リアのデッサン教室
街の喧騒も一段落し、陽射しが傾き始めたころ。リアの部屋の作業スペースには、ペンの走る音だけが淡々と響いていた。
部屋の中央に置かれたテーブルには、いくつものスケッチブックと魔導具ペン、それから参考にしている小冊子が積まれている。
その中で――俺は呻いていた。
「……くぅっ……ダメだ……!」
眉間には、自分でも分かるくらい深いしわが寄っている。目の前のスケッチブックには、どうにか“それっぽく”描こうとしたミスティアらしきものがいた。
いや、いたという表現すら本人に失礼かもしれない。
顔は少し横に伸び、左右の目は別々の方向を見ている。杖は途中から不自然に折れ曲がり、優雅な衣装はなぜか腰の辺りで謎の布団みたいになっていた。
(ダメだ……! 脳内では完璧なんだ! この角度から見たるみたんの凛々しさ、少しだけ上がった口元、ふわっと広がる髪――全部見えてる! なのに!)
俺はペンを握った手を震わせた。
(なぜ手を通した瞬間、全部こうなる!?)
「神よ……俺に“愛でる才能”は授けておきながら、なぜ“描く才能”は授けなかった……!」
「せ、先生……」
向かいで俺の絵を見ていたリアが、困ったように眉を下げる。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫な顔に見えるかぁぁぁああ!?」
俺は机に突っ伏した。
「るみたんの右目と左目が別作品なんだよ! 俺は何を生み出してしまったんだ!」
「そこまで言わなくても……」
リアはおずおずと俺のスケッチブックを覗き込み、それから少し考えた。
「……先生。一緒に描いてみませんか?」
「……ん?」
「先生の頭の中にあるミスティアさんを、もう少し見てみたいです。先生がどこを見て、何を好きだと思っているのか」
「リア……!」
俺は顔を上げた。
「弟子入りさせてください、リア先生!」
「えっ、私が先生ですか?」
「今日だけ師弟逆転だ!」
「いつも私も先生って呼んでますけど……」
「細かいことはいい!」
リアはくすっと笑うと、新しい紙を一枚取り出した。
「じゃあ、まず顔からやってみましょう。丸を描いて、それから縦と横に線を引いて――」
「こうか?」
「はい。顔がどちらを向いているかを、その線で――」
そこでリアの手が止まった。
「……あれ?」
「どうした?」
「いえ……」
リアは自分のスケッチブックへ視線を落とした。いつもなら、考えるより先に描いている。
顔をどちらへ向けるか。目をどの位置に置くか。髪がどう落ちるか。俺には何一つ分からないことを、リアはほとんど迷わずやっていた。
「私、普段どうしてたんでしょう」
「先生がそれ言う?」
「描く時は、見たものをそのまま追っていたので……説明しようとすると、難しいですね」
リアはそう言って、机の端に置いてあったミスティアの絵へ顔を近づけた。
しばらく黙って見る。
俺もつられて見る。
「……目って、真ん中に並んでるわけじゃないんですね」
「ん?」
「顔が少し横を向くと、こっち側が少し狭く見えます。髪も左右で同じ落ち方じゃありません。首も、顔の真下から真っすぐ生えているように見えて……少し違います」
「お、おお……」
リアは指で空中をなぞりながら、何度も絵と紙を見比べる。
「描く時には見ていたはずなのに、ちゃんと意識して見たことはなかったかもしれません」
「リアでもそういうことあるんだな」
「ありますよ。分からないことばっかりです」
そう言って、リアは少し嬉しそうに笑った。
「もう一回やってみましょう。先生も、丸を描く前に少し見てください」
「見る?」
「はい。『ミスティアさんの顔』じゃなくて、今ここに見えている形を」
言われて、俺は改めて参考の絵を見る。いつもなら一秒で「るみたん尊い」に到達するところを、その手前で踏みとどまった。
顔の傾き、目と目の距離、頬の線、髪の広がり、杖を持つ手。いつもまとめて「るみたん」として見ていたものを、一つずつ拾っていく。
