閉ざされた心の奥に
「はあ、はあっ……ここなら、しばらくは大丈夫か……!」
闇オークション会場から離れた、ラザリス郊外の廃屋。窓ガラスは割れ、天井の梁も何本か歪んでいるが、追手の目を避けるには十分だった。
「先生、外は今のところ大丈夫そうです」
先に入口を確認していたリアが戻ってくる。手には、途中で拾ってきたらしい布と小さな水筒を抱えていた。
「助かる、リア!」
「それより先生……そろそろ降ろしてあげた方が」
「…………そうよ」
腕の中から、低い声がした。
オタクミは見下ろした。
銀髪の少女――セラが、ものすごく冷たい目でこちらを見ていた。
「いつまでお姫様抱っこしてる気?」
「あっ」
「今気づいたの!?」
慌てて降ろすと、セラは壁際へ移動する。だが、その途中で傷めた腕をかばうように顔をしかめた。
「大丈夫か?」
「これくらい平気」
「血出てる奴が言う台詞じゃないぞ」
「自分でやる」
リアが差し出した布も受け取らず、セラは自分の服の裾を裂こうとした。
手つきは慣れている。
慣れすぎている、とオタクミは思った。
「先生。少しだけ押さえてあげた方が――」
「触らなくていい」
セラの声が鋭くなる。
リアの手が止まった。
「……ごめんなさい」
「いや、リアが謝ることじゃない」
オタクミはしゃがみ込み、少し離れた場所へ布と水筒を置いた。
「置いとく。使いたかったら使え」
「……」
「使わなくても怒らん」
セラは何も言わなかった。
だがしばらくして、視線だけを落とし、その布を取った。
腰元から声がする。
『いやぁ、それにしても派手に逃げたな』
「お前は呑気だな!」
『俺だって大変だったんだぞ。やっと戻ったと思ったら魔力弾飛んでくるし、お前は俺を振り回すし』
「鞘なんだから振り回されるのは仕事だろ」
『神だぞ俺!』
「鞘神な」
『だから定着させるな!』
セラが眉をひそめた。
「……さっきから気になってたんだけど、それ何?」
「こいつ? ゴルドス。鞘に宿ってる変態神」
『自己紹介に悪意しかねぇ!』
「……鞘が喋ってる」
「情報量多いだろ?」
「あんた含めてね」
セラがため息をつく。
少しだけ、空気が緩んだ。
「そういやちゃんと名乗ってなかったな。俺はオタクミ・ルミナス」
「知ってる」
「え、俺有名人?」
「さっきあれだけ叫べば覚えるわよ」
「なるほど!」
「納得するとこ、そこ?」
セラは傷口へ布を巻き始める。
肩口を処置するため、少し服をずらした。
「えっ、ちょ、待って待って!」
「何よ」
「俺、中身男だから!」
セラの手が止まった。
「……は?」
「異世界に来た時、この身体になっただけで! 中身は二十四歳男!」
沈黙。
リアがそっと目を逸らす。
ゴルドスが黙った。
そして。
「はああああああああ!?」
セラが顔を真っ赤にして、手元の布を丸めて投げつけてきた。
「変態!!」
「待て! 今の俺に非はなくない!?」
「先に言いなさいよ!」
「言うタイミングなかっただろ!」
『まあ確かに、さっきまで追手から逃げてたしな』
「お前は黙ってろ鞘神!」
『誰が鞘神だ!』
「もう何なのよこいつら……!」
セラは頭を抱えた。
リアが小さく笑ってしまい、慌てて口元を押さえる。
少しして、ようやく傷の手当ても終わった。
廃屋に静けさが戻る。
オタクミは《タクミ・ブレイザー》を壁際へ立てかけ、セラを見る。
彼女はさっきから何度も入口の方を気にしていた。
足音がすればすぐ逃げられる位置。
窓も、裏口も確認している。
さっきまで血を流していたとは思えないほど、身体が逃走の準備を続けていた。
「なあ」
「何」
「逃げたいなら止めないぞ」
セラがこちらを見る。
「……は?」
「その傷じゃ遠くまで行けないかもしれないけど、俺は縛る気ない。剣は返してほしいけど」
「……私、あんたの剣盗んだのよ?」
「知ってる」
「オークションまで持ってった」
「知ってる」
「普通は捕まえるでしょ」
「それも分かる」
「じゃあなんで」
オタクミは少し考えた。
「お前が何考えてるか、まだ全然分からないから」
「……」
「分からないまま縛って終わりってのも、なんか違う」
セラは鼻で笑った。
「変なやつ」
「よく言われる!」
「褒めてない」
「知ってる!」
セラは視線を落とした。
しばらく黙っていたが、やがて小さく口を開く。
「……捕まるのが嫌なんじゃない」
「ん?」
「誰かに決められるのが、嫌なの」
