謝罪では届かないもの
アーグの帳面には、同じ花の本について書かれた頁が、二つあった。
俺は片方を見てから、もう片方へ目を移した。店の名前が違う。俺たちの売り場に二冊を分けてくれた店と、催しのあとに最初の追加注文を調べた店だ。
「今から追うなら、こっちだ」
アーグが指したのは、先に注文を調べた店の方だった。
「途中の積み替えまで、記録がつながった荷だな」
「ああ。ただし、それは以前に確認した記録だ。今も同じ場所にあるとは限らん。まず、店でその後の状況を聞く」
「……分かった」
ケインが優先枠を使わせたことは、本人の口から聞いている。あの判断を、なかったことにはできない。でも、それが分かっていても、目の前の帳面から本が出てくるわけじゃなかった。
俺は二冊を分けてもらった店の名前へ、もう一度目を向けた。
「その前に、こっちにも寄りたい。あのとき買えなかった人のことも、気になるんだ」
「なら、まずそこから回るか」
アーグは帳面を閉じた。セラが戸口へ向かい、俺も椅子を戻して立ち上がる。
腰の剣へ、自然に手が触れた。今朝は、見るだけでずいぶん時間がかかった。それが今は、一緒に持っていくのが嬉しい。
ただ、今日、店で開いてもらいたいのは、俺の推し語りの時間じゃなかった。
*
二冊を分けてくれた商人は、店先で客へ包みを渡していた。
応対が終わるのを待って声をかけると、店主は俺たちを見て頷いた。
「おう。今日はどうした」
「花の冊子のことで、その後どうなったか聞きたくて」
「追加の分なら、まだ来てないよ」
店主は、棚の一角へ目を向けた。前に冊子が並んでいたところには、別の商品が置かれている。
「入る日も、まだ言えん。買いに来た客には、そう説明してる」
「そうですか……」
俺は棚を見た。
あの日、二冊をこちらから動かした。残した八冊も売れた。そのあとに来た老人が、孫に見せたかったと言った。
今朝、ミスティアの笑顔を見られたことが、ふと頭をよぎる。嬉しかった。けれど、ここへ来れば冊子も並んでいる、ということにはならない。
「すまん。あの花の本は、入ったかね?」
後ろから聞こえた声に、俺は振り返った。
あの老人だった。
俺たちではなく、店の棚を見ている。店主が申し訳なさそうに首を振ると、老人は短く息を吐いた。
「……そうか。今日も、まだか」
「すまないね」
「いや。ほかの買い物もあるから、寄ってみたんだよ」
老人は店を離れかけた。
あの日も、俺は声をかけようとして、そのまま見送った。今回も一瞬、喉が詰まったが、足を一歩前へ出した。
「あの、少しだけ、お話ししてもいいでしょうか」
老人がこちらを見る。
「本のことかね?」
「はい。俺、オタクミといいます。この前、最後の一冊が売れたあと、近くにいたんです」
「……ああ」
老人は俺の顔を見た。覚えているのかどうかまでは、分からなかった。
「ここにあった本を二冊、別の売り場へ回してもらったのは、俺たちなんです」
「そうだったのか」
「八冊残してもらったから、大丈夫だと思ってました。でも、こっちに買いに来る人が何人いるか、分かっていたわけじゃなくて」
店主が、俺の横から口を挟んだ。
「回すと決めたのは俺でもあるぞ。あんた一人で持っていったわけじゃない」
「……はい」
二冊を買っていった客のことも覚えている。小さなところに描かれた花を見つけて、笑った少年。もう一冊も、別の客に選ばれた。
あの人たちへ売らなければよかったとは、言いたくなかった。
それでも、俺は老人へ向き直った。
「こっちで買いたい人のことまで考えたつもりで、足りてませんでした。すみませんでした」
頭を下げる。
店先で、紙をめくる音がした。隣の店からは、値段を尋ねる客の声が聞こえてくる。
「謝ってくれたのは分かったよ」
老人が言った。
「だが、孫に渡す本がないことは変わらんからな」
「……はい」
頭を上げた俺の前で、老人はもう一度棚を見た。
何とかします、と言いそうになった。
代わりの本なら、どこかにあるかもしれない。リアなら、花の絵を描ける。でも、それをこちらで決めて差し出せば済む話ではなかった。
「お孫さんには、やっぱり、あの本を見せたいんですね」
「ああ。あの花が載ってると聞いたからね。花の本なら何でもいい、というわけじゃないんだ」
