物語のはじまりに還る夜
夜の宿で、オタクミは机の上に並んだ注文票を眺めていた。今日もよく売れた。ミスティアの絵を選んだ者もいれば、リアが描いた別の絵を選んだ者もいる。贈り物にする者、二つ並べたいと言う者、少し濁った一枚を「これがいい」と持っていった者までいた。
最初の頃なら、ミスティア以外の絵を選ばれた瞬間に「そこはミスティア様だろ!?」くらい言っていたかもしれない。今は、そうでもない。
「……好きに選んでくれるの、結構いいよな」
ぽつりと呟く。
向かいでは、リアが今日使った絵をまとめていた。セラは余った台座の数を確認し、アーグは紙に何かを書き込んでいる。
「何が?」
セラが聞いた。
「いや。最初はさ、ミスティア様を広めるぞー! って、それしか考えてなかったじゃん?」
「今も十分考えてるでしょ」
「もちろん!」
「即答なんだ」
「そこは揺るがねえ!」
胸を張ったオタクミに、セラが呆れたように息を吐く。
だが、オタクミはもう一度注文票へ視線を落とした。
「でもさ。みんな同じものを好きになってるわけじゃないんだよな」
笑顔の絵を選ぶ者もいれば、横顔を選ぶ者もいる。自分の思い出と重ねる者も、贈る相手のために選ぶ者もいる。同じ絵を見ても、その先にある理由は違う。
「当たり前でしょ」
セラは言った。
「人が違うんだから」
「うん。最近やっと、そこが面白いって思えてきた」
「最近なのね」
「成長を褒めろ!」
「自分で言うな」
リアが小さく笑った。
その手元には、一枚の絵がある。ミスティア。いつもの姿だ。今日の「もしも」の絵ではなく、リアが最初の頃から何度も描いてきた姿だった。
しばらくそれを眺めていたリアが、不意に顔を上げる。
「あの、先生」
「ん?」
「先生って、どうしてミスティア様を好きになったんですか?」
オタクミは固まった。
「……え?」
「ですから、どうして好きになったんですか?」
「それはお前――」
勢いよく口を開く。
「尊いから!」
「それは知ってます」
即座に返された。
「可愛い!」
「それも知ってます」
「美しい!」
「知ってます」
「声がいい!」
「聞きました」
「衣装が神!」
「何回も聞きました」
「じゃあ何を聞いてんの!?」
リアは困ったように笑った。
「そういうことじゃなくて……先生が最初に『この人、好きだな』って思った時のことです」
「最初に……?」
「はい。どんな場面を見たんですか? どんなところが心に残ったんですか?」
「……」
「先生、いつもミスティア様のことをたくさん話しますけど、そういうお話、あんまり聞いたことないなって」
オタクミは瞬きをした。
言われてみれば、ミスティアがどれほど素晴らしいかは山ほど語ってきた。デザイン、仕草、声、衣装、表情。推しポイントなら一晩でも足りない。
だが、自分がいつ、どんな場面で、どうしてミスティアを好きになったのか。それを誰かへちゃんと話したことがあっただろうか。
「……あれ?」
オタクミは頭を抱えた。
「俺、布教してるくせに推しとの出会い語ってなくない?」
「やっと気づいた」
セラが言った。
「いや待って!? これ結構重大じゃない!?」
「知らないよ」
「だって俺、推しを広めるために異世界まで来たみたいな顔してるのに!」
『実際には別の理由もあるがな』
腰の鞘からゴルドスの声がした。
「今そういう正論いらない!」
アーグが筆を止める。
「商品の特徴と、欲しくなった理由は別だ」
「うっ」
「売れる理由とも違う」
「さらに刺すな」
「事実だ」
アーグは淡々と続けた。
「ミスティアという人物について、お前から聞いた情報は多い。だが、お前自身がなぜそこまで執着しているのかは、私もよく知らない」
「執着って言うな。愛だ」
「名称はどうでもいい」
「よくない!」
セラが机へ肘をつく。
「でも、私も知らない」
「お前まで!?」
「『尊い』は聞いた」
「便利な言葉みたいに言うなよ!」
「便利でしょ。何聞いても最後それだし」
「ぐっ……」
反論できない。
リアは、少し申し訳なさそうに絵を抱えた。
「すみません。別に、今すぐ話してほしいわけじゃないんです」
「いや」
オタクミは首を振った。
「俺が気になってきた」
自分の推しの話なのに、言葉にしようとした途端、妙に難しい。最初に見たのはどこだったか。何に惹かれ、いつ「このキャラ好きだ」と思ったのか。好きだったから覚えているはずなのに、細かく取り出そうとすると記憶同士が重なっている。
「……散歩してくる」
「急ね」
「頭の整理!」
「一人で?」
「みんな来る?」
「最初からそう言えば」
◇
夜のラザリスは、昼とはまるで違って見えた。市場の店はほとんど閉まり、石畳の上を歩く人影も少ない。灯りの落ちた店先を横目に、一行はゆっくりと歩いていく。
「で、思い出した?」
セラが聞く。
「まだ」
「遅い」
「推しの原点を雑に掘るな!」
「自分で散歩すれば思い出すと思ったんでしょ」
「夜風にはそういう効果があるかもしれないだろ!」
「ないと思う」
リアが笑う。
少し後ろでは、アーグが静かについてきていた。
「お前は本当に思いつきで動くな」
「でも来てるじゃん」
「観察だ」
「はいはい」
「……本当だ」
「え?」
アーグはそれ以上言わなかった。
その時、路地の先で小さな灯りが揺れた。
青白い。
一瞬だけ、星のように見えた。
オタクミの足が止まる。
