孤独のアーグ
地位も、富も、かつて信じた歪んだ美学も失った。
転売魔幹部として君臨していたのは、もはや遠い幻だ。
今の私は、ただの逃亡者。
転売魔の裏切り者として命を狙われ、名前を変え、フードを深くかぶってひっそりと生きる日々。それが今の私アーグ・ビルダネスだ。
……だが、腹が減った。
いや、正確には、食うものなどほとんど口にしていないのだから、常に飢えているのが当然だ。
だが、それよりも辛いのは――心が、乾いている。
何を見ても、何を手にしても、満たされない。
あの日、あの“痛武器”に浄化されてからというもの、私の魂は、ずっと空洞のままだ。
そんな中、流れてきた噂。
「ラザリスの裏路地に、訪れた者の魂が癒やされる、不思議なカフェがある」
……バカバカしい。
だが、その一言を笑い飛ばすほど、私は強くない。
私は今――「何か」を求めていた。
気づけば、ラザリスの裏通りに立っていた。
見上げた看板には、こう記されていた。
「Twinkle☆Cafe 『KIRABOSHI』」
~ようこそ、輝星の世界へ~
……なんだ、このフォントは。
無駄に丸っこく、可愛らしさに満ちている。
店先には、花が飾られ、壁には、どこかで見たような美少女のイラスト。
そうだ――
あのとき見た、“魔導書”のSD画。私を狂わせ、そして敗北させた“カワイイ”の根源。
……これは、ただのカフェじゃない。
恐らく、あの“痛武器の使い手”の影がある。
だが、足は止まらなかった。
魂が、叫んでいた。
(――入れ)
フードを深くかぶり、ドアノブに手をかける。
カラン。小さな鈴の音が鳴った。
「い、いらっしゃいませー!」
……聞き覚えのある声だ。
(……まさか)
目の前に現れたのは――
金髪ウエイトレス。
明らかに男でありながら、フリル満載のメイド服。
そして、なぜかその姿に、違和感を覚えない。
(……いや、違う……違うはずだ……!)
私はそっと、席に腰を下ろした。
「お一人様ですね? こちらへどうぞ~♪」
「…………」
メニューを開く。
『ミスティアのクール・ブルーハーブティー』
『輝星戦姫の友情パンケーキ』
『ルミナス覚醒ラテ ~魂の一杯~』
……訳が分からん。
だが、そのネーミングの裏にある“物語性”に、私の職業的勘が反応した。
これは……「テーマ型商品展開」だ。
全てが、作品世界に根ざして設計されている。
「……では、このパンケーキというものを」
「はいっ! 少々お待ちくださいませ~☆」
ウエイトレスが厨房へ走っていく。
……その足取り。背中のライン。どこかで……
いや、気のせいだ。
私は、かつての“オタクミ・ルミナス”と呼ばれた少女を見間違えるほど、耄碌してなどいない。
その時だった。
彼女は俺のテーブルの横で、ふと足を止め、俺の顔を、フードの隙間から覗き込むように、じーーーーっと見つめてきた。
(……っ!?)
血の気が引いた。心臓が、鉄の槌で打たれたように跳ねる。
バレた…!
変装しているというのに、なぜ!? 私の正体が、元転売魔幹部アーグ・ビルダネスであると、なぜ見抜いた!?
終わった…! ここで粛清されるのか…!
観念して、目を閉じた。
だが、ウエイトレスの口から放たれた言葉は、私の予想を180度裏切るものだった。
「お客様…さては、あなたも『ミスティア推し』ですね…?」
「………………は?」
思わず、素っ頓狂な声が出た。
ウエイトレスは、キラキラした瞳で、同志を見つけたかのように熱く語りかけてくる。
「隠さなくても分かります! その瞳の奥に宿る、深い悲しみと、それでも何かを求める渇望の光…! それはまさしく、推しを求める者の魂の輝き! あなたも、我々と同じ“尊み”の探求者とお見受けしました!」
…おし? とうとみ…?
なんだそれは。呪文か?