老人は、少しだけ口元を緩めた。
「一緒に見てみたかったんだよ」
俺は頷いた。
『一緒に』という言葉を聞いて、俺は冊子のない棚から老人へ目を戻した。
「入荷のことが分かったら、お知らせしてもいいですか」
「それは助かる」
「どうやってお伝えするのがいいでしょう」
老人は店主を見た。
「買い物に来たときは、ここへ寄るつもりなんだ。この店で聞けるようにしてもらえれば」
俺も店主へ目を向ける。
「分かったことを、こちらに伝えておいてもいいですか」
「ああ。伝言なら預かるよ」
店主が答えると、老人は続けた。
「ほかの店で買えると分かったなら、それも教えてくれ。場所が分かれば、そっちへ行くから」
「分かりました」
俺は答えてから、念のため言い添えた。
「ただ、いつになるかは、まだ言えません」
「うん。分かったときでいい。わしも、またここで聞くよ」
それだけ言って、老人は通りへ戻っていった。少し先の店で足を止め、今度は別の品物を手に取っている。
次にこの店へ寄ったとき、確かめられた知らせを聞けるようにする。俺が引き受けたのは、まずそこまでだった。
俺は店主へ、もう一度礼を言った。
*
次に向かったのは、最初に追加注文を調べた店だった。
こちらにも、花の冊子はまだ届いていなかった。店主はアーグの話を聞くと、奥から注文の控えを出してきた。
「これだ。頼んだ分は、変えていない」
アーグは自分の帳面と並べた。送り主、発送の日付、届け先。指を置きながら一つずつ見比べる。
俺は、二冊を分けてくれた店の注文と混ぜないよう、こちらの店名を自分の紙へ書いた。
「この注文分が今どこにあるか、もう一度確かめたい。控えの必要なところを写して、向こうへ問い合わせてもいいか?」
「ああ。頼む。客に聞かれるたび、まだだと言うしかなくてな」
店主は棚へ目を向けたが、すぐに控えへ視線を戻した。
「ただ、注文を増やしたり、別のものに変えたりする話なら、先に聞いてくれ」
「もちろんだ。今は、この荷の所在を確かめる」
アーグが答えた。
俺も紙へ必要なことを写していった。花の冊子。送り主。届け先。書いている途中で、つい品名だけ大きくなった。
「……そこだけ、ずいぶん目立つな」
横からアーグが言う。
「大事な本なので」
「届け先も同じくらい大事だ」
「宛名への愛が足りなかった」
「愛じゃなくて、読める大きさの話だ」
店主が、少し笑った。俺は狭くなった余白を諦め、もう一枚へ書き直す。
推しの名前を目立たせるのとは、違う仕事だった。
写し終えた紙を店主とアーグに見てもらい、控えは店へ返した。出発する前に、アーグが言った。
「分かったことは、まずあんたに返す。ほかの店の注文と一緒にはしない」
「分かった。よろしく頼む」
俺は紙を折り、懐へしまった。
セラが店を出たところで、俺の袖を軽く引く。
「前、見て」
「あっ」
通りを荷車が進んでいた。俺は道の端へ寄り、今度は紙を出さずに、その車輪が通り過ぎるのを待った。
*
以前、搬入の記録を調べた場所へ着いたときには、日が高くなっていた。
荷を降ろす者と、積み込む者が、短い声を交わしている。脇では、荷札を見ながら帳面に書き込む人がいた。
アーグは手の空いた相手へ声をかけ、店主に確認してもらった写しを見せた。俺も隣から、探している荷の届け先を伝える。
「この日に扱った荷だな」
相手は帳面を調べ、別の紙を引き寄せた。
「後の便へ回された記録がある」
「そこまでは前に聞いた。今、現物がどこにあるかを確かめたい」
「……今の置き場所か。荷を見ている方にも当たらないと、ここだけじゃ言えないな」
指が止まった。
紙の上では、その先へ進めない。
俺は、通路の向こうに積まれた包みへ目を向けた。あれかもしれない。もっと奥にあるかもしれない。けれど、全部同じ荷に見えている俺が勝手に探し始めたところで、邪魔になるだけだ。
「お願いします。ここの記録にある荷が、今も置かれているか知りたいんです」
相手は頷き、届け先をもう一度確かめた。
「返事は、注文した店へ出せばいいか?」
「ああ。この店へ頼む」
アーグが紙の店名を示した。
すぐに答えが出るとは言われなかった。そのあとも荷の出入りは続き、俺たちは通り道を空けて外へ出た。
