異世界への誘い その2
暗闇の中で、最初に戻ってきたのは音ではなかった。
身体の感覚でもない。ただ、白かった。
目を開けているのか閉じているのかすら曖昧なのに、どこを向いても白い。天井も床も境目がなく、遠近感さえまともに働かない。自分が立っているのか、それとも浮いているのか、それすら自信が持てなかった。
「……ここ、どこだ?」
声は出た。思ったより普通の声だったことに、少しだけ安心する。
けれど、その安心に引っ張られるように記憶が戻ってきた。
ライブを終え、映画へ向かう途中の夜道。信号が青へ変わり、アクセルを踏んだ直後に人影が飛び出してきた。反射的にブレーキを踏んだが間に合わず、次の瞬間には車体が大きく跳ね、腕まで震えるような衝撃が走った。
夢でも錯覚でもない。
俺は、人を――。
そこまで考えたところで、もう一つの映像が頭に浮かんだ。
人影の脇で揺れていた、小さなストラップ。
青と白。星を思わせるデザイン。ミスティアのグッズだったことだけは間違いない。
どうしてあんな場面で、それだけが妙にはっきり残っているのかわからない。ただのグッズなら、俺が見覚えを感じても不思議じゃない。それなのに胸の奥には、説明できない引っかかりが残っていた。
「……俺、死んだ?」
呟いた声が、白い空間へ吸い込まれていく。
その直後だった。
「いや、生きておるぞ」
「うわああああああっ!?」
背後から突然声をかけられ、思わず飛び退いた。
振り返った先に立っていたのは、俺より頭一つ大きな男だった。腕は太く、胸板も厚い。どう見ても格闘漫画から抜け出してきたような身体つきなのに、その胸元には今日のライブ限定ミスティアTシャツが堂々と主張している。
「……そのTシャツ」
「そこからか」
「いや、そこからだろ! 今日の限定じゃねえか!」
「通販抽選で確保した」
「正規ルート……!」
反射的に納得しかけてから、俺は慌てて首を振った。違う。今はそこじゃない。
「いや待て、誰だよあんた! ここどこだよ! ていうか俺どうなった!?」
男は少し困ったように眉を下げ、それから顔へ手をやった。
「眼鏡がないと、そこまで分からぬものか」
「眼鏡?」
「それに、現世では着込んでおったからな」
その言い方と、妙に古風な口調。そしてミスティアTシャツ。
頭の中でいくつかの点がつながった。
「……オタメガネ?」
「うむ」
「嘘だろ!?」
思わず二度見した。
俺の知っているオタメガネは、丸眼鏡に推しTを何枚も重ね着していて、全体的にもっと丸い印象だった。それがどうして、眼鏡を外した途端にこんな筋肉の塊になる。
「その筋肉どこに隠してたんだよ!」
「服の下だが」
「物理的な話をしてんじゃねえ!」
事故直後だというのに、いつもの調子でツッコんでしまった。
それが妙に懐かしくて、少しだけ呼吸が戻る。
けれど、オタメガネ――いや、目の前の男はそこで表情を改めた。
「正確には、こちらでの名はゴルドス。見習い神候補、といったところだ」
「情報量を増やすな!」
「順を追って話す」
「最初からそうしてくれ!」
オタメガネが神で、しかもまだ候補らしい。事故の直後に聞かされる情報としては、あまりにも処理が追いつかなかった。
けれど、それより先に聞かなければならないことがある。
「さっき、生きてるって言ったよな」
「ああ。貴殿は死んでおらぬ」
ゴルドスは今度こそ、はっきりと答えた。
その言葉に胸が少し緩む。だが、すぐに次の不安がせり上がった。
「じゃあ……相手は?」
声が自分でもわかるくらい硬くなる。
「あの人だよ。俺、ぶつかった。ブレーキ踏んだけど間に合わなかった。あの人はどうなった?」
事故の瞬間が蘇る。あの鈍い音を思い出しただけで、胃の奥が縮んだ。
ゴルドスは、ふざけなかった。
「命に別状はない」
「……本当に?」
「生きておる」
全身から一気に力が抜けた。
白い空間に床があるのかもよくわからないのに、俺はその場へ座り込みそうになった。
「……よかった」
それしか出てこなかった。
誰なのかも知らない。何をしていた人なのかも知らない。それでも、俺の車とぶつかった人が生きている。その事実だけで、張り詰めていたものが少しほどけた。
「ただし」
ゴルドスの声が低くなる。
「その者について、今ここで全てを話すことはできぬ」
「なんで?」
「言えぬことがある」
「便利だな、神様」
「見習いだ」
「そこ訂正すると余計不安になるんだけど」
軽口を返しながらも、引っかかりは残った。
事故相手のことを、こいつは明らかに何か知っている。
「……あの人、ミスティアのストラップ持ってた」
俺がそう言うと、ゴルドスの表情がわずかに止まった。
