異世界への誘い その1
あなたに推しはいるだろうか。
画面の向こうで笑っているだけで、その日一日をどうにか乗り切れるような存在。新しいグッズが出れば財布の残高と真剣に相談し、供給が途切れれば情緒まで不安定になる。周囲から見れば大げさでも、本人にとっては人生の一部どころか、時には人生そのものを支えるくらい大きな存在。
俺にとって、それがミスティア・ルミナスだった。
「るみたぁぁぁぁぁん!!」
ライブ会場の照明が一斉に弾け、ステージ中央で銀髪の少女が剣を掲げる。もちろん本物のミスティアがそこにいるわけじゃない。スクリーンに映るアニメーションと、演者と、音楽と、何千本ものペンライトが一つになって作り上げた世界だ。
それでも、そんな理屈はどうでもよかった。
『輝星のルミナス』。通称『ルミナス』。
その中でもミスティア・ルミナスは、俺にとって特別だった。仕事で失敗して自分が世界一使えない人間に思えた日も、人間関係が面倒になって誰とも喋りたくなくなった夜も、帰って彼女の出ている話を見れば、少しだけ明日まで生き延びる気になれた。
大げさだと思うなら、たぶん推しに救われたことがないのだ。
「オタクミ、飛ばしすぎ! まだ次あるぞ!」
隣から声を張り上げたのは、丸眼鏡に何枚重ねているのかわからない推しTシャツ姿の男だった。ネットでも現実でも俺が「オタメガネ」と呼んでいるオタク仲間である。
「ここで飛ばさずいつ飛ばすんだよ! 次、『Twinkle☆Revolution』だぞ!」
「だからそこで死ぬなと言っておる!」
「推しの前なら本望!」
「ライブ後に映画行く約束を忘れるな!」
「それは困る!」
死ねない理由ができた。
ステージでは三島レナのMCが続き、会場中から笑い声が上がる。その直後、聞き慣れたイントロが流れた瞬間、俺たちは揃ってペンライトを振り上げた。
「来たあああああ!」
周囲の観客も同時に立ち上がる。青と白の光が客席を埋め、その中心でミスティアの映像が剣を振るう。
こういう瞬間が好きだ。
知らない人間同士なのに、同じキャラクターを見て、同じ曲を聞いて、同じタイミングで声を上げる。それぞれ好きになった理由なんて違うはずなのに、その数分だけは全部が一つになる。
推しを好きでよかったと思える。
ライブが終わった頃には、喉は死にかけ、腕は重く、財布は物販で軽くなっていた。
完璧だ。
「いやあ……良かった……」
会場を出たところで、俺は戦利品の入った袋を胸に抱えた。限定タオル、アクリルスタンド、ライブ限定キーホルダー。全部必要経費である。
「顔が完全に成仏しかけておるぞ」
「推しを浴びすぎた」
「これから映画だろう」
「あ」
危ない。本当に忘れかけていた。
今夜は『輝星のルミナス』劇場版の先行上映もある。ライブから映画へ移動するという、オタクの体力を完全に無視した強行軍だ。
「チケット持った?」
「無論」
「よし。じゃあ車取ってくる」
俺が駐車場へ向かうと、少し離れた場所からでも愛車はすぐにわかった。
ボンネットにはミスティア。
側面にもミスティア。
夜の照明を反射して、俺の痛車――痛車輝は今日も最高に輝いている。
「……やっぱいいな」
運転席へ乗る前に、ボンネットの端へ小さな汚れが付いているのが見えた。袖で軽く拭ってやる。
推しの顔が汚れたまま走るなどありえない。
「よし」
満足して乗り込み、スマホを接続する。流すのは当然ライブのセットリストだ。
オタメガネとは映画館で合流することになり、俺は一人で夜道を走り出した。
ライブの余韻がまだ身体に残っている。信号待ちのたびにさっきのステージを思い出し、口元が勝手に緩む。
「るみたん、今日も最高だったな……」
誰もいない車内なので好きなだけ呟ける。
やがて信号が青へ変わった。
俺はアクセルを踏む。
その瞬間だった。
横から、人影が車道へ出てきた。
「――え?」
頭が理解するより先に、足がブレーキを踏み込んだ。
タイヤが甲高い音を上げる。
人影がこちらを向く。
一瞬だけ、その身体の脇で小さなものが揺れた。
ストラップ。
青と白。
星を思わせる意匠。
「ミスティア……?」
見覚えがある。
そう思った。
ただのグッズを見た時の感覚とは少し違う。どこかで見た。もっと近いところで、何度も。
だが、考える時間はなかった。
衝撃。
鈍い音とともに車体が跳ね、ハンドルを握っていた両腕へ激しい振動が突き抜けた。シートベルトが胸へ食い込み、肺の空気が一気に押し出される。
「っ……!」
何が起きた。
いや、わかっている。
ぶつかった。
人に。
俺が。
耳の奥でライブの曲だけが、場違いなくらい明るく流れ続けていた。
フロントガラスの向こうが滲む。
ブレーキを踏んでいるはずなのに、足の感覚が遠い。
さっきの人影は。
無事なのか。
あのストラップは。
なんで俺は、あれを知っている気がした。
思考がまとまらない。
視界の端でミスティアのキーホルダーが揺れている。
さっきまで、あんなに楽しかったのに。
ライブへ行って。
推しを見て。
映画を楽しみにして。
いつものように家へ帰るはずだった。
なのに。
目の前から光が消えていく。
最後に浮かんだのは、倒れた人影でも、自分の身体でもなかった。
青と白の、小さなストラップだった。
そして。
世界は、暗くなった。




