その条件では、渡せない
商館の扉を前にすると、前に来たときのことを思い出した。
ケインが、ケイスケだったこと。
謝ったこと。
許せないと言われたこと。
事故の相手が自分だったと聞いたこと。
胸の奥に、まだ形にならないものが残っている。
でも、今日はそれを話しに来たんじゃない。
「確認するぞ」
隣でアーグが言った。
「リアとシエルから預かっているのは、昨日まとめた回答だ」
「ああ」
「新しい条件が出た場合は?」
「持ち帰る」
「その場で決めない」
「決めない」
セラが俺を見る。
「本当に?」
「何でそこだけ二重確認なの?」
「勢いで『それならいける!』って言いそうだから」
「言わない! ……たぶん」
「今の一言で信用が落ちたわよ」
『拙者も少々不安になったでござる』
「ゴルドスまで!」
鞘から聞こえた声に返しながら、俺は脇に抱えた細長い包みを持ち直した。
今日の商談には関係ないものだ。
だから、机に出すつもりもない。
まずは仕事の話。
そこを混ぜない。
「行こう」
俺たちは扉を開けた。
*
前と同じ商館でも、通された部屋は少し違っていた。
大きすぎない机。
向かい合う椅子。
壁際には帳簿を置く棚がある。
ケイスケは先に座っていた。
「来たか」
「ああ」
ケインと呼ぶべきなのか、ケイスケと呼ぶべきなのか。
一瞬だけ迷った。
今日はカルテルの代表と話しに来ている。
でも、目の前にいるのが誰なのかは、もう知っている。
「……ケイスケ」
呼ぶと、わずかに目が細くなった。
それだけだった。
「座れよ」
俺たちは席についた。
アーグがまとめた紙を机の上へ置く。セラは俺の隣に座り、ゴルドスの入った鞘はいつものように腰にある。
脇の包みだけは、椅子の横へ立てかけた。
ケイスケの視線が一度そこへ向いた。
何も聞かなかった。
俺も何も言わない。
「共同企画の返事を持ってきた」
俺が言う。
「先に一つ。俺が決められるのは、俺の分だけだ」
「分かってる」
「リアとシエルの返事は預かってる。でも、そこから条件が変わったら、俺が勝手に『いい』とは言えない」
「それも聞いてる」
ケイスケは机の紙へ目を落とした。
「使いの報告にあった。ずいぶん細かく線を引いたみたいだな」
「線?」
「ここまではできる。ここからは駄目。そういう線」
「ああ」
俺は頷いた。
「必要だと思ったから」
ケイスケが、アーグを見る。
「お前が整理したのか」
「整理はした。答えを決めたのは本人たちだ」
「そうか」
ケイスケは紙を手元へ引き寄せた。
*
「まず、絵」
ケイスケが言った。
「主催側から修正案を出すこと自体は受ける。ただし、最終的にどう描くかはリアが決める」
「そう」
「企画用の一枚を指定会場で先行して出すのも可能」
「うん」
「ただし、企画期間中に描いた別の新作まで、外で発表できない条件にはしない」
「そういう返事だ」
ケイスケは紙を指で叩いた。
「それで、こっちが同じ額を出すと思うか?」
部屋が少し静かになった。
「……同じ額?」
「場所を用意する。材料も準備する。告知する。人を動かす。品物も運ぶ」
ケイスケは一つずつ指を折った。
「その代わり、その場で見せるものに一定の管理を入れる。そこまで含めて、こっちは金を出すんだ」
「うん」
俺は頷いた。
「それは分かる」
ケイスケの指が止まった。
「否定しないんだな」
「しないよ」
「前なら、好きに描かせろって叫びそうだけど」
「叫びたい気持ちは、ちょっとある」
「あるのかよ」
「でも、それと金を出す側の都合は別だろ」
ケイスケが黙る。
俺は続けた。
「この前、本を一件運ぶだけでも、金も人も場所も必要だった。会場も告知も運ぶ人も、勝手に生えてこない」
「花の本、一件は届けたらしいな」
ケイスケが言った。
俺は少しだけ目を上げた。
「……ああ」
「毎回、あの手間と金をかけるのか?」
「無理だと思う」
すぐに答えた。
「今回だって、荷の場所を確かめて、店と話して、運ぶ人を頼んで、金も払った。大きい荷とか、場所が分からない荷とか、同じやり方で全部いけるとは思ってない」
「だったら、物流を持ってる側と組む意味はある」
「ある」
俺は頷いた。
「だから、場所や運ぶ手を用意してくれるのが助かるって話は分かる」
