また好きだと言えるまで
ショーが進むにつれて、俺は少しずつ、時間の感覚を忘れていた。
セラの動きは、決して派手ではない。
大きく跳ぶわけでも、剣を振るわけでもない。
ただ、歩く。
止まる。
手を伸ばす。
それだけの動きが、妙に気になった。
リアの絵がある。
シエルの歌がある。
その中で、セラが動いている。
カナエの物語を、そのまま再現しているわけじゃない。
リアが描いたものを、セラが自分の体で受け取っている。
シエルも、そこに自分の音を重ねている。
俺は、それを見ていた。
そして、ふと気づいた。
俺は今、誰かの作品を見ている。
評価しようとしているわけじゃない。
正しい感想を探しているわけでもない。
ただ、何が起こるのか知りたくて、目を離せずにいる。
そのことに気づいた瞬間、胸の奥が少し苦しくなった。
……ああ。
俺、こういうのが好きだったんだ。
誰かが、自分の好きなものを形にする。
それを見た誰かが、また違うものを思い浮かべる。
一つの絵から、別の表現が生まれていく。
俺は、そういう瞬間が好きだった。
でも。
その気持ちに触れた途端、別の記憶が浮かんだ。
『眼、でかすぎない?』
昔、自分が口にした言葉。
軽い気持ちだった。
何も考えていなかった。
けれど、ケイスケにとっては、そうじゃなかった。
好きなものを見せた相手から、笑われた。
その傷が、今も残っている。
俺は、セラの動きを見ながら、唇を噛んだ。
また、誰かの大事なものを傷つけたら。
そう思うと、言葉が怖くなる。
でも、目の前の三人は、俺に正解を求めていなかった。
リアは、自分の描きたいカナエを描いた。
シエルは、自分の歌いたい旋律を選んだ。
セラは、自分が見せたい動きを考えた。
そのうえで、俺に見てほしいと言った。
何も言えないかもしれない俺に。
それでも。
胸の奥が、じわりと熱くなった。
*
シエルの歌が、静かに変わった。
さっきまでの旋律より、少し明るい。
けれど、セラが動くより先に、歌だけが進んでいく。
高い音が一つ伸び、そこから少し下がって、また上がる。
まっすぐ進むだけじゃない。
迷いながらも、自分の行きたいところへ向かっていくような旋律だった。
セラが顔を上げた。
伸ばしかけた手を、一度引く。
俺は、その動きを見つめた。
触れるのをやめるのかと思った。
けれど、違った。
セラは、もう一度手を伸ばした。
今度は、さっきよりゆっくりと。
ためらいが消えたわけではない。
それでも、自分で選んで伸ばしている。
指先が、何もない空間へ向かう。
俺は息を止めた。
リアの絵に描かれていた、あの手。
届く前の手。
触れたいものがあるのに、まだ触れていない手。
その手が、今、目の前で動いている。
シエルの歌が、静かに響いた。
セラの指先が止まる。
そして、ほんの少しだけ、前へ進んだ。
何かに触れたわけではない。
何かを手に入れたわけでもない。
それでも、俺には、その一歩がとても大きく見えた。
……きれいだ。
そう思った。
その瞬間、涙が出た。
「……え」
自分でも驚いた。
目の奥が熱くなり、視界が滲む。
慌てて手で拭った。
でも、止まらなかった。
何で泣いてるんだ、俺。
セラが何かに触れたわけじゃない。
カナエの物語が完結したわけでもない。
ただ、手を伸ばしただけだ。
なのに。
その動きが、どうしようもなく胸に残った。
俺は、もう一度セラを見た。
涙で、指先が少しぼやけている。
セラは、まだそこに立っていた。
シエルの歌が、その向こうへ続いている。
俺は目を拭うのをやめた。
今は、見ていたかった。
*
シエルの歌が終わった。
最後の音が静かに消えていく。
セラは手を下ろし、ゆっくり息を吐いた。
リアが絵のそばに立っている。
三人とも、すぐには何も言わなかった。
俺も、言えなかった。
涙を拭うので精一杯だった。
セラが、少し困った顔をした。
「……オタクミ」
「……うん」
「大丈夫?」
「……たぶん」
「たぶんって」
セラは一歩近づきかけて、止まった。
「無理させた?」
「違う」
俺は首を振った。
「違うんだ」
声が、少し震えた。
「……よかった」
セラが小さく息を吐く。
その顔を見て、俺は何か言おうとした。
でも、言葉が見つからない。
きれいだった。
すごかった。
よかった。
