ですよね?」
「武器である前に推しグッズです」
『否定しきれぬのが腹立たしい』
「見ろ。この長さ」
オタクミは得意げに掲げた。
「竿にちょうどよくない?」
「よくないと思う」
「先に糸を結べば使える!」
「刃物に?」
「水には絶対つけない! 魚にも触らせない! 常に俺の手元で完璧に保持する!」
セラはしばらく黙った。
「……魚釣りなのに魚から武器を守るの?」
「当然だろ!」
「そこまでして使いたい理由は?」
オタクミは真顔になった。
「釣りって待ち時間が長いだろ?」
「そうね」
「その間ずっとミスティア様を鑑賞できる」
「……」
「最高の釣竿では?」
「釣りの目的変わってる」
「一石二鳥!」
『魚を釣れ』
「もちろん!」
リアが笑いをこらえながら、糸が刃へ直接触れないよう刀身の先寄りへ布を巻き、その上からしっかり固定するのを手伝った。
「餌はどうします?」
「普通ので」
「そこ普通なんだ」
セラが言う。
オタクミはミスティアのチャームを見た。
一瞬、視線が止まる。
『やめろ』
「まだ何も言ってない!」
『顔が言っておる』
「使わねえよ! ミスティア様を水中に投げ込むとか無理だから!」
「そこはちゃんとしてるのね」
「当たり前だろ!」
普通の餌を付け、オタクミは川辺に座った。
《タクミ・ブレイザー》は水面より高く掲げたまま、先から伸びた糸だけが川へ落ちている。
見た目だけなら、確かに巨大で派手すぎる釣竿だった。
「よし」
糸を投げる。
水面に小さな波紋が広がった。
「……」
待つ。
オタクミは静かに《タクミ・ブレイザー》を見る。
「今日も美しい……」
「魚見なさい」
「見てる見てる」
また武器を見る。
「この角度のミスティア様、光の入り方いいな」
「先生、糸」
「ん?」
「動いてます」
「え?」
糸が強く引かれた。
「来た!」
オタクミが慌てて持ち上げる。
「うおおおっ!?」
魚が暴れる。
「引いてます!」
「待て待て待て! そんな強く引っ張るな! ミスティア様に変な力かかるだろ!」
「魚に言っても無理!」
リアが笑いながら網を構える。
「先生、こっちへ!」
「ミスティア様ぁぁぁ! どうかご無事で!」
『釣竿として使っておいて無茶を言うな!』
「刃には触れさせないから!」
「そこ! 魚の方もちゃんと見て!」
リアの声に従い、オタクミは必死に糸を寄せる。
魚が水面で跳ねた。
「うわっ! 近い近い! ミスティア様に水しぶき飛ばすな!」
「だから魚に言っても無理だって!」
何とか魚を岸へ寄せ、リアが網ですくい上げる。
立派な一匹だった。
「釣れた!」
「やりましたね!」
「やった!」
オタクミは魚より先に《タクミ・ブレイザー》を見る。
「水滴……なし!」
「魚も見なさいよ」
「もちろん!」
結局、その後の釣果は一匹だけだった。
オタクミが鑑賞に夢中になりすぎて、何度も当たりを逃したせいである。
代わりにリアとセラが手際よく食材を集め、アーグが火加減を調整した。
「俺、思ってたバーベキューと違う」
「でも食べるんでしょ?」
「食べる」
「じゃあ問題ない」
焼いた魚を一口食べ、オタクミは目を見開いた。
「うまっ!」
「先生が釣った魚ですよ」
「俺とミスティア様の共同作業……!」
「ミスティア様はずっと見られてただけだと思う」
「それがいいんだよ!」
しばらく、森の中に笑い声が響いた。
◇
昼食を終え、再び歩き始める。
そこから先は、少しずつ空気が変わった。
道がなくなる。
木々が密になる。
湿った霧が足元へ溜まり始める。
先ほどまで聞こえていた鳥の声も、いつの間にか減っていた。
「……静かですね」
リアが声を潜める。
「ここから先は気を抜かないで」
セラは歩調を落とし、周囲を見る。
アーグも何度か後ろを振り返り、戻る道を確認していた。
オタクミもさすがに騒がなくなった。
しばらく進んだところで、リアが足を止める。
「先生」
「何?」
「見てください」
道の脇に、大きな岩があった。
表面には濃い苔が広がり、そのすぐ向こうには低い湿地が続いている。
リアは懐から絵を取り出した。
「これ」
絵の背景。
水辺。
岩。
苔。
木々の密度。
「似てる」
「はい」
リアの声も少しだけ緊張していた。
「たぶん、もう近いです」
誰からともなく歩く速度が落ちた。
霧が濃くなる。
風が冷たくなる。
そして、木々の隙間から光が差した。
「……抜ける」
セラが先へ進む。
一行が森を抜けた先に、湖があった。
大きく、静かで、薄い霧に包まれている。
水面はほとんど揺れていない。
オタクミは無意識に懐へ手を入れ、あの絵を取り出した。
「……似てる」
リアも隣で頷く。
「はい」
絵の中では、少女がいた。
現実の湖には、誰もいない。
「人、いないわね」
セラが周囲を見る。
「でも」
アーグが湖の奥へ目を向ける。
「何か――」
その時だった。
歌が聞こえた。
遠い。
言葉までは分からない。
けれど、確かに人の声だった。
「……」
誰も喋らなかった。
静かな歌声が、霧の向こうから流れてくる。
悲しいのか。
穏やかなのか。
それすら、まだ分からない。
オタクミが口を開きかける。
「――」
「静かに」
セラが小さく制した。
オタクミは黙る。
歌声だけが続いていた。
一枚の絵を追って辿り着いた湖。
そこにはまだ、誰の姿も見えない。
ただ霧の向こうから、確かに歌が届いていた。