声は小さかった。
オタクミは黙る。
「何を盗むか。どこへ行くか。誰から取るか。全部、ずっと決められてきた」
セラの指が、自分の袖を握る。
「昔、いた場所がなくなって……一人になった時、拾われた」
「バスレオンに?」
「……そう」
それ以上はすぐに続かなかった。
セラは一度唇を噛んだ。
「食わせてやるって言われた。あの時の私には、それで十分だった。でも気づいたら、盗む以外のことを知らなくなってた」
淡々とした声だった。
だからこそ、オタクミは余計な口を挟めなかった。
「断れば困るのは自分だけじゃないって、何度も言われた。逃げたら誰かが代わりに痛い目を見るって」
「……」
「だから、選んでるつもりで……何も選んでなかった」
セラは笑った。
乾いた、短い笑いだった。
「馬鹿みたいでしょ」
「いや」
「同情しなくていい」
「してない」
セラが睨む。
「嘘」
「いや、同情っていうか……俺には全部分かったとか言えないから」
「……」
「でも、嫌だったってことくらいは分かる」
セラは何も返さなかった。
代わりに、壁際の《タクミ・ブレイザー》を見る。
「だから、あの剣を見た時……腹が立ったの」
「剣に?」
「違う。周りに」
セラの声が少し強くなる。
「みんな勝手に決めるから。価値がないとか、ふざけてるとか、売れないとか」
オタクミは息を止めた。
「私は自分で見たかった。自分で決めたかった。でも……競りで値段が上がっていったら、今度はそれも違う気がした」
「違う?」
「値段がついたら価値があるって、それも誰かが決めたことじゃない」
セラは自分の言葉に戸惑ったように眉を寄せる。
「……よく分かんないけど」
「うん」
「でも、あれを笑われるのは嫌だった」
「うん」
「壊されるのも」
「うん」
「……なんで『うん』しか言わないの」
「いや、それ……推しなのかもしれないなって」
「は?」
「俺の場合はだけど」
「何よ、それ」
「自分でもよく分かんないのに、雑に扱われると腹立つやつ」
セラはしばらく考えてから、呆れたようにため息をついた。
「……やっぱり変」
「でも否定はしないんだな」
「うるさい」
その時だった。
セラが立ち上がる。
壁際へ歩き、《タクミ・ブレイザー》を持ち上げた。
オタクミの身体が一瞬こわばる。
だが、セラは逃げなかった。
剣を両手で持ち、オタクミの前へ差し出す。
「……返す」
「え?」
「これは、あんたのだから」
オタクミはすぐには手を伸ばさなかった。
「いいのか?」
「よくない。悔しい」
「そこは悔しいのかよ」
「私が盗んだのに、私が勝手に返すっていうのも腹立つ」
「複雑!」
「でも返す」
その言葉だけは、はっきりしていた。
オタクミは《タクミ・ブレイザー》を受け取る。
手に戻ってきた重みが、妙に懐かしく感じた。
「ありがとう」
「勘違いしないで。あんたたちの仲間になるとか、そういう話じゃない」
「まだ何も言ってないぞ」
「言いそうだったから」
「鋭い!」
セラがほんの少しだけ口元を緩めた。
だが次の瞬間。
遠くで爆音が響いた。
廃屋の壁が微かに揺れる。
リアが入口へ走る。
「先生、誰か来ます!」
『追いつかれたか』
ゴルドスの声から、ふざけた調子が消えた。
オタクミは《タクミ・ブレイザー》を握り直す。
「セラ、お前は逃げろ」
「は?」
「傷あるだろ。俺たちが時間稼ぐ」
「……本気で言ってる?」
「俺はいつでも本気だ!」
「そこは信用できない」
セラは窓を見る。
裏口を見る。
逃げ道はある。
彼女一人なら、おそらく抜けられる。
数秒。
セラの足が、出口へ半歩動いた。
オタクミは何も言わなかった。
だがセラは止まった。
「……あいつ、正面から来るような男じゃない」
「え?」
「追い込む時は逃げ道を残す。そこに人を置く」
セラは腰を落とし、外の気配を探る。
「裏へ回ったら捕まる」
「じゃあどうする?」
「ここで迎える」
「逃げなくていいのか?」
セラは一瞬だけ黙った。
それから、いつもの鋭い目でオタクミを見る。
「一人で逃げるのが、一番安全なのは分かってる」
「……」
「でも今は、それを選びたくないだけ」
外で、また何かが爆ぜた。
オタクミは笑った。
「十分だ!」
「何がよ」
「なんでもない!」
《タクミ・ブレイザー》を構える。
その隣で、セラも立った。
まだ仲間じゃない。
まだ信用しきってもいない。
それでも今だけは、同じ方を見ていた。




