一冊が届くまで
翌朝、冊子を注文した店の前には、手配していた荷車が来ていた。
運び手が荷台の敷き布を広げ、その連れが縄の具合を確かめている。アーグは店主から受取りの書付と精算用の金を預かり、運び手と行き先を確認していた。
俺も荷台を覗き込む。木の板が見えなくなるように布を敷き、その上へ荷を置くつもりらしい。端に折り目ができているのが気になって、つい手を伸ばした。
「まだ載せてないぞ」
アーグに言われ、顔を上げる。
「分かってる。ただ、本の角が当たるところは、先に平らにしときたくて」
「それなら、こっち側を押さえてくれるか」
運び手に頼まれ、俺は布の端を持った。反対側を引いてもらうと、折り目が伸びる。
「こうですか?」
「ああ。それでいい」
昨日は、人に見せるための角度をずっと考えていた。今日は、見えないところで紙の角を傷めないための準備をしている。
セラが俺の横へ来て、荷台を覗いた。
「今日は台の上に乗って紹介しないでよ」
「しないよ! 荷物より先に俺が積まれてどうする!」
「昨日なら、やりかねなかったわ」
「昨日の俺への評価、まだ下がるの!?」
運び手が笑い、縄をまとめながら言った。
「人の分は引き受けてないから、歩いてくれよ」
「はい!」
俺たちは店主へ声をかけ、荷車と一緒に出発した。
*
保管場所では、前に案内してくれた担当者が待っていた。
アーグが名乗り、店主から預かった書付を見せる。相手は手元の記録と照らし合わせ、運び手にも行き先を確かめた。
俺は少し後ろで待っていたが、柄の飾りが裏返っていることに気づき、そっと向きを直した。
「今日は荷札を見なさい」
セラに言われて、手が止まる。
「いや、推しが後ろ向いてたから」
「本まで違う方へ運ばないでね」
「そこは、ちゃんと見ます」
俺は懐から注文の写しを出した。
木の台へ案内されると、あの包みがあった。前に見たときと同じように、紐が掛けられている。
届け先、送り主、荷札に記された品名と冊数。アーグが読み上げ、担当者が記録を確認する。俺も写しを目で追った。
運び手は包みの下へ手を入れ、傾けすぎないようにして、底と角を確かめた。表から見えるところに破れや濡れは見当たらない。
「外側は大丈夫そうだな」
「中は、店で開けて確かめる」
アーグが答えた。
引渡しの確認を終え、ここまでの運送分など、取り決めた料金の精算も済ませて、アーグが控えを受け取る。
「では、こちらで受け取る」
その言葉を聞いてから、運び手たちが包みを持ち上げた。
前に俺が手を伸ばしかけたときとは違った。誰に渡すのかも、どこへ運ぶのかも、互いに確かめたうえで、包みが木の台を離れる。
俺は先に通路へ出て、開いた戸が荷に当たらないよう押さえた。
台の上に残っていた四角い空き場所を、一瞬だけ振り返る。
ようやく、動いた。
*
荷車に載せた包みは、想像していたより小さく見えた。
これを探して、紙を写して、何度も行き来した。いざ荷台へ載ると、その周りにはまだ空きがある。
だからといって、そのまま出発はしなかった。
運び手は包みが滑らない位置へ置き直し、折った布を添えた。縄を掛けるところで、俺は思わず声を出した。
「あ、その角、強く締めると――」
「潰れるな。だから、ここにも当てる」
布が挟まれ、縄の当たるところが変わった。男は包みを軽く押し、ずれないことを確かめる。
「……なるほど」
「紙の物は、気になるか?」
「めちゃくちゃ気になります。折れた角って、見つけるとそこばっかり見ちゃうので」
「じゃあ、上へ掛ける布、そっちを持ってくれ」
俺は言われた側を持ち、端を揃えた。紐で留めると、包みはほとんど見えなくなる。濡らさず、擦らず運ぶための布なのに、見えなくなると少し落ち着かない。
セラが俺の顔を見て笑った。
