もう一度、推しを語る
布の端を、朝から何度もつまんでいた。
少し持ち上げては、戻す。指を離し、膝の上で手を開いてから、また机へ伸ばす。向かい合っているのは封印された魔導書でも、呪いの宝箱でもない。俺が包んだ、ミスティアの絵だ。
隣には、鞘に収まった《タクミ・ブレイザー》が置いてある。
窓から朝の光が差し込み、階下では食器の触れ合う音がしていた。誰かが廊下を歩いていく。その足音が遠ざかるのを聞いてから、俺はもう一度、布の端へ目を戻した。
昨日、セラたちのショーを見た。リアの絵があり、シエルの歌が続く中で、セラが手を伸ばした。思い出すと、まだ鼻の奥が少しつんとする。
あれを見たあと、俺はミスティアをもう一度見たいと言った。
朝になっても、その気持ちは残っている。ただ、布を外すところまでは、ついてきてくれなかった。
「……ゴルドス」
『うむ』
「起きてたのか」
『呼ばれて返事をしたのでござるが』
「そうだった」
聞きたいことがあって呼んだはずなのに、その先が出てこない。鞘からも、続きの言葉はなかった。
俺は布をつまみ直した。引けば外れる。引っかかっているところなんて、どこにもない。
それでも途中で手が止まって、布の陰に銀色が少しだけ見えた。
見慣れた髪の色だった。
俺は息を吐き、そのまま、ゆっくりと布を横へ滑らせた。
ミスティアが笑っていた。
何度も見てきた顔だ。好きなところなら、いくらでも挙げられると思っていた。けれど今は、紙の端を持ったまま、その笑顔を見ているだけで精一杯だった。
眼の大きなキャラクターを見せてくれたケイスケのことが、ふと頭をよぎる。あのときの俺の声も。
指に力が入った。紙が曲がる前に気づいて、握り直す。
布は戻さなかった。
銀髪を目で追って、もう一度顔へ戻る。見ているうちに、口元が少し緩んだ。何か気の利いたことを言いたいのに、出てきたのは、ずいぶん頼りない声だった。
「……やっぱり、好きだな」
言ってから、もう一度見る。
絵の中のミスティアは、何も変わらなかった。俺を許すとも、元気になれとも言わない。ただ、俺が好きになった姿で、そこにいる。
もう少し見ていたくなった。
俺は椅子から立ち、絵をいつも飾っていた位置へ戻した。少し離れて眺めると、わずかに傾いているのが気になった。右を直すと、今度は左が気になる。
『……まだ曲がっておるのか?』
「いや。俺が斜めに立ってた」
『絵ではなく、そちらであったか』
「鑑賞者側の不具合だった」
小さく笑って、足の位置を直した。
そこに絵があるだけで、部屋の見え方が違う。椅子に座っても、机に手を置いても、視界の端にミスティアがいる。しばらく、その場所を見ないようにしていたことに気づいた。
俺は使わなくなった布を畳み、机の端へ寄せた。
「……おはよう、ミスティア」
今度は、顔を見て言えた。
*
《タクミ・ブレイザー》を手に取る前に、椅子を後ろへ引いた。
抜いた刀身が机や壁に当たらない位置へ立ち、鞘を支える。柄に指をかけたところで、肩に余計な力が入っているのが分かった。
一度だけ手を離す。指を曲げ伸ばししてから、握り直した。
鞘の口から、ピンク色の金属が現れる。
朝の光を受けた表面が、淡い桜色に光った。その先へ視線を動かすと、銀髪をなびかせたミスティアの姿が少しずつ見えてくる。
最後まで抜き、鞘を脇へ置いた。柄を両手で支えると、剣の重みが腕に収まる。
俺は刀身を見つめた。
広い面いっぱいに描かれたミスティア。その根元には、『尊い』。
「……うん」
頷いてから、そっと向きを変える。
反対側には、『二期待ってます』。
「……剣に書くことか、これ」
『貴殿が入れたのでござる』
「分かってる。しかも、今見ても消したくない」
『ならば、なぜ疑問を抱いた』
「武器として冷静に考える時間が、ちょっとだけ発生した」
思わず笑ってしまった。
強いとか、切れるとか、それ以前の問題だ。相手に向けた刀身に、続きを待っている視聴者の願いが書いてある。威圧するつもりなのか、制作の応援をするつもりなのか。
いや、応援だな。そこは間違いない。
笑った拍子に剣が揺れ、俺はすぐに持ち直した。ミスティアの顔を光の中へ戻すと、今度は笑いではない息が漏れた。
「……いいなあ」
この姿を、自分で選んだ。
絵を大きくして、文字まで入れて、武器としてどうなんだと呆れられても、譲りたくなかった。
今も、そう思う。