「青と白で、星っぽいやつ。なんか見覚えがあったんだよ。でも、誰のだったか出てこない」
しばらく沈黙したあと、ゴルドスは短く答えた。
「貴殿と縁のない者ではない」
「誰なんだよ」
「今は言えぬ」
「またそれか」
苛立ちはした。
けれど、さっきの「生きている」という言葉だけは信じたかった。
帰れたら、ちゃんと会わなければならない。謝って、何が起きたのかを確かめる。
そう考えたところで、ゴルドスが話題を変えるように手を上げた。
「自分の状況も見ておくか」
「俺の?」
「現世の事故現場だ」
次の瞬間、視界ではなく頭の中へ直接映像が流れ込んできた。
夜の道路に赤い光が点滅し、その中を人影が慌ただしく動いている。そして少し離れた場所には、見慣れた俺の痛車輝が止まっていた。
いや。
止まっている、なんて言い方では足りない。
フロント部分は完全に潰れ、ボンネットいっぱいに描かれていたミスティアも見る影がなかった。
「…………」
「オタクミ殿?」
「…………」
「大丈夫か?」
「俺の痛車ァァァァァァァッ!!」
絶叫した。
「ミスティアが! ボンネットのミスティアがぁぁぁぁぁ!」
「そこなのか!?」
「相手が生きてるって聞いた! 俺も生きてる! じゃあ次は痛車だろ!」
「筋は通っているようで何かがおかしい!」
叫びながらも、事故が本当に起きたことを改めて突きつけられていた。
車は壊れている。人にもぶつかった。全部現実だ。
笑って済ませられることじゃない。
「……本当に、ぶつかったんだな」
俺がそう呟くと、ゴルドスも静かに頷いた。
脳内の映像が消え、白い世界へ戻る。
「で、俺の身体は?」
「ようやくそこへ戻ったか」
「うるさい」
ゴルドスによれば、現実世界の俺の肉体は生きているらしい。
今ここにいる俺は、その肉体そのものではなく、意識とか魂とか、そういうものを切り離して話せる状態なのだという。
「厳密に説明すると長くなるが、今は“肉体は向こうで生きていて、貴殿はこちらに意識だけ来ている”くらいでよい」
「雑だけど今は助かる」
事故のあとに神様候補の身体構造講座まで始まったら、さすがに脳が拒否する。
「ここは“白間”。現世と、これから貴殿が向かう世界の間にある場所だと思えばよい」
「これから向かう世界?」
「異世界だ」
あまりにもさらっと言われて、逆に反応が遅れた。
「……異世界?」
「うむ」
「マジの?」
「マジの」
今日一日だけで、ライブものから交通事故、神様ものを経由して異世界ものまで来てしまった。
ジャンル変更が激しすぎる。
ゴルドスはそんな俺の混乱を無視して話を続けた。
「向こうでは、転売魔どもが市場を荒らしておる。希少な品を買い占め、欲する者へ届かぬようにして値を吊り上げる。作り手の事情も、待っている者の気持ちも関係ない。売れればよい、値が上がればよい。それだけだ」
「……は?」
その説明だけで、別の意味で頭が熱くなった。
限定品を買い占めて、発売直後に何倍もの値段で売る。欲しかった人間が買えないことなんてどうでもいい。
そういう光景なら、現実でも嫌というほど見たことがある。
「それを、俺に止めろって?」
「力を貸してほしい」
「神なら自分でやれよ」
「こちらにも制約がある」
「神様も自由じゃないんだな」
「見習い神候補だ」
「そこだけ律儀に訂正すんな」
不安はある。
事故のことも気になるし、現実の身体だって心配だ。それでも、好きなものを金だけで食い物にする連中がいると聞いて、黙って見ているのも俺らしくなかった。
「……帰る方法はあるんだよな?」
「条件はあるが、道はある」
「現実の俺も生きてる」
「うむ」
「あの人も」
「生きておる」
それだけ確認して、俺は息を吐いた。
「じゃあ行く」
ゴルドスが目を細める。
「即答だな」
「推しを利用して金だけ稼ごうとする奴は嫌いなんだよ。向こうでも同じことやってるなら、なおさら放っとけない」
それは立派な使命感なんかじゃない。
もっと単純で、もっと個人的な感情だ。
俺が嫌だから止めたい。
今はそれで十分だった。
ゴルドスが腕を振ると、白い空間の中に金色の線が走った。それはやがて大きな扉の輪郭を作り、隙間から眩しい光が溢れ出す。
「あの先が異世界だ」
「随分わかりやすい入口だな」
「初見に優しい設計である」
「そこ配慮するんだ」
扉の前へ立つと、事故の人影と青と白のストラップがもう一度頭に浮かんだ。
まだわからないことばかりだ。
けれど、戻れるなら戻る。
その時には、ちゃんと確かめる。
「行ってくる」
誰に向けた言葉だったのか、自分でもよくわからない。
ゴルドスが笑った。
「行ってこい、オタクミ殿」
俺は光の向こうへ、一歩踏み出した。