「今度は、途中で開けて見ないでよ」
「分かってる。開ける楽しみは、店まで取っておく」
『剣の使い方より、よほど素直に決まったのう』
「剣も使い方は決まってるだろ。観賞用!」
『そこへ戻るのでござるか』
小さな笑い声と一緒に、荷車が動き始めた。
俺は横を歩いた。車輪が石の継ぎ目を越えるたびに、つい包みへ目が向く。
途中、路面のくぼみに水が残っていた。運び手は手前で歩みを緩め、対向する荷車が通り過ぎるのを待つ。急いで狭い隙間を抜けず、乾いた側へ回ってから進んだ。
セラが、曲がり角の先へ目を向ける。
「向こうから人が来る」
運び手が止まる。俺も声をかけ、通る人が荷車に気づいたのを見てから、もう一度歩き出した。
走れば先に店へ着ける道を、歩いていく。
俺が先に着いても、渡せる本は増えない。そう思って足を合わせているうちに、店が並ぶ通りへ戻ってきた。
*
注文した店の前で、店主がこちらを見つけた。
「……来たか」
奥から場所を空け、台の上に敷いていたものを片づける。運び手たちが包みを降ろす間、俺とセラは店先の品物を少し寄せた。
荷が台へ置かれる。
店主は荷札を見て、注文の控えと合わせた。それから紐をほどき、包みを開いた。
花の冊子が、重なっていた。
上の一冊を持ち上げ、表紙と角を見る。ページを開き、何か所か指で送りながら、紙の状態も確かめる。アーグが数えた冊数と、店主がもう一度数えた冊数が一致した。注文した数とも合っている。
「……揃ってる。こっちも、傷みは見当たらんな」
店主の声を聞いて、ようやく肩から力が抜けた。
「よかった……!」
「ずっと、そんな顔してたのか?」
運び手が笑う。
「荷車が揺れるたびに、俺まで揺れそうになってました」
「あなたが横で飛び跳ねる方が、よっぽど心配だったわよ」
「跳ねてないだろ!」
「今日はね」
セラの返事に、俺は反論を諦めた。店主も笑い、運び手へ合意していた代金を渡す。支払った額を帳面へ記してから、受取りの確認を済ませた。
空いた荷車が、また通りへ出ていく。
俺は見送り、冊子へ目を戻した。
「あの人に、知らせてきてもいいですか」
店主はすぐには答えず、客への約束を書いた帳面も開いた。注文の控えと照らし合わせてから、頷く。
「この分に、取り置きの約束はない。今から店に並べられるよ」
「じゃあ、あの二冊を分けてくれた店に伝言を。あの人、そこで聞きたいって言っていたので」
「ああ。買える場所が分かるよう、うちの場所も伝えてくれ」
俺は頷き、紙を出した。
今日は、品名だけを大きく書かなかった。どの店で買えるのかが分かるように書き、店主にも見てもらう。
その横で、アーグが運び手の見積りと支払った額を確認していた。
「今回は、この額で収まったな」
「ああ。ただ、次も同じように出せるかと言われると、難しい。運ぶための金も、売れる前に要るからな」
店主は帳面を閉じた。
俺は、並べられた本と、その帳面を交互に見た。店へ届いたことは嬉しい。それでも、次の便の分まで用意できたわけではない。
「……まず、今日並べられるってことを伝えてきます」
「頼む」
店主は一冊を開き、客から見える位置へ置いた。
*
二冊を分けてくれた店へ着くと、店主は俺の手の紙を見た。
「入ったのか?」
「はい。向こうの店へ、注文していた分が届きました。中も確かめて、今は売り場に出せています」
「そうか」
店主は紙に目を通し、自分の棚へ一度だけ視線を向けた。
「うちの分は、まだだ。あの人が来たら、そっちを教えておくよ」
「お願いします」
俺は、頭を下げた。
この店の追加注文が、同じように動いたわけではない。棚の空いたところは、まだ残っている。
「それと、ほかにも探してる客がいるんだ。その人たちにも、向こうを教えて構わんか?」
