その『好き』を、見せてもいい?
リアの鉛筆が止まったのは、俺が「本が見つかった」と伝えたときだった。
「じゃあ、お店に届くんですか?」
「まだ。どの荷かは確かめられたけど、途中で俺たちが受け取っていいかは、これから相談する」
荷の保管場所から戻ったあと、アーグと一緒に注文した店へ報告した。店主は確認先の書かれた紙を受け取り、運び方を変えると何が必要になるのか、調べてほしいと言った。
宿へ帰り、夕食を終えたところで、俺はその話をセラたちにも伝えていた。
「……でも、どこにあるかは分かったんですね」
「ああ。ちゃんと、あった」
リアが頷いた。シエルも少し表情を緩めたが、もう届いたみたいに喜ぶ者はいなかった。
食器を下げてもらうと、リアは脇へ寄せていた紙を広げ直した。さっきまで続きが気になっていたらしく、すぐに鉛筆を持つ。
俺も席を立ちかけて、その手元に目が留まった。
カナエが描かれている。
伸ばした手の先には、まだ何もない。けれど、ショーで見た絵とも、俺が感想を言えずにいた絵とも、少し違っていた。
「……リア。それ、見てもいい?」
「はい。まだ描いている途中ですけど」
リアが紙をこちらへ寄せる。俺は椅子を引き直した。
指先が先へ向かっているのに、肩の片方がわずかに後ろへ残っている。顔は手の向く先を見ていた。すぐに届きそうにも、そこで止まってしまいそうにも見える。
俺は紙の端へ顔を寄せ、少し横から眺めた。
「先生?」
「いや。この先、何があるんだろうって」
「横から見ても、描いてないですよ」
「分かってる! 分かってるけど、覗きたくなるんだよ!」
リアが小さく笑った。
俺も笑い、今度は正面から絵を見た。伸ばした腕を目でたどって、肩のところへ戻る。
「手だけなら、もう迷わず取りに行ってるように見えるんだ。でも、こっちの肩が少し残ってるから……近づきたいのに、身体がまだついていってない感じがする」
言ってから、リアの顔を見た。
彼女は俺ではなく、絵の肩を見ていた。鉛筆の先で触れないようになぞり、紙の隅に小さく別の線を引く。
「ここ、何度か描き直したんです。腕と一緒に前へ出すと、すぐ触れそうになって」
「うん。今のだと、その前から見たくなる。何を見つけて、どうして手を伸ばしたのか、とか」
「……なるほど」
「俺、この絵、好きだ。手の先だけじゃなくて、この子が動き出す前まで想像したくなる」
今度は、そこで言葉を止めなかった。
リアが鉛筆を持つ手を休め、俺を見た。
「ありがとうございます。肩は、この感じを残してみます」
それから、手首のあたりを指す。
「でも、ここは少し変えたいです。今だと、私が思っているより硬く見えるので」
「そっちは直すんだ」
「はい。先生が好きだって言ってくれたのは嬉しいですけど、ここは、もうちょっと」
鉛筆が紙へ戻る。線が一本増え、リアが顔を近づけて確かめた。
俺は、変わっていく手首を見ていた。さっきの絵も好きだった。けれど、リアの手が動くと、次にどんな形になるのかが気になる。
もう言うのをやめようとは、思わなかった。
*
「……なあ、リア。この絵、ほかの人にも見せる場所を作れないかな」
リアの鉛筆が止まった。
「お店で、ですか?」
「場所は、これから相談したい。大きな催しじゃなくていいんだ。絵を見て、描いた本人にも話を聞けるくらいの」
その言葉を聞いて、リアは少し考えた。それから、重ねていた別の紙を取り出した。
「だったら、私は、こっちを見せたいです」
もう一枚にも、カナエがいた。
こちらはまだ腕を伸ばしていない。手は身体の近くにあり、顔だけが少し横を向いている。向いた先には何も描かれていなくて、何かに気づいたのか、ただ振り向いたのかも、すぐには分からなかった。