俺は少しだけ刀身を傾けた。光が顔に重なりすぎないところで止める。たったそれだけの動作が、妙に懐かしかった。
『見えたか』
「……うん。見えた」
ゴルドスの声に答えて、脇の鞘へ目を向けた。
こうして話せる声が、あのときは肝心なことに答えてくれなかった。ケイスケの言葉と、ゴルドスから聞いた言葉が、今も胸の中で噛み合わない。
「ゴルドス」
『何でござる』
「あの話、終わったとは思ってないからな」
少し間が空いた。
『……承知しておる』
俺は頷いた。それ以上は続けず、また刀身へ目を戻す。
剣を見て嬉しいことまで、嘘にしたくはなかった。
*
扉を叩く音がした。
「オタクミ、起きてる?」
「起きてる。ちょっと待って」
声に振り向きかけた身体を止め、先に剣の向きを変える。入口へ刃先が向かないようにしてから、入っていいと返した。
顔を出したのはセラだった。その後ろから、リアも部屋をのぞく。
「朝ご飯、まだなら――」
セラの言葉が途切れた。
俺の手元を見て、それから、飾り直した絵へ目を向ける。
「……抜いたのね」
「うん」
「そう」
セラはそれだけ言って、部屋へ入ってきた。剣の届かないところで足を止め、腕を組む。口元が少しだけ緩んでいた。
リアは絵を見上げていたが、やがて俺のそばへ来た。
「先生、今、少し見てもいいですか?」
「もちろん。刃には触らないでな」
「はい」
俺は柄を持つ手を落ち着かせた。リアが見やすい位置へ立つのを待ってから、刀身をほんの少し傾ける。
それだけで、説明したいことが幾つも浮かんだ。
絵の大きさ。刀身との収まり。銀髪の流れ。なぜこの文字がここに必要だったのか。
けれど、どこから話せばいいか迷っているうちに、リアが先に口を開いた。
「先生は、この笑った顔が好きなんですか?」
「……うん。好きだ」
「剣に描くなら、もっと強そうな顔を選ぶこともできたのかなって思って」
俺は、もう一度ミスティアを見た。
「できたと思う。でも、俺が見たかったのは、この顔だったんだよな」
「でも、戦うときは鞘に戻すんですよね」
「そう。笑顔を守ったまま戦える。完璧だろ?」
セラが横から口を挟む。
「剣の説明としては変だけどね」
『そこだけは変わらぬのう』
「そこは変えたくないんだよ」
リアが笑った。俺もつられて笑い、それから刀身へ目を戻す。
「俺さ、これを見たときまで、ずっと気を張っていたくないんだと思う」
言ってみてから、少し考えた。
「格好いい顔も好きだよ。でも、この笑ってる顔を見ると、しんどかったことより先に、ああ、可愛いなって思えるときがあるんだ。それが嬉しくて」
今日は、そこへたどり着くまでに少し時間がかかった。
そのことまでは言わず、笑顔の描かれた面を見つめる。
リアは急いで頷かなかった。絵を見て、俺を見て、もう一度、刀身へ視線を戻した。
「……見たときに、どんな気持ちになるかも、大事なんですね」
「うん。あと、単純にめちゃくちゃ可愛い。今ちょっと真面目な話をしたけど、そこは削れない」
「削らなくても伝わってます」
「よかった! それから、髪がこう流れてるだろ。大きな剣なのに、ここを見てると、絵の方はふわっと動いてるみたいでさ」
リアの目が、銀髪の描かれたところを追った。
「……ああ、ここですね」
「そう! それで、顔へ戻ると笑ってるわけだよ! 格好よさと可愛さが、同じ場所に収まってる! しかも、見るたびにまずどっちが目に入るか違うんだ!」
声が大きくなった。
俺は一度息を吸ったが、言葉はまだ残っていた。表情の話から、思い出した場面の話へ。そこから作品全体へ進みかける。
「これをきちんと説明するには、そもそも『輝星のルミナス』が――」
「どこまで戻るつもり?」
セラが尋ねた。
「作品の最初から」
「朝ご飯の前に?」
「……昼ご飯の前には終わるかも」
「朝ご飯はどこへ行ったのよ!」
俺は口を閉じた。
リアが何か言おうとして、途中で止めていたことにも気づく。
続きを話したい。まだ全然足りない。けれど、そちらも聞きたかった。
「……ごめん。そこから先は、またにする」
「本当に?」
「今のところ、すごく続きを話したいけど、またにする」
「正直ね」
俺はリアへ向き直った。
「さっき、何か言おうとした?」
「はい。この絵、先生が少し傾けると、光り方が変わるんですね」
「変わる! だから角度が――」
言いかけて、止まった。
「……うん。変わる」
リアの口元が緩む。