『神器も荷車にはならぬからのう』
「ゴルドス、今は真面目なところ」
『拙者は真面目でござる』
セラが小さく息を吐いた。
ケイスケは鞘を一度見てから、また俺へ戻る。
「だったら、こっちの条件も分かるだろ」
「分かる」
「なら受ければいい」
「そこは別」
すぐに答えた。
ケイスケの眉が少し動いた。
「便利だと思うことと、全部任せることは同じじゃない」
「じゃあ、どこまでなら任せる?」
「それを話しに来た」
*
アーグが口を挟んだ。
「カルテル側が欲しいのは、投資に対する販売機会だろう」
「そうだ」
ケイスケはあっさり認めた。
「だったら、企画で作る一枚について、事前にテーマや展示方法を相談するところまでは可能だ」
「最終判断は作家側」
「ああ」
「こっちが客の反応を見て『変えろ』と言っても?」
「要望として伝える。受けるかは本人が決める」
ケイスケが椅子へ背を預けた。
「それじゃ、売れない形のまま出される可能性がある」
「ある」
「こっちは、その損を負う?」
「だから、その条件でいくら出せるかをそっちが決めるんだろ」
アーグの声は平坦だった。
「こちらも、同じ支援を当然に求めてはいない」
ケイスケの口元が少し動いた。
「話が早いな」
「取引だからな」
「そういうところは嫌いじゃない」
「褒め言葉として受け取る気はない」
俺は思わず二人を見た。
「今、ちょっと仲良くない?」
「違う」
「違うな」
「息ぴったりじゃん!」
セラに肘をつつかれ、俺は口を閉じた。
*
「次。歌」
ケイスケは紙をめくる。
「事前に決めた曲と案内はやる。でも、当日の売れ行きに応じて何でも変える条件は受けない」
「シエルの返事はそれ」
「売れてない商品があっても?」
「その場で相談して、本人がやると決めれば別」
「相談する時間がない場合は?」
「最初に決めてないなら、やらない」
「機会を逃すぞ」
「それはあると思う」
俺が答えると、ケイスケが俺を見る。
「そこも否定しないのか」
「何でも否定されたら、話にならないだろ」
「……そうだな」
「売れる瞬間ってあるんだと思う。今この場で紹介したら、手に取る人が増えるとか」
「ある」
「でも、そのためにシエルが何でも歌わなきゃいけない、とはしたくない」
「本人が断れば、売上が落ちても?」
「その企画を受けるなら、そこまで含めて条件じゃない?」
ケイスケは少し黙った。
「お前、前はもっと勢いだけで喋ってたよな」
「今も勢いはあります!」
「そこは威張るな」
セラの声が飛ぶ。
俺は咳払いをした。
「……とにかく。俺がシエルの代わりに『その場で変えていいです』とは言えない」
「分かった」
ケイスケは、紙へ何かを書き込んだ。
*
「最後に、お前」
「来た」
「何で嬉しそうなんだ」
「俺の出番だから」
「仕事の話だぞ」
「仕事でも出番は出番」
ケイスケがため息をついた。
「指定商品の紹介を中心にする。それ自体は受ける」
「うん」
「ただし、客が比較したいと言ったら、別の商品についても知っている範囲で答える」
「うん」
「買わない選択も止めない」
「うん」
「……何のための商品紹介だよ」
ケイスケが額へ手を当てた。
「紹介するため」
「買わせるためだろ」
「そこは違う」
「違わない」
「いや、俺の中では違う!」
思わず身を乗り出した。
セラが俺の服を引く。
「机に乗らない」
「乗ってない!」
「時間の問題」
「信用!」
ケイスケが、ほんの少し笑った。
その笑い方を見た瞬間、昔の教室が頭をよぎった。
でも、そこへ行かない。
今は、仕事の話だ。
「俺は、良いと思うところは話す」
座り直して言った。
「指定された商品なら、何が良いのか聞く。作った人の話も、使い方も、分かることはちゃんと伝える」
「だったら」
「でも、客が欲しいものと違ったら、違うって言う」
「それで売れなかったら?」
「俺の説明が下手だった可能性もある」
「そうじゃなくて」
「分かってる」
俺は一度、息を吐いた。
「紹介しても、その人がいらないと思ったなら、買わない。それを俺が失敗扱いしたくない」
ケイスケの目が細くなる。
前にも、似た話はした。
市場のことと。
俺が昔やったことは別だと。
ケイスケも、それは分けると言った。