「……こっち?」
「はい」
「俺は今、こっちの手を伸ばしてる方に、めちゃくちゃ心を持っていかれてるんだけど」
「それは、聞きました」
「二枚並べたら、魅力が二倍になる可能性は」
「先生」
「はい」
「今回は、この顔を見てもらいたいんです」
リアは、腕を伸ばしていない方を、自分の前へ置いた。
「ショーが終わってから、動く前の顔をもう少し描いてみたくなって。手を伸ばしている方を隣に置くと、どうしても、そっちの続きとして見ちゃう気がするので」
俺は二枚を見比べた。
確かに、並んでいれば、俺も順番を作りたくなる。こっちが先で、こっちがあと。そう考えると分かりやすい。でも、リアは今、一枚の顔を見てもらいたいのだ。
「……じゃあ、今回はそっちにしよう」
「先生は、こっちの方が好きなままでいいですよ」
リアが、手を伸ばした絵を示した。
「……うん。そっちは、変わってない」
「はい」
「あとで続きを見せてくれ。手首がどうなるか気になる」
「分かりました」
リアは二枚を別々に重ねた。見せる絵を決めたあとも、俺が好きだと言った一枚は、描きかけの紙の上に残った。
「私も、歌ってみたいです」
隣で聞いていたシエルが言った。
「いいのか?」
「はい。ただ、あのときと同じ歌い方ではなくて」
シエルは少し息を整え、控えめな声で短い旋律を歌った。
聞き覚えのある始まりだった。俺の耳が、次に高くなる音を待つ。その手前で、声は低い方へ降りた。そこからすぐに戻らず、同じあたりをゆっくり回る。
俺は、思わず顔を上げた。
「……今の、そっちへ行くんだ」
「そうなんです。続けて歌っていたら、ここの音をもう少し長く歌いたくなって」
シエルは、もう一度だけ低いところを歌った。
リアが、自分の選んだ絵へ目を落とす。
「その続きも聞いてみたいです」
「まだ考えているんですけど、今回は、ここを急いで通り過ぎたくなくて」
「うん。聞きたい」
俺は頷いた。
あのショーの歌も、もう一度聞きたかった。でも、今、シエルの口から出てきた続きを、知らないままにしておくのも惜しい。
「じゃあ、歌う方も、あのときと同じにしなくていいな」
「はい」
シエルが嬉しそうに答えた。
俺はセラを見た。
「セラは、どうする?」
「私は今回は、あの動きはやらない」
返事ははっきりしていた。
俺は一度頷いたが、少し遅れて、惜しいと思った気持ちが顔に出たらしい。セラが眉を上げた。
「また見たかった?」
「……そりゃ、見たかった」
「だったら、そう言えばいいじゃない」
「言ったら、やらせるみたいにならないかと思って」
「見たいって言うのと、やれって言うのは違うでしょ。私は、今回はやらないって答えたの」
「……そうだな」
セラは俺の顔を見てから、リアの絵へ視線を移した。
「でも、見せ方を考えるのは、やってみたい」
「見せ方?」
「自分で動いてみて、気になったことがあるのよ」
セラは片手を出した。俺たちから見ると、手の甲が手前にあり、指先が向こうへ隠れている。そこから身体を少し斜めにすると、曲げていた指が見えた。
「同じ手でも、こっちから見たら違うでしょ。自分では見えてるつもりでも、腕で隠しちゃうこともあるし」
「……あるな」
「絵と歌を一緒に見せるなら、どこに立つかも考えたい。私、そっちをやる」
セラは椅子から立ち、少し離れた位置から机の上を見た。リアが絵を起こすと、シエルにも立ってみるよう頼む。
俺も横へ並ぼうとした。
「あなたは、そこだと絵にかぶる」
「俺、まだ何もしてないんだけど!」
「立ったでしょ」
「存在しただけで邪魔になった!」
シエルが吹き出した。リアも紙の向こうで肩を揺らしている。