「はい。買える場所が分かるように伝えてくれって、店主さんからも言われています」
「分かった。売れ具合は、その店で聞いてもらう」
紙は、店主の手元へ渡った。
俺は少し話してから、店を離れた。今日ここへ来たからといって、老人にも今日会えるとは限らない。
戻る道で何度か振り返ったが、目当ての姿は見つからなかった。
*
老人が冊子の届いた店へ来たのは、翌日の午後だった。
俺は店先で、空いた箱を脇へ移していた。声をかけられて振り向くと、老人が、昨日預けた紙を手にしている。
「こちらだと聞いてね」
「……はい!」
返事をした拍子に、抱えた箱を落としそうになった。隣のセラに肘を支えられ、先に箱を置く。
「あちらの店で、知らせてもらったんですか」
「ああ。本が入ったって。まだあれば、見せてもらいたいんだが」
俺は店主を見た。
店主が棚から一冊を取り、老人へ差し出す。
「ありますよ。こちらです」
老人は両手で受け取った。
俺は、何か言おうとしていた。途中で止まっていたことも、運んだときのことも、話せることはいくつもあった。
けれど、老人はもう表紙を見ていた。
店主へ確かめてからページを開き、ゆっくりとめくる。俺も横から見えた絵へ目を落とした。
指が、あるページで止まる。
「……ああ、これだ」
小さく描かれた花だった。
老人は絵を指で隠さないように、余白へ指先を添えた。それから、本を少し離して、また近づけて見た。
「この花が載ってると聞いたんだ。これを、孫に見せたかった」
その声を聞いて、俺は頷いた。
まだ話しかけずにいると、老人は続きをめくった。一つ先のページで少し笑い、また花のところへ戻る。
「これを一冊、もらえるかね」
「はい」
店主が値段を伝えた。老人は財布を取り出し、代金を数えて渡す。
店主が受け取った代金を確かめ、頷いた。老人は閉じた冊子へもう一度目を落とし、表紙にかかった指をそっとずらした。
「包みましょうか」
店主が尋ねると、老人は頷いた。
「頼む。持って歩く間に、角を傷めたくないからね」
「……分かります」
つい口を挟んでしまった。
老人が俺を見る。俺は腰の剣へ手を添え、少し笑った。
「気になり始めると、そこばっかり見ちゃって」
「そうだなあ」
老人も笑って、店主が紙を折る手元へ目を戻した。
包まれた冊子を受け取ると、今度は胸の前で、しっかりと持つ。紙越しでも、角を押さえすぎないようにしているのが見えた。
「知らせを残してくれて、ありがとう」
「こちらこそ、来てくれて……」
言いかけて、俺は少し首を振った。
「手に取ってもらえて、よかったです」
老人は頷き、店主にも礼を言った。
「孫と見るとき、まずあの花を探してみようかね」
包みを持ち直して、店を出ていく。
その言葉につられて、俺も、さっき開かれていたページを思い出した。小さな花の絵と、その隣の余白へ添えられた指。
俺はもう一度、小さく頭を下げた。
*
しばらく通りを見ていると、セラが隣へ来た。
「顔、緩んでるわよ」
「……うん」
「否定しないのね」
「できないな、これは」
俺は笑った。
店の奥では、アーグが店主と次の仕入れの話をしていた。机の上には、今回の運搬にかかった額を書いた紙がある。
二冊を分けてくれた店には、まだ追加の本が来ていない。今回と同じ手間と金を、何度でもかけられるわけでもない。
それでも、今売れた一冊まで、小さなことにしてしまいたくはなかった。
「オタクミ、そっちの箱、あと少し寄せてくれるか」
店主に呼ばれ、俺は振り返った。
「了解!」
今度は腰の剣を押さえ、箱を持つ位置を決めてから動かす。店先へ人が通れる幅を空けると、セラがその端を直してくれた。
もう一度だけ、通りへ目を向ける。
人の間に、冊子の包みを抱えた老人が見えた。
あの人の手には、今日は、ちゃんと本があった。




