孤独のアーグ
地位も、富も、かつて信じていた美学も失った。
少し前までの私は、値札を見ればその裏側を読めた。何が不足し、誰が欲しがり、どこへ流せばどれだけ利益が出るのか。需要と供給、希少性と焦り、見栄と執着。人が何かを欲しがる理由を細かく分解し、それを数字へ置き換えることが、私の仕事だった。
いや――仕事という言葉では足りない。
それこそが、私の価値だった。
転売魔の側で幹部として振る舞っていた頃は、それを疑ったことなど一度もない。高く売れる物には価値がある。欲しがる者が多ければ値段は上がる。ならば値上がりする物を先に押さえ、最も高く買う者へ渡せばいい。それが市場だと、本気で思っていた。
今となっては、その肩書きも金もない。
元の仲間たちの前へ堂々と顔を出せる立場でもなくなり、人目を避けて日々をつなぐだけの生活をしている。
それでも頭だけは勝手に働いた。
安い宿を見ると稼働率を考え、露店を見ると仕入れ値を推測し、人の流れを見れば売上を計算する。長年染みついた癖は、簡単には抜けないらしい。
だが、一つだけ分からなくなったことがある。
自分が、何を欲しいのか。
それだけが分からない。
◇
久しぶりに足を踏み入れたラザリスは、妙な街になっていた。
前から騒がしい場所ではあった。だが今は、以前とは違う種類の物が目につく。
店の帳場。
窓辺。
屋台の隅。
宿の受付。
透明な板が、小さな台座に差し込まれて立っている。
そこに描かれているのは人物の絵だ。
「……何だ、これは」
思わず足を止めた。
最初に見たのは、剣を構えた少女だった。
次の店では、笑っている別の人物。
少し離れた窓には、二つ並んで置かれている。
私は反射的に構造を見た。
素材は透明。完全な均一品ではない。わずかな曇りや厚みの差もある。台座との噛み合わせも一つずつ微妙に違う。大量生産品には見えない。
ならば製造効率は悪い。
同じ形を大量に作れば原価は下げられるはずだが、見たところ絵柄がばらばらだ。それどころか、同じ人物でも姿勢や表情まで違う。
商材としては、未熟。
私なら、そう評価する。
なのに。
「そっちじゃなくて、こっち」
近くの露店で、子供が二つの品を見比べていた。
「こっちの方が綺麗だぞ?」
父親らしき男が言う。
「でも、こっちの顔の方が好き」
「同じ子だろ?」
「違うの」
子供は迷わず一方を選んだ。
私は眉をひそめた。
品質ではない。
値段を見る限り、大きな差もない。
希少性でもない。
何だ?
少し歩くと、今度は女性が店主へ尋ねていた。
「これ、二つ並べてもいいの?」
「買った後は好きにすりゃいいだろ」
「じゃあ、こっちとこっち」
「同じ棚に置くのか?」
「一緒にいた方が楽しそうだから」
意味が分からない。
一緒にいた方が、楽しそう。
商品価値の説明になっていない。
だが、その女は満足そうに金を払った。
私は無意識に、その二つの透明板を目で追っていた。
価値を決める要因が、どこにも見えない。
いや。
見えていないのは、私の方か。
◇
「……まだこんな物を作っていたのか」
気づけば、口に出していた。
「こんな物とは何だ!」
聞き覚えのある声が飛んできた。
身体が固まった。
振り返る。
金髪の少女の姿。
だが中身は、間違えようもない。
「お前……」
「あ」
向こうも気づいた。
オタクミ・ルミナス。
あの日、理解不能な武器を私の目の前へ突きつけ、あまつさえそれを傷つけることなく私を叩き伏せた男。
反射的に身構える。
腰へ手を伸ばしかけ――そこに以前ほど頼れる物がないことを思い出した。
「……アーグ」
名前を呼ばれた。
逃げるべきだ。
そう判断した。
だが、一歩遅かった。
「ちょっと待ちなさい」
銀髪の少女が横へ回り込んでいた。
セラ。
視線が鋭い。
「こいつ、知り合い?」
「前にやり合った転売魔」
「最悪じゃない」
「随分な言われようだな」
「事実でしょ」
否定できないのが腹立たしい。
もう一人、リアが警戒しながらオタクミの後ろからこちらを見ている。
「……何をしに来た」
オタクミの声から、先ほどまでの軽さが消えた。
「何も」
「何もない奴は、あんな顔で商品見ない」
「どんな顔だ」
「めちゃくちゃ気になってる顔」
「違う」
『いや、気になってたな』
鞘から声がした。
私は目を細める。
「その鞘も相変わらず喋るのか」
『久しぶりだな』
「気軽に話しかけるな」
「で」
オタクミが一歩近づく。
「アクスタ、気になるのか?」
「……それが、その名前か」
「そう!」
急に声が大きくなった。
「透明な板に推しを――」
「説明は要らん」
「まだ一行目!」