「……るみたん、顔ちっさ」
「そこですか?」
「いや大事だろ!?」
「大事なんですね……」
「あとこの目! ただでかいんじゃない。少し上向いてるから強気に見えるんだ!」
「……なるほど」
今度はリアが俺の言葉を聞いて、参考の絵を見直した。
「先生は、そこを見てたんですね」
「当然!」
「私は髪の流れを先に見てました」
「見る場所違うんだな」
「はい」
リアが笑った。
「同じものを見てるのに」
その一言が、少しだけ面白かった。
俺が見ているミスティアと、リアが見ているミスティア。同じ絵なのに、最初に目へ入る場所まで違う。
「よし! じゃあ俺は目からいく!」
「丸からです、先生」
「はい」
授業は続いた。
まず丸を描き、そこへ十字線を引く。輪郭を整え、目、鼻、口、髪と順番に形を拾っていく。何度描いても俺の線はふらつき、リアはそのたびに首を傾げながら原因を探した。
「先生、こっちの目だけ大きいです」
「愛が偏った!」
「均等にしてください」
「愛を!?」
「目です!」
何度目かの挑戦で、ようやく人の顔らしき形になった。
「で、できた……」
俺は息も絶え絶えになりながらスケッチブックを差し出した。
そこには、まだバランスの悪い輪郭と、少しずれた目と、微妙に曲がった杖を持つミスティアが立っていた。
上手いとは言えない。絶対に言えない。
でも最初の謎生物よりは、明らかにミスティアへ近づいている。
「先生」
リアが絵を見ながら言った。
「さっきより、目が先生の好きな感じになってます」
「分かる!?」
「はい。さっき先生が言ってた、少し上を向いてる感じ」
「リア先生ぇぇぇ!」
「泣かないでください」
「成長を認められた弟子の気持ちが分かるか!」
「数時間しか教えてませんよ?」
リアは笑いながら、自分のペンを持ち直した。
「少しだけ、描き足してもいいですか?」
「ああ。ただし原型は残してくれ。俺の死闘の痕跡だから」
「死闘だったんですね……」
リアは俺の線を消さず、その周囲へ少しずつ線を足していった。
髪の流れを整え、服の重なりを分かりやすくする。目の位置も描き直すのではなく、まつ毛や影を加えて違和感を薄くしていく。
「ここ、直さないのか?」
「先生が描いた線なので」
リアは紙を見たまま答えた。
「それに……全部きれいに直したら、私の絵になっちゃう気がします」
「……なるほど」
「さっき先生がどこを見て描いたか、少し分かったので。そこは残したいです」
その言葉に、俺はもう一度絵を見た。
リアが描けば、もっと綺麗なミスティアになる。当然だ。
けれど、目の前にあるのは、それとは違う。
俺が必死で引いた線があって、リアがそれを見て、残すところを選んでいる。二人分の見方が、一枚の中に残っていた。
「……これ、いいな」
「はい」
リアも嬉しそうに頷いた。
────
少し経って。
その一枚は、部屋の壁に小さく飾られていた。
リアが描いた絵の隣で見ると、明らかに歪んでいる。目も少しずれているし、杖もちょっと曲がっている。
でも俺は、見るたびにニヤけた。
「ふふ……これもまた、尊いな」
「先生、毎回言いますね」
「だって見ろよ。この目。俺が描いたんだぞ」
「そこ、私が少し描き足しました」
「合作です!」
「はい、合作ですね」
リアは笑いながら、その絵をしばらく眺めた。
そして今度は、隣に置いてある自分のスケッチブックへ視線を落とす。
描き始める前に一度だけ手を止め、対象をよく見る。形を追い、自分の目が最初にどこへ向かったのか確かめてから、ペンを動かした。
「リア?」
「はい?」
「何描いてる?」
「まだ分かりません」
「まだ?」
「もう少し見てから決めます」
俺はその答えを聞いて、なんとなく笑った。
「そっか」
ペンが紙の上を走り始める。
静かな音だった。
けれど、昨日までとは少しだけ違って聞こえた。




