尊みの灰に芽吹くもの
翌朝。
アーグは宿の一室で、自分の武器を机の上へ置いていた。
昨夜の戦いで付いた傷を確かめ、布で汚れを拭き、金具の緩みを一つずつ見る。長く使ってきた道具を点検する手つきには迷いがなく、どこを見れば状態が分かるかも身体が覚えていた。
問題は、一つだけ。
「……邪魔だな」
武器の根元に、昨日取り付けたアクスタが残っている。
透明な板。
簡易的に固定された台座。
戦闘用として考えれば、余計なものだった。
重心が変わる。
引っ掛かる可能性もある。
何かにぶつければ壊れる。
耐久性も武器本体とは比べものにならない。
合理的に考えれば、外す。
それで終わりだ。
アーグは留め紐へ指をかけた。
「…………」
止まる。
昨日の戦いが蘇った。
ジルバに動きを読まれた。
昔の癖を指摘され、自分でも嫌になるほど身体が固くなった。
その時。
武器の根元に立っていた絵が目に入った。
ただの絵だ。
声も出さない。
助言もしない。
魔力を与えられた感覚もない。
なのに。
見た瞬間、もう一度だけ動ける気がした。
「……再現性がない」
アーグは小さく呟いた。
留め紐を見つめる。
「数値化もできない。身体能力が上がった証拠もない。魔力の流れにも、明確な変化は……」
そこで言葉が止まる。
なら。
外せばいい。
理由は揃っている。
合理性もある。
それでも指は動かなかった。
「……何なのだ、これは」
『恋じゃね?』
「違う!」
即座に振り向く。
部屋の入口に、オタクミが立っていた。
腰の鞘からゴルドスの声がする。
「勝手に入るな!」
「ノックしたぞ。三回」
「聞こえなかった」
「ずっとアクスタ見てたから?」
「見ていない」
『見てたな』
「お前は見ていないだろう!」
『雰囲気で分かる』
「余計腹が立つ!」
アーグは大きく息を吐き、再び机へ向き直った。
オタクミが横から覗き込む。
「まだ付けてんじゃん」
「検証中だ」
「何を?」
「……」
「何を?」
「黙れ」
「分かってないんじゃん!」
オタクミが笑う。
アーグは睨んだ。
「昨日、あれを見た時に身体が動いた。それは事実だ」
「うん」
「だが原因が分からん」
「うん」
「武器性能が向上したわけでもない。何らかの術式が発動した形跡もない。偶然、気分が変化しただけとも考えられる」
「うん」
「……何だ」
「いや。アーグがそういう話してんの、ちょっと面白くて」
「何がだ」
「いつもなら『効果が証明できないから切り捨てる』って言いそうだから」
アーグは口を閉じた。
その通りだった。
証明できない。
利益も読めない。
再現性も分からない。
かつての自分なら、そんなものに時間を割かなかった。
「だから調べている」
「外さずに?」
「……検証のためだ」
「ふーん」
「その顔をやめろ」
「別に何も言ってないけど」
「言っている」
オタクミはまた笑った。
◇
しばらくして、リアとセラも部屋へやってきた。
昨日の売場で無事だった品の確認と、壊れた台の修理について話すためだったが、リアは机の上を見るなり足を止めた。
「あ」
アーグが嫌そうな顔をする。
「何だ」
「まだ付けてくれてたんですね」
「……結果的にな」
「よかったです」
「何がだ」
「昨日、外すって言ってたので」
リアは武器へ近づいた。
アクスタをじっと見る。
「別の絵に替えますか?」
「……別の?」
「はい。昨日は急いで差したものなので。もっと戦いやすそうな絵とか、アーグさんが気に入ったものとか」
「気に入ったもの」
その言葉が妙に引っかかる。
リアは悪気なく続けた。
「何枚かありますよ。横向きのものとか、座ってるものとか」
アーグの目が一瞬だけ動く。
座っている絵。
EP028で、なぜか目に留まったもの。
昨日のものとは違う。
比べてみる。
変える理由はある。
武器へ付けるなら、絵の形や大きさで邪魔になりにくいものを選んだ方が合理的だ。
「……いや」
口から出た言葉は、それとは逆だった。
「このままでいい」
リアが微笑む。
「はい」
「……何だ」
「何も言ってません」
「皆してその顔をするな!」
セラが壁にもたれて腕を組む。
「自分で選んだじゃん」
「何をだ」
「その絵」
「替えないと言っただけだ」
「それを選んだって言うの」
「違う」
「どこが?」
「……」
アーグは答えられなかった。
選ぶ。
その言葉自体は、何千回も使ってきた。