「先生?」
「……」
胸の奥が、微かにざわついた。どこかで同じような色を見たことがある。強い光と音。その中で、視界の端に小さな何かが揺れていたような気がする。
「どうしたの?」
セラが振り返った。
「……いや」
オタクミは目を細めた。
路地の灯りは、もう普通の魔石灯にしか見えない。
「なんか、見覚えある色だった気がした」
「どこで?」
「それが分かんないんだよな」
ゴルドスは何も言わなかった。オタクミも深く追わない。
「まあいいか」
「いいの?」
「今思い出せないものは仕方ない!」
「切り替え早いわね」
「推し活は前向きに!」
「便利な言葉増えた」
歩き出した一行は、ほどなくして小さな広場へ出た。
そこには数人の人が集まっていた。中心にいるのは、年老いた男。手には古びた弦楽器を抱えている。派手な飾りも大きな舞台もなく、集まっているのも荷物を抱えた少年や、帰り道らしい衛兵、老夫婦など、ほんの数人だけだった。
男が弦を鳴らす。
細い音が夜へ伸びていく。
「昔、一人の騎士がおった」
静かな声だった。
「名はもう残っておらん。ただ、竜に焼かれた村で、最後まで剣を握っていたという」
オタクミたちは足を止めた。
「騎士は強くなかった。むしろ、何度も負けた。仲間も失った。それでも、逃げる民の最後尾に立った」
語りに合わせ、弦が鳴る。
「なぜそこまで戦ったのか。それを問われた騎士は――」
老人は少し間を置いた。
「『後ろに、帰る場所を待つ者がいるからだ』と答えたそうな」
誰も喋らない。風が吹く中、少年はいつの間にか強く拳を握り、衛兵は目を伏せ、老婆はそっと夫の手へ自分の手を重ねていた。
やがて話が終わると、小さな拍手が起きた。
聞いていた少年が、真っ先に老人へ駆け寄る。
「ねえ、その騎士、そのあとどうなったの?」
「さて」
老人は笑った。
「そこまでは残っておらん」
「ええー!」
「古い話というのは、そういうものだ」
「でも気になる!」
「なら、自分で続きを考えるのもよかろう」
少年は不満そうにしながらも、まだその場を離れなかった。
オタクミは、その横顔を見ていた。さっきまで、あの少年はその騎士の存在すら知らなかった。名前さえ残っていない人物で、絵もなければグッズもない。それなのに、数分の話を聞いただけで、その先を知りたがっている。
「……ああ」
声が漏れた。
リアが横を見る。
「先生?」
「分かったかも」
「何が?」
「俺、見せることばっか考えてた」
アクスタや絵、武器やその形。目に入れば興味を持ってもらえる。それは間違いではないし、実際、それで好きになった人間もいる。
「見せるのは悪くない」
自分へ言い聞かせるように続ける。
「作るのも、売るのも、選んでもらうのも。全部楽しい」
「はい」
「でも、俺がどうして好きなのかを話すのも……同じくらい大事なのかもしれない」
リアが少し笑った。
「聞きたいです」
「今?」
「今じゃなくても」
「助かった。まだまとまってない」
セラが鼻で笑う。
「そこは即答できないんだ」
「推しへの感情は繊細なんだよ!」
「さっき尊いで全部済ませてたじゃない」
「それは圧縮言語!」
「便利ね」
アーグが広場を眺めながら言った。
「話を聞く前と後で、あの少年の行動は変わった」
「うん」
「物の価値が変わったわけではない。そもそも物がない」
「……そうだな」
「それでも欲しいものが生まれた」
「続きを知りたい、って気持ちか」
「おそらく」
オタクミは笑った。
「それも、いいな」
誰かへ同じ感想を持たせる必要はない。同じ場面で泣く必要もない。ミスティアを同じように好きになる必要だってない。
ただ、自分がどうして好きなのか。何を見て、何を感じたのか。それを話す。その先で、相手が何を感じるかは相手の自由だ。
「決めた」
オタクミが言った。
「何を?」
「まず俺が、ミスティア様を好きになった話をする」
リアの目が輝く。
「聞きたいです!」
「長いぞ!」
「知ってます!」
「途中で三回くらい脱線すると思う!」
「それも知ってます!」
「たぶん五回くらい『尊い』って言う!」
「そこは減らしてください!」
「無理!」
セラが呆れ、アーグが小さく息を吐く。それでも、誰も帰ろうとはしなかった。
オタクミは夜のラザリスを見回した。
物を置く場所。絵を見る場所。誰かが作る場所。好きなものを話す場所。
それぞれが別々にあるだけでなく、全部が混ざったらどうなるのだろう。
「……見るだけじゃなくて」
「ん?」
「作って、選んで、語って……そういうのを全部できる場所があったら、面白くない?」
セラが眉を上げる。
「また何か思いついた顔してる」
「失礼な!」
「その顔で何回巻き込まれたと思ってるの」
「でも面白そうです!」
リアはすでに乗っていた。
アーグだけが警戒するように目を細める。
「規模による」
「まだ何も言ってないだろ!」
「だから先に言っている」
「信用ないな!?」
ゴルドスの笑い声が鞘から響いた。
『日頃の行いだな』
「お前まで!」
夜の広場に声が響き、老いた吟遊詩人が少しだけこちらを見て笑った。
オタクミはまだ、自分が何を作りたいのかを上手く言葉にできていなかった。けれど、最初にやることだけは決まった。
何かを売る前に、何かを広げる前に。
自分がどうしてそれを好きなのか。
そこから、もう一度始めてみようと思った。