だから、そこをもう一度勝ち負けにする必要はない。
「……相変わらずだな」
ケイスケが言った。
「何が」
「変わったくせに、変なところは残ってる」
「褒めてる?」
「褒めてない」
「残念」
「でも、報告どおりではある」
俺の手が少し止まった。
ケイスケは、俺が変わったことをもう知っている。
前に、はっきりそう言った。
今ここで初めて認めてもらったわけじゃない。
ただ。
その目の前で、俺はリアとシエルの答えを持って座っている。
「じゃあ、条件は変えない?」
俺が聞く。
「一部は変えられる」
ケイスケが答えた。
「全部は無理だ」
*
そこから、具体的な線を詰めていった。
作品への要望は出せる。
最終判断まで主催へ渡さないなら、支援範囲を見直す必要がある。
企画用作品の先行公開はできる。
それ以外の新作まで止めないなら、告知上の独占性は下がる。
シエルの歌も、事前に合意した範囲なら問題ない。
当日対応の自由度を下げるなら、販売側は別の案内役を用意する必要がある。
俺の商品紹介も同じだった。
「指定品だけを案内する時間を作るなら?」
ケイスケが聞く。
「それはリアたちじゃなくて、俺の条件だから答えられる」
「どうだ」
「その時間が『この商品を紹介する時間です』って分かるようになってるなら、やる」
「比較の質問が出ても?」
「答える」
「そこは譲らないのか」
「そこを消すと、俺じゃなくてもよくない?」
ケイスケが黙った。
「俺に頼む理由って、そこも含んでるんじゃないの?」
「……面倒なところも含めてな」
「面倒って言った!」
「面倒だろ」
「否定できない!」
アーグが紙へ新しい条件を書き足していく。
しばらくして、彼が手を止めた。
「ここまでだな」
俺も紙を見る。
最初の提案から、いくつかは動いた。
でも、埋まらないところも残っている。
「この条件をリアとシエルへ持ち帰る」
俺が言った。
ケイスケが首を横へ振った。
「いや」
「え?」
「その前に、こっちの結論を言う」
机の上へ指を置く。
「今の条件のままなら、最初に出した支援はできない」
「……そっか」
「別の支援内容に組み直すなら話はできる。でも、それはもう最初の提案とは別だ」
アーグが頷く。
「なら、今回は不成立だな」
「ああ」
あっさりした言葉だった。
俺は机の紙を見る。
前金。
材料。
会場。
告知。
搬入。
あれば助かるものが、たくさんあった。
それでも。
「分かった」
俺は答えた。
「この提案のままでは、受けない」
「リアとシエルに確認しなくていいのか?」
「最初の条件から変わってるから、それは持ち帰る。でも、最初の提案をそのまま受ける返事は、もう預かってない」
「……そうか」
「新しく組み直すなら、その内容を見せてくれ。俺は持って帰る」
「お前が決めない?」
「決めない」
「俺が、今ここで条件を良くしても?」
その言い方に、少しだけ胸が痛んだ。
昔なら。
ケイスケに認められたい気持ちがあったなら。
ここで何かを飲み込んだかもしれない。
でも、それをやったら、今日ここに来た意味がなくなる。
「持ち帰る」
俺は同じ言葉を返した。
ケイスケが、しばらく俺を見ていた。
「……分かった」
それだけだった。
*
アーグが紙をまとめた。
「仕事の話は、以上でいいか」
「ああ」
ケイスケが答える。
「新しい案を出すなら、改めて連絡する」
「分かった」
俺も椅子を引いた。
商談は成立しなかった。
カルテルのやり方が変わったわけでもない。
花の冊子を一件届けられたことが、市場全体の答えになったわけでもない。
ケイスケが俺を許したわけでもない。
何も、きれいには終わっていない。
それでも、今日は仕事の話を仕事の話として終えられた。
「じゃあ――」
立ち上がりかけて、俺は止まった。
椅子の横。
そこに置いた、細長い包みが目に入る。
最初から持ってきていた。
商談には、一度も使わなかった。
俺は、包みへ手を置いた。
ケイスケの視線が、その手へ動く。
「……もう一つだけ、いいか」
「何だ」
「仕事の話じゃない」
アーグもセラも何も言わなかった。
鞘のゴルドスも黙っている。
俺は包みを持ち上げた。
「あの絵のことを、聞きたい」
ケイスケの表情が、初めて止まった。