何が売れるか。
何を仕入れるか。
誰へ流すか。
どこで価格を動かすか。
そういう選択なら得意だった。
だが。
理由を説明できないものを選ぶことは、ほとんどなかった。
「……効率がいいわけではない」
アーグは呟く。
「そうだね」
セラが返す。
「市場価値が高いわけでもない」
「うん」
「希少でもない」
「そうですね」
リアが頷く。
「なら、なぜ私はこれを残している」
誰もすぐには答えなかった。
オタクミだけが、少し考えてから口を開いた。
「今すぐ名前つけなくてもいいんじゃね?」
「は?」
「好きとか推しとか、そういうの」
アーグが眉をひそめる。
「曖昧すぎる」
「曖昧でいいだろ」
「価値を曖昧なまま扱うのか?」
「だって、まだ分かんないんだろ?」
「……」
「分かんないなら、分かんないままで持ってればいいじゃん」
「何だ、その雑な理屈は」
「でも外したくないんだろ?」
アーグは武器を見る。
外したくない。
その言葉だけは、妙に正確だった。
「……それだけでいいのか」
「今はな」
オタクミは肩をすくめた。
「あとで『やっぱ違った』って外してもいいし。別の絵がよくなってもいいし」
「そんなに簡単に変えていいものなのか?」
「好きなもんなんて、変わることあるだろ」
アーグが顔を上げる。
オタクミは珍しく、押しつけるような顔をしていなかった。
「だから、俺が決める話じゃない」
その言葉に、アーグはしばらく黙った。
◇
昼前。
売場の修理をしながら、アーグは昨日の注文票を整理していた。
破れたものはない。
名前と希望。
選んだ絵。
受け取り予定。
一枚ずつ見る。
「……不思議なものだ」
「何が?」
横で棚を直していたセラが聞く。
「同じ品でも、欲しがる理由が違う」
「今さら?」
「今までは理由を分類していた」
「分類?」
「実用。贈答。希少性。流行。収集。価格期待。そういう項目だ」
「いかにもアーグって感じ」
「悪いか」
「別に」
アーグは紙を一枚持ち上げる。
そこには、特定の表情を選んだ客の注文が書かれていた。
「昨日までなら、こう考えた。どの絵が最も売れるか。何枚用意すべきか。どの価格なら最大になるか」
「うん」
「だが……」
一度言葉を切る。
「売れる理由と、欲しくなる理由は、同じではないのだな」
セラが少しだけ目を細めた。
「それ、前からオタクミがうるさく言ってなかった?」
「言葉として聞くのと、自分で分かるのは別だ」
「……まあ、それはそう」
アーグは自分の武器を見る。
そこにはまだ、アクスタが付いている。
誰に売るわけでもない。
値段を上げるものでもない。
戦闘効率だけなら、ない方がいいかもしれない。
それでも。
ある方がいい。
その感覚を、自分が持つとは思わなかった。
「面倒なものだな」
「何が?」
「欲しいという感情は」
「今さら?」
「二度言うな」
◇
夕方。
アーグは宿へ戻り、武器を布で包もうとしていた。
明日また使うなら、埃を避けた方がいい。
いつもの手順。
武器全体を覆う。
留める。
「……」
机へ置く。
少し離れる。
「……」
戻る。
布の端を少しだけずらした。
アクスタの部分だけが見える。
『お』
「何だ」
『見えるようにしたな』
「湿気対策だ」
『透明板に?』
「黙れ」
ちょうど部屋へ入ってきたオタクミが、それを見て吹き出した。
「いや、それ絶対見たいだけじゃん!」
「違う!」
「じゃあ全部包めよ!」
「これは……状態確認を容易にするためだ!」
「透明だから包んだままでも大体見えるだろ!」
「うるさい!」
アーグは布を直そうとして。
また止まった。
透明な板の向こう。
昨日と同じ絵。
何も言わない。
何もしてくれない。
それでも。
見ると、ほんの少しだけ明日のことを考えられた。
戦いではない。
売上でもない。
次に何をするか。
何を選ぶか。
そういうことを。
「……面倒だ」
呟く。
だが今度は、その言葉に苛立ちはほとんどなかった。
灰になったのは、何だったのか。
過去の自分。
価値の見方。
それとも、他の何か。
アーグにはまだ分からない。
ただ。
その灰の中に、小さなものが芽を出し始めている。
名前もない。
値段もない。
数値にもできない。
けれど確かに、そこにある。
『……で、それ外すの?』
「外さん」
即答だった。
数秒の沈黙。
「……今はな」
『はいはい』
「その返事をやめろ!」




