神々のチェス盤
そこがどこなのかを、ゴルドスはうまく説明できなかった。
空とも違う。地面もない。遠くには星のような光が浮かんでいるが、それが本当に星なのかも分からない。ただ、地上とは隔絶された場所であることだけは確かだった。
気づけばゴルドスは、その場所へ呼ばれていた。
「……相変わらず、落ち着かん場所だな」
周囲にはいくつかの気配がある。
姿がはっきり見える者もいれば、光の向こうに輪郭だけが浮かぶ者もいる。
誰がどの役割を持ち、どこまで上位なのか。
ゴルドス自身も、すべてを知っているわけではない。
やがて、正面の光がゆっくりと揺れた。
『報告を』
低くも高くもない声。
誰のものなのか分からない。ただ、その場にいる者たちが自然と静かになる程度には重い。
ゴルドスは背筋を伸ばした。
「はっ!」
すると目の前へ、地上の光景が浮かび上がる。
ラザリス。
市場。
小さな売場。
並べられた透明な板。
その前で、客たちが絵を選んでいる。
ある者は笑っている姿。
ある者は横顔。
ある者は誰かへの贈り物。
ある者は、少し濁った一枚をわざわざ手に取る。
次の光景。
宿の一室で、リアとセラが紙を広げている。
二人が何か言い合いながら、存在しない人物の姿を増やしていた。
誰かがそれを見て、短く呟く。
『……奇妙だ』
別の気配が続けた。
『武器でもない』
『治癒でもない』
『食料でもない』
『それでも、人が集まっている』
ゴルドスは、少しだけ胸を張った。
「そうであろう」
『お前がやらせたのか』
「いや」
即答だった。
「拙者は何もしておらん」
『では、あの者が?』
「それも違う」
光の中。
オタクミが客へ何かを説明し、客が笑いながら首を振る。
次の瞬間には別の客が違う絵を選び、オタクミがまた騒いでいる。
「奴はきっかけを持ち込んだだけだ」
ゴルドスは、映像を見ながら言った。
「絵を描いたのはリア。選んだのは客。妙な見方を始めたのはセラ。勝手に増やし、勝手に悩み、勝手に楽しんでおる」
『統制されていない』
「うむ」
『効率も悪い』
「うむ」
『なら、なぜ笑っている』
「それを拙者に聞くな」
少し間を置いてから、ゴルドスは笑った。
「たぶん、本人たちも分かっておらん」
周囲の光がわずかに揺れる。
興味なのか、呆れなのか。
その時だった。
「相変わらず、随分と人間を高く買うのね」
声がした。
ゴルドスの表情が変わる。
星の光の向こうから、一人の女が歩いてくる。
銀色の髪。
紫の瞳。
口元には、薄い笑み。
「マリス」
「ごきげんよう、ゴルドス」
マリスはラザリスの光景へ目を向ける。
客が絵を選ぶ。
別の客が受け取る。
リアが描く。
セラが何か注文をつける。
「小さな熱狂」
マリスはそう言った。
「人はいつもそう。何かを見つけて、群がって、飽きて、次へ行く」
「それの何が悪い」
「あら。悪いとは言っていないわ」
「その顔で言われると全部悪口に聞こえる」
「失礼ね」
マリスは笑った。
「ただ、あなたはそれを少し美しく見すぎている」
「美しくなど見ておらん」
「では?」
ゴルドスは映像へ視線を戻す。
オタクミが何かを力説している。
向かいの客は困っている。
リアが横から止めている。
セラは呆れている。
「……うるさいし」
「ええ」
「暴走するし」
「ええ」
「金の使い方も怪しいし」
「ええ」
「余計なことを思いつく」
「ええ」
「貴様、楽しんでおらんか?」
「少し」
ゴルドスは小さく舌打ちした。
「だが」
声が少し低くなる。
「拙者の思い通りになったことなど、一度もない」
マリスの目が細くなった。
「それを誇るの?」
「当然だ」
『ほう』
どこかの気配が、興味を示した。
ゴルドスは続ける。
「拙者があやつを連れてきたからといって、あやつの考えまで拙者のものになったわけではない。何を好きになるかも、誰と組むかも、何を作るかも、最後に決めておるのは地上の連中だ」
マリスがゆっくりと首を傾げる。
「駒ではない、と?」