俺は一歩ずれて、絵が隠れなくなる位置を探した。
*
公開する場所は、以前の催しに協力してくれた店の一軒へ相談した。
前に使えたから、今度も使えるという話ではない。品物を運び込む時間を外し、店の横の空いたところで、短い披露と絵の展示をする。最初はそれくらいの話を持っていった。
店主は俺の腰を見て、すぐに尋ねた。
「その剣も出すのか?」
「見せたいです!」
「うちの商品を斬らんだろうな」
「俺の推しが傷つくので斬りません!」
「うちの商品も心配してくれ」
「もちろん、そっちもです!」
セラが横から、実際にどれくらい場所を使うか説明した。刀身を見せる間は動かず、動きを見てもらうときは鞘へ収める。それでも人が近づけない距離は必要なので、店主と一緒に立つ場所を確かめた。
「歌うとき、隣の店の呼び声はどうなんだ?」
店主が尋ねると、シエルは少し周りを聞いてから、短く歌ってみてもよいかと訊いた。
了承をもらい、ほんの数音だけ声を出す。セラと俺が離れて聞いた。
「こっちなら聞こえる。でも、通りの向こうまで集めようとすると、かなり張らないと駄目かも」
俺が伝えると、シエルは首を振った。
「今回は、この声のままで歌いたいです」
「じゃあ、遠くまで呼び込むのはやめるか」
「そうね。人数を増やすより、ここで聞けるようにしましょ」
セラが答えた。
リアは、絵を並べる台がどこまで使えるか尋ねていた。今回は展示だけにすること、絵のことを聞かれたら本人が答えることも、店主へ伝える。
俺は、紹介の順番を書き始めた。
「最初に俺が話して、剣を見てもらって、それからリアの絵とシエルの歌で……」
「最初の話って、どれくらい?」
セラが聞いた。
「そこは、ミスティアの魅力が伝わるまで」
「終わらないじゃない」
「俺の説明能力を信じてくれ!」
「あなたの推しへの愛を信じてるから言ってるのよ」
反論しにくい褒め方だった。
俺は書きかけの行に区切りを入れた。話す前から足りなくなる気がしている。でも、リアたちが見せるものを入れる場所まで、俺の話で埋めるわけにはいかない。
そのあとも、店主の仕事の合間に、置くものと立つ位置を確かめた。空き場所があるだけでは足りず、客が足を止めても、買い物や荷の運び込みを邪魔しない形に直していく。
宿へ戻れば、リアは選んだ絵に線を足し、シエルは旋律を試した。俺は紹介の言葉を考え、セラに長いと言われて削った。
その間も、冊子を引き取る相談は続いていた。
*
荷の話がまとまるまでには、店と保管を担当する側を、また何度か行き来した。
ある日は送り主からの返事を待ち、別の日は運び手の仕事が終わるのを待った。俺が立ち会えなかった話は、アーグと店主から聞いた。
注文した店の奥で、アーグが二枚の紙を並べた。
「この包みについては、途中で引き渡していいという返事がそろった」
送り主は、店主が指定する者へ渡すことを了承していた。今の運送を担当する側と、現物を預かっている側も、同じ荷を指していることを確かめたうえで、引渡しに同意している。
受取りには、店主がアーグを指名した。その名前も先方へ伝えたと聞いた。
店主は金額の書かれたところへ指を置く。
「ここまで運んでもらった分は、払う。こっちは、途中で終わりにする扱いだな」
「ああ。そこから店まで運ぶ分は取りやめる。その精算も、元の運び手と話がついた」
アーグがもう一枚を寄せた。こちらは、別に頼む運び手の見積りだった。
並べると、安くはならないことが分かった。もう運んだところまで、帳消しになるわけではない。
「……売れた分で払う、じゃ間に合わんな」
店主が呟いた。