「紙に描くときとは、違うところを考えないといけないんだなって。絵だけ見ていたつもりでも、周りの金属まで一緒に見てるんですね」
俺は黙って剣の角度を少し変えた。
ピンク色の光沢が移り、リアが「あ、今のところです」と指を止める。俺も同じところを見た。いつも自分が顔を見せたくて避けていた光を、リアは別の面白さとして眺めていた。
「……そっちは、俺、あんまり見てなかったな」
「私は気になります。どう描いたら、光ったときにも見てもらえるのかなって」
リアは、まだしばらく刀身を見ていた。
俺は説明の続きを飲み込み、剣の角度を保ったまま、リアが見終えるのを待った。
隣で、腹が鳴った。
俺の腹だった。
「……鑑賞時間の終了をお知らせします」
「ずいぶん分かりやすい合図ね」
「身体が勝手に閉会した」
リアが吹き出した。俺は剣を鞘に戻し、もう一度だけ、飾ったミスティアを振り返ってから部屋を出た。
*
朝食を終えてから、俺はセラに少しだけ付き合ってほしいと頼んだ。
「剣を持って、動いてみたいんだ」
「さっきからずっと持ってたじゃない」
「鑑賞の角度を調整する動きじゃなくて」
「それはそうでしょうね」
リアは描きかけの絵へ戻り、俺とセラは宿の人に断って、建物の脇の空いた場所を使わせてもらった。セラが通り道をふさがない位置を選ぶ。
「振り回さないでよ」
「分かってる。ちょっと確かめるだけ」
俺は剣を鞘に収めたまま構えた。
何度もやった動きだ。半歩ずれて、身体の向きを変える。相手を横へ払うときのつもりで、腕を動かそうとした。
そこで止まった。
足だけが先に進んで、剣が遅れている。無理につなげず、俺は構えを解いた。
「……あれ」
「今、剣を見てたわよ」
セラが言った。
「位置が気になってさ」
「だったら、最初に確かめて。途中で何度も下を向いたら、足と合わなくなるでしょ」
柄を握る手に、やたら力が入っていた。指を少し緩め、鞘の先がどこまで届くのかを確認する。
また傷つけたくないと思えるのは嬉しい。嬉しいが、そのせいで自分の足に引っかけたら、さすがに格好がつかない。
「……よし。ゆっくりやる」
「うん」
今度は、初めから速度を落とした。
半歩ずれ、腰の向きを変える。腕の動きを急がず、鞘の重みを確かめながら、小さく払うところまでつなげた。
足を戻す。
まだ、ぎこちない。でも、どこで止まりそうになるかは分かった。
もう一度だけ、同じ動きをした。今度は途中で下を向かずに終えられた。
「……どう?」
「さっきよりはいいわね」
「おお」
「今日は、そのくらいにしといたら?」
俺は少し迷って、頷いた。
もっと動けるところを見せたい気持ちはあったが、何かを倒したいわけではなかった。鞘を扱う手の感覚が戻ってきたところで、今はやめておく。
『動きを確かめるとなれば、やはり拙者の出番でござるな』
「刀身は鑑賞担当だから」
『拙者の担当は変わらぬのか』
「頼りにしてる」
『便利な言葉で済ませようとしておる!』
セラが笑った。俺も笑い、鞘を支え直してから腰へ戻した。
いつもの場所に、いつもの重みがある。
少し歩くと、剣が身体に合わせて揺れた。そのたびに手を添えたくなったが、一度だけ位置を直して、あとは前を向いた。
*
宿へ戻ると、アーグが食堂の端で帳面を開いていた。
俺の足音に顔を上げ、腰の剣へ視線を落とす。
「……持っていくのか」
「ああ」
「そうか」
アーグは頷いて、開いていた頁へ目を戻した。
俺はその隣で足を止めた。
ミスティアを見られた。剣を抜いて、また話すこともできた。部屋へ戻れば、絵が飾ってある。思い出すだけで、もう一度見に行きたくなる。
でも、目の前の帳面を見て、別の空いた場所を思い出した。
最後の一冊が売れたあとの棚。孫に見せたかったと言って、店を離れた老人。
俺が市場で荷物を数えていた間も、みんながショーの準備をしていた間も、あの人にはあの人の時間があった。今、どうしているのかは、まだ聞けていない。
「アーグ。花の冊子のこと、聞きたい」
帳面をめくっていた手が止まった。
「何を?」
「今、どこまで分かってるのか。それと、店に行って、あのあとどうなったか確かめたい」
アーグは、俺の顔を見た。
「分かった。まず、こっちの記録から話す」
「頼む」
俺は隣の椅子を引いた。腰の剣が触れないよう少し座る位置を変え、アーグの開いた頁へ目を向ける。
ミスティアの話なら、まだ山ほど続きがある。
その前に、今日は聞きたいこともあった。