「見れば構造は分かる」
私は机の上へ目を向けた。
注文票らしき紙が積まれている。
完成品。
未完成品。
別々の絵。
受取日らしき書き込み。
少し見ただけで、嫌でも問題点が分かる。
「……このやり方では、長く持たないぞ」
三人の顔が変わった。
「何?」
オタクミが眉をひそめる。
「絵柄ごとに形が違う。注文ごとに個別対応。材料の状態にもばらつきがある。職人へ型を頼んでいるなら、その工数も増える」
私は紙の束を指した。
「受注数は?」
「何でお前に」
「昨日より増えたな」
セラだけが黙った。
私は続ける。
「納期を決めずに受ければ、遅れる。遅れれば信用を失う。だからといって全部急げば、品質が落ちる。材料を増やすだけでも解決しない。作れる量以上に注文を取れば、いずれ破綻する」
「……」
オタクミが静かになった。
「先生」
リアが小声で言う。
「昨日、同じ話してました」
「分かってる」
「こいつの言ってること、たぶん合ってるわ」
セラが認めた。
私は少しだけ苦く笑う。
「当然だ。その程度のことも分からず、以前の私は人から金を取っていたわけではない」
言った瞬間、自分の言葉が引っかかった。
以前の私は。
人から金を取っていた。
欲しい人間がいる。
なら値段を上げる。
手に入りにくくすれば、さらに欲しくなる。
それを知っていた。
知っていて使った。
「……売買だ」
思わず呟いていた。
「ん?」
「何でもない」
欲しい者がいる。
持つ者がいる。
なら高く売る。
ただそれだけ。
そう思っていた。
だが、さっきの子供は、綺麗な方ではなく好きな顔の方を選んだ。
二つ並べた女は、値上がりも希少性も気にしていなかった。
ああいう気持ちまで、私は値段に変えていたのか。
そこまで考え、止めた。
今さらだ。
◇
「で、お前は?」
オタクミが突然言った。
「何がだ」
「どれがいい?」
「……は?」
机の上へ、数枚の絵が広げられる。
「買えとは言ってない。どれが好きかって聞いてる」
「くだらん」
「即答するな」
「どれが売れるかなら答えられる」
「聞いてない」
「客層別の需要予測もできる」
「それも聞いてない」
「価格設定なら――」
「だから!」
オタクミが絵を叩いた。
「お前がどれ好きか聞いてんの!」
言葉が止まった。
そんな問いを向けられたことが、あっただろうか。
商品を見る時は、売れるかどうか。
人を見る時は、買うかどうか。
価値を見る時は、金になるかどうか。
好きか。
嫌いか。
そんな分類は必要なかった。
「……分からん」
正直に答えていた。
オタクミが少し意外そうな顔をする。
「分からない?」
「悪いか」
「いや」
珍しく、笑わなかった。
「じゃあ、見ればいい」
「何を」
「分かるまで」
簡単に言う。
腹が立つ。
それでも私は絵へ目を落とした。
一枚。
二枚。
三枚。
どれも商品として評価できる。
線の見やすさ。
色の映え方。
透明板へ移した時の視認性。
量産するならどれが有利か。
そんなことばかり考えてしまう。
だが、一枚だけ。
手が止まった。
派手ではない。
笑ってもいない。
誰かが椅子に腰掛け、少し横を向いているだけの絵だった。
「それ?」
リアが尋ねる。
「……いや」
「今、一番長く見てたぞ」
「偶然だ」
『分かりやすいな』
「黙れ」
オタクミが、その絵と私を見比べる。
「何がいいんだ?」
「分からんと言っている」
「じゃあ、何となく?」
「……そういうことにしておけ」
私は視線を外した。
胸の奥が、少しだけ落ち着かない。
値段も。
希少性も。
需要も。
何一つ考えずに一枚を見ていた。
それが妙に気に入らなかった。
◇
「帰る」
これ以上いる理由はない。
私は踵を返した。
「アーグ」
背中へ声が飛ぶ。
「何だ」
「また来いよ」
振り返らない。
「なぜだ」
「お前、こういうの詳しそうだし」
「人を便利に使うな」
「あと」
一拍置いて、オタクミが続けた。
「まだ、どれが好きか決まってないだろ」
「……くだらん」
そのまま歩いた。
市場を抜け、人の少ない道へ入る。
いつもなら、今日見た店の客数や商品の動きを頭の中で整理している頃だ。
だが、今日は違った。
浮かんでくるのは、一枚の絵だった。
椅子に腰掛け、少し横を向いていた人物。
なぜあれだったのか。
分からない。
「……悪くは、なかったな」
口に出してから、自分で驚いた。
何が悪くなかったのか。
絵か。
あの透明な商品か。
市場か。
それとも。
あそこで誰も、私に値段を付けなかったことか。
答えは出ない。
それでも私は、久しぶりに明日のことを少しだけ考えていた。