「……俺、何か手伝えないかな」
「まずは、店へ戻って、何を頼めたか伝える。それはできる」
アーグの返事に、俺は頷いた。
向こうへ走っていって、ここにありますと指させたら格好よかった。今の俺にできたのは、調べてもらうための情報を渡すところまでだ。
その日は、確かな返事は出なかった。
店主へ経過を伝え、いつもの片づけを手伝った。箱を閉じ、紙をまとめ、帰る前にもう一度、知らせが来ていないか尋ねる。店主は首を振った。
宿へ戻る道で、夕方の光が長く伸びていた。
俺の足は、つい早くなったり遅くなったりした。隣のセラに歩きにくいと言われ、ようやく揃える。
「……返事、明日は来るかな」
「来るといいわね」
「うん」
それ以上は、二人とも言わなかった。
*
返答を読めたのは、翌日の昼を過ぎてからだった。
俺とアーグが注文を出した店へ寄ると、店主が一枚の紙を差し出した。
「知らせが来たぞ」
俺は、伸ばしかけた手を途中で止め、アーグと並んで読む。
届け先と送り主。発送の日付。その下に、該当する荷が保管されているという返答があった。
「……あった」
声に出すと、思ったより大きくなった。
「あるって! アーグ!」
「読んでる。荷札とも照らし合わせて確認しよう」
店主と控えの内容をもう一度確かめ、俺たちは先方へ向かった。
前日に問い合わせた相手へ返答を見せると、荷の保管を担当している人に取り次いでもらえた。出入りする荷車が途切れるのを待ち、案内された先で足を止める。
木の台の上に、紐を掛けた包みが置かれていた。
「こっちだ。この店へ送る分で、間違いないな?」
アーグは写しを広げ、荷札を確かめた。俺も、朝から何度も読んだ届け先を見つける。送り主も、発送の日付も合っている。相手が保管の記録を開き、品名と冊数を照らし合わせた。
「これだ」
アーグが言った。
俺は、結ばれた紐を見つめた。
まだ、中のページは見えない。あの小さな花も、包みの向こうだ。それでも、帳面の一行だったものが、目の前にある。
「これは、次にほかの荷とまとめて積むのを待ってる。ここから先へは、まだ出していない」
担当の人が説明した。
「いつ出るかは、もう決まってるんですか」
「今、俺から日付を言うことはできない」
俺は包みを見た。
ここにあるのに。
あの老人が欲しかった本も、これと同じ本だ。店に並んでいたら、開いて、見て、買うかどうか決められる。それが今は、紐の結び目より遠く感じられた。
「だったら、俺がこれを運べば――」
「待て」
アーグの声で、足が止まる。
「店から頼まれたのは、所在を確かめることだ。受け取って運ぶところまでは決めてない」
担当の人も頷いた。
「この店へ運ぶ荷として預かってるんだ。あんたたちに途中で渡していいとは、聞いてない」
「……そうか」
俺は、包みへ伸ばしかけた手を下ろした。
盗まれたものを取り返しに来たわけじゃない。荷物は、送り主から預かった人たちの手を通って、ここまで来ている。
今度は俺が持つ、と勝手に決めていいものではなかった。
「じゃあ、ここで受け取る方法があるか、誰に聞けばいいですか」
俺が尋ねると、担当の人はアーグを見てから答えた。
「その話をする相手は教えられる。ただ、渡せると決まったわけじゃないぞ」
「はい。まず、聞きたいです」
相手は、持っていた紙へ確認先を書いた。
アーグがそれを受け取り、もう一度店の控えを見る。
「店主にも相談しよう。今の運び方を変えるなら、確かめることがある。別の運び手を使えるか、費用がどれだけ変わるかもだ」
「うん」
俺は頷いた。
「その条件を調べるところ、手伝いたい」
「なら、まずは戻って報告だ」
荷は、まだ木の台の上にあった。
俺たちが見つけたからといって、勝手に店へ向かってくれるわけじゃない。それでも、今度は、どこにあるか分からないまま考えなくていい。
俺は、アーグから預かった写しと確認先の紙を重ねた。運び出すための許可ではない。店主と次の話をするために、持ち帰るものだ。
「……戻ろう。見つかったって、まず店の人に伝えたい」
腰の剣を通路の荷にぶつけないよう押さえ、俺は出口へ向かった。
あの老人に渡せる一冊は、まだ手の中にない。
けれど今日は、謝る言葉だけを持って帰るわけではなかった。