引き出しから別の帳面を出し、指で数字を追う。俺は口を挟まず待った。俺が届けたいと思っても、店の仕入れに使う金まで決められるわけではない。
やがて店主が顔を上げた。
「今回は、ここまでなら出せる。毎度このやり方で頼むのは厳しいが、あの分を店へ入れたい」
アーグが頷く。
「なら、この条件で進めよう」
ほどなく、相談していた運び手が店へ来た。
保管場所と店までの道、荷の大きさをアーグと確かめ、見積りには荷車と荷を扱う人手も含むと説明した。俺たちが手伝わなければ動かない、という組み方にはなっていない。
「明日は先に受けた仕事がある。明後日の朝なら、この荷を取りに行ける」
店主はアーグと顔を見合わせた。
「向こうもその朝に渡せるか確かめて、今日中に返事をする」
運び手は頷き、仕事へ戻った。
俺とアーグはその日のうちに保管場所へもう一度足を運び、明後日の朝に引き渡してもらえることを確かめた。店へ戻って報告し、店主から正式に依頼する返事を出す。運び手からも了承が返り、ようやく両方の予定がそろった。
俺は、机の上の紙を見た。
この前は、荷がある場所までしか分からなかった。今は、それを誰が受け取り、誰が運ぶかが決まっている。
もちろん、荷はまだここにはない。
「二冊を分けてくれた店の注文は、別に残ってるんだよな」
「ああ。今回決めたのは、この店の、この包みだ」
アーグが答えた。
「分かった。向こうへ伝えるとき、混ぜないようにする」
俺は店主へ向き直った。
「引取りの日、俺も手伝いに行きたいです」
「助かるよ。ただ、あんたの剣と荷物は、ぶつけないでくれな」
「そこは、全力で気をつけます」
今度は、どちらの心配かを聞かれなかった。
*
受取りが明後日なら、先に約束していた明日の披露にも、落ち着いて取り組める。日取りも店主と決め、その日に向けて準備を進めることになった。
俺は協力してくれる店へ回り、明日の午後に使わせてもらう時間と場所を、セラたちともう一度確かめた。荷の受取りの予定は宿へ戻ってから皆に伝え、荷がもう届いたような案内には使わなかった。
夜、リアが仕上げた絵を見せてくれた。
手を伸ばす前のカナエ。顔だけが少し横を向いている。
最初に見たときより、口元の線が柔らかくなっていた。俺は何が起きる顔なのか考えかけて、決める前にもう少し眺めた。
「先生、どうですか?」
「……何か見つけたのかなって思った。嬉しいのか、びっくりしたのか、もうちょっと見てたくなる」
「私は、見つけたものが何だったか、まだ描かないでおこうと思います」
「うん」
リアが紙を持ち直す。
「これを、明日見せたいです」
俺は頷いた。
手を伸ばした方の絵も、やっぱり好きだ。どちらが勝ったという話ではなく、明日、リアが持っていきたいのはこちらなのだ。
シエルが、考えていた旋律を聞かせてくれた。低い音に留まるところが少し長くなっている。そのあとの声を聞いてから、リアは絵を包み始めた。
セラは俺の紹介用の紙を受け取り、目を通した。
「……減ってない?」
「減ってる。昨日よりは」
「紙が一枚増えてるんだけど」
「字を大きくしただけです」
セラが、疑わしそうに紙を返した。
俺は受け取り、最後の行をもう一度読んだ。そこには、自分の話の続きではなく、リアへ渡したい問いを書いてある。
「明日、最初の紹介は任せてくれ」
「最初だけで一日使わないでよ」
「使わない!」
返事をしてから、腰の《タクミ・ブレイザー》へ手を添えた。
俺の推しを見てもらいたい。その続きで、リアが選んだ一枚を見てもらい、シエルが今歌いたい声を聞いてもらいたい。
あのショーと同じにはならない。
包まれた絵と、書き直しだらけの紙を見ていると、早く明日になってほしくなった。