「人間を駒だと思うな」
「まあ」
マリスは楽しそうに笑った。
「神に向かって、それを言うのね」
「貴様が相手だから言っておる」
「光栄だこと」
そのやり取りに、周囲の気配が微かに揺れた。
笑ったのかもしれない。
マリスは一歩、光景へ近づく。
「では、ゴルドス。あなたは、人間が自分の意思だけで動いていると思う?」
「……何が言いたい」
「見たものに影響される。言われた言葉に傷つく。欲しいと思わされる。嫌いだったものを好きになる。好きだったものを、嫌いになる」
指先で、光をなぞる。
「他人に動かされているとも言えるでしょう?」
「だから何だ」
「あなたの大好きな“好き”も、本当に本人だけのものなのかしら」
ゴルドスは返事をしなかった。
ラザリスの映像が揺らぐ。
代わりに、別の景色が浮かび始めた。
暗い部屋。
机。
紙。
誰かが報告を読み上げている。
「ラザリスで、“推し”と呼ばれる言葉が広がり始めています」
椅子に座っていた男の手が止まった。
顔は影に隠れている。
「……推し?」
低い声。
それだけだった。
映像はすぐに消えた。
ゴルドスがマリスを見る。
「今のは誰だ」
「あら」
「誤魔化すな」
「私は何も言っていないでしょう?」
「だから聞いている」
マリスは答えなかった。
ただ、笑っている。
ゴルドスの胸の奥に、嫌な感覚が残る。
あの声。
そして、あの言葉への反応。
「マリス」
「何かしら」
「貴様、何をしている」
「何も」
「嘘をつけ」
「本当に」
マリスは両手を広げる。
「私はただ、見ているだけ」
「信じると思うか」
「思っていないわ」
そこでマリスの笑みが、少しだけ薄くなった。
「でも、ゴルドス」
「何だ」
「あなたは、人が“好き”だけで前へ進めると思っている」
「……」
「けれど」
紫の瞳が細くなる。
「好きだったからこそ、憎むこともあるでしょう?」
ゴルドスの目が見開かれた。
「何を――」
「あら、時間ね」
周囲の光が大きく揺れた。
『報告は以上』
最初の声が響く。
景色が崩れ始める。
「待て、マリス!」
「またね、ゴルドス」
「今の言葉はどういう意味だ!」
「自分で考えたら?」
マリスの姿が光の中へ消えていく。
最後まで、笑っていた。
◇
次の瞬間、聞き慣れたオタクミの声が飛び込んできた。
「いや違う! 俺は見てないから!」
「絶対見ました!」
「見てないって!」
「見ようとしたでしょ」
「それは……ちょっとだけ!」
宿の一室。
オタクミ。
リア。
セラ。
机の上には、紙。
リアが慌てて何枚か裏返している。
セラがその上へ腕を置いて隠す。
「何描いてんの?」
「なんでもありません!」
「だから見せろって!」
「嫌!」
ゴルドスは、しばらく黙ってその様子を聞いていた。
さっきまでいた場所。
あそこで交わされた言葉。
人は駒か。
好きは本人だけのものか。
誰かに動かされても、その感情は本人のものと言えるのか。
答えは分からない。
だが。
『オタクミ』
「お、戻ったか。どこ行ってたんだよ」
『少し呼ばれていた』
「ふーん。で、これどう思う?」
「先生!」
「何だよ! 一枚くらい――」
『知らん』
「即答!?」
ゴルドスは少しだけ笑った。
『自分で決めろ』
「何を!?」
『全部だ』
「急に話でかくない!?」
リアとセラが顔を見合わせる。
ゴルドスはそれ以上、何も言わなかった。
駒は、勝手に動く。
なら盤面を見る者がどれだけ先を読んでも、すべてを思い通りにはできない。
そのはずだ。
そうであってほしい。
オタクミがまた紙を覗こうとして、セラに頭を叩かれた。
「痛っ!」
「見るなって言った」
「ちょっとくらいいいだろ!」
「駄目です先生!」
『……うむ』
ゴルドスは、鞘の中で小さく呟いた。
『やはり、駒ではないな』
「何が?」
『何でもない』
地上では今日も、誰にも頼まれていない何かが勝手に生まれていた。
それを、遠くから見ている者がいることなど知らないまま。