だが、一つだけ分かった。
助かった…らしい。
とんでもない勘違いのおかげで。
……
しばらくして、彼が戻ってきた。
「はい! こちらが友情パンケーキでございます!」
テーブルに置かれた瞬間――
私の脳裏に、雷が落ちた。
(な……何だこれは……)
雪のように白いクリームの上に、五色の果実が宝石のように輝いている。
上には、ミスティアらしきキャラのチョコレートプレート。
皿の周囲には、金粉まであしらわれている。
……これは、戦闘ではない。
芸術だ。
フォークを差し入れる。……驚くほど柔らかい。
口に含んだ瞬間、静かな音楽が、脳内に流れた。
(……これは……)
甘すぎないクリーム。ふわふわの生地。酸味のある果実。
それらが完璧なバランスで融合し、口の中に「物語」を描き出す。
“友情”の味。確かに、ここにある。
「……うまい……!」
気づけば、私は完食していた。
「お飲み物は、いかがなさいますか?」
ウエイトレス(たぶんあのオタクミ)にそう尋ねられた私は、自然と口にしていた。
「……では、“ランダムラテ”というものを……」
「はいっ! 少々お待ちくださいっ!」
……そして、それが“罠”であることに、私はまだ気づいていなかった。
しばらくして、コック姿の少女――リアと呼ばれていた小娘が、目の前で器用にミルクの泡を操っていく。くるくる、トントン。真剣な表情。手元の動きには一切の迷いがない。
そして、仕上がったラテが私の前に差し出された。
「完成ですっ!」
そこには、SD化されたミスティア・ルミナスが、ウインクしながらスプーンを持って微笑んでいた。
……かわいい。
脳が、一瞬で沸騰した。
見つめてはいけないのに、見つめてしまう。
一口、恐る恐る口をつける。
温かい。
甘い。
優しい。
そして……沁みる。
「……うまい……!」
自然と、涙がこぼれていた。
このラテには、“憎しみ”が一滴も入っていない。
(……これは、穢れなき……“創作”の味だ……)
そして、そのラテと共に――
「こちら、ランダムラテの特典コースターですっ!」
リアが、満面の笑顔で差し出してきた。
「お……?」
薄く光沢のある、円形のコースター。手触りはさらりとしている。
そこには、SDミスティアが「ありがとう」と手を振っているイラストが描かれていた。
「全8種類のランダム仕様でして、集めると“シークレット仕様の超激レアコースター”がもらえるんです♪」
「ランダム……?」
そう、これは――
(ガチャ形式か……!)
かつて転売屋として、何百回となく利用してきた“収集欲に訴える”戦略……。
だが今、その仕掛けが私の心を撃ち抜いていた。
私は、そっと財布の中を確認する。
かろうじて、明日分の食費は残っている……が。
(……いや、だが)
私は、次回もこのラテが飲みたくなっていた。
そして、別の表情を見せるミスティアのコースターも、見てみたいと思っていた。
「……これ、被らないようになっているのか?」
「被りますっ!!(ニッコリ)」
……完全なる悪魔のシステム。
だが、嫌いではない。
⸻
ふと何かが、視界の端に引っかかった。
(……ん?)
ふと、店内の角、ステージめいた飾り棚の上。
そこに、何やら見覚えのある“異様な”物体が――
(ッ!!?)
……あれは、間違いない。
あの刀身。ピンクと金のグラデ。
刃の根本に鎮座するフルカラーの魔法少女。
持ち手にはアクリルチャームと、意味深なハートの装飾。
かつて私を精神的に叩きのめした、あの“狂気の刃”――
**痛武器**だった!!
(なんだ……なぜ、こんな……!?)
慌てて店員に目をやると、厨房の奥からリアの声が聞こえてきた。
「BGM変えますねー♪」
その瞬間、刃の中央部がほんのり発光し――
店内に、さわやかなイントロが流れた。
♪~キラめく星に願いを込めて~輝け、ミスティア・ルミナス☆~♪
(しゃ、喋った!? いや違う、……歌が流れてる!?)
ゴルドスの声(脳内放送)すら聞こえた気がした。
(くっ……なんという無駄技術の集大成……!)
それは、もはや武器ではなかった。
店内BGMを奏でる、“推しの祭壇”と化していたのだ。
まるで、現代アート。
いや――信仰対象のご神体。
その痛々し……神々しい姿に、私の心はまたひとつ砕かれた。
⸻
帰り道。
私はコースターをそっと胸ポケットにしまい、深く息をついた。
「明日も、来るか」
――ランダムラテの全8種をコンプリートするまで。
だが、それは単なる収集欲ではない。
ラテの味。リアの笑顔。あの空間に漂う、“誰かを喜ばせたい”という純粋な気持ち――
それを受け取るたびに、私の中の“乾いたもの”が、ほんの少しずつ満たされていくのだ。
「ふぅ……明日は、青いハーブティーと、コースター第2弾を狙おう」
アーグ・ビルダネスではない。
今の私は、ただの一人の客――“癒やしを求める常連”である。
そして私は、まだ出会えていない“推しコースター”のために、明日もまた、あの扉を開くのだ。
──推しは、裏切らない。