どれも本当だ。
でも、どれも少し違う気がした。
そのとき、セラが小さく笑った。
「……それにしても」
「……ん?」
「最後、足がもつれなかったのは奇跡ね」
俺は瞬きをした。
「……え?」
「途中、結構危なかったのよ」
「えっ、あれ以外にも?」
「あるわよ。あなたが見てないところで、何回も練習したんだから」
セラは自分の足を見た。
「もう少し長かったら、最後まで立っていられたか怪しいわね」
「そんなギリギリのショーだったの!?」
「だから、ちゃんと準備したって言ったでしょ」
「こんなに素晴らしかったのに!?」
思わず声が出た。
リアが吹き出した。
シエルも笑っている。
セラは少しむっとした顔をした。
「何よ。ちゃんと最後までできたんだからいいでしょ」
「いや、そうだけど!」
俺は笑った。
涙を拭いながら、笑った。
何だこれ。
泣いていたはずなのに。
今度は笑いが止まらない。
セラが呆れた顔をする。
「……忙しいわね、あなた」
「誰のせいだと思ってるんだよ!」
「知らないわよ」
セラが肩をすくめた。
リアが、笑いながら言った。
「でも、セラさん。最後の動き、すごくよかったです」
「本当?」
「はい。私が描いたカナエとは、少し違いましたけど」
リアは絵を見た。
「だから、よかったです」
セラが少し驚いた顔をした。
「違うのに?」
「はい。セラさんのカナエになってたので」
シエルも頷いた。
「私も、途中で歌い方を変えたくなりました」
「えっ、変えてたの?」
「少しだけ」
「……気づかなかった」
「それくらいが、ちょうどよかったのかもしれません」
シエルが微笑む。
「セラさんが止まっているところでも、私は先へ進む音を歌いたかったんです」
「……ああ、あそこね」
セラは少し考えてから頷いた。
「私も、歌を聞いてから動こうとは思わなかったわ。自分で動きたくなるまで、止まってた」
「はい。それでよかったと思います」
リアが二人を見比べた。
「私も、絵を描いたときには考えてなかった動きが見られて、嬉しかったです」
三人が、自分たちの作ったものについて話している。
俺は、その様子を見ていた。
そして、また胸が熱くなった。
この人たちは、自分たちが面白いと思ったものを作った。
それを、俺に見せてくれた。
そのことが、嬉しかった。
*
「……セラ」
俺は、ようやく声を出した。
「何?」
「リアも、シエルも」
三人がこちらを見る。
俺は一度、息を吸った。
正しい感想なんて、今の俺には分からない。
でも、自分がどう感じたかなら。
それだけなら、言えるかもしれない。
「……俺」
声が詰まった。
セラは黙って待っていた。
リアも、シエルも。
誰も急かさなかった。
俺は、目の前の絵を見た。
リアが描いたカナエ。
セラが動かしたカナエ。
シエルが歌った、まだ何かを見つける前の時間。
その全部を思い出す。
「……俺、これ、好きだ」
言えた。
たった、それだけだった。
いつもの俺なら、そこから延々と語り始めていただろう。
どこがよかったか。
何が尊かったか。
どうして最高なのか。
聞かれてもいないのに、全部説明しようとしていたはずだ。
でも、今はそれ以上、言葉が出なかった。
短い沈黙があった。
セラが目を見開いた。
リアも、少し驚いた顔をした。
シエルが静かに微笑む。
「……そっか」
セラが小さく言った。
「好きになったんだ」
「……うん」
俺は頷いた。
「すごく、好きになった」
また涙が出そうになった。
セラは少し困ったように笑った。
「……それなら、よかった」
リアが胸の前で手を握った。
「先生」
「……うん」
「ありがとうございます」
「いや、俺のほうこそ……」
リアは首を振った。
「私、また描きたいものが増えました」
俺は顔を上げた。
リアは、カナエの絵を見ていた。
「今日のセラさんの動き、描いてみたいです。でも、そのまま描くんじゃなくて、私が描きたい形で」
「……うん」
「それから、違う表情のカナエも」
リアは楽しそうに笑った。
その顔を見て、俺も少し笑った。
シエルが静かに言った。
「私も、今日の歌を歌ってみて、また別の旋律が浮かびました」
「……そっか」
「はい。今日の歌も好きです。でも、次は違う歌も作ってみたいです」
セラが二人を見た。
「……あなたたち、もう次のこと考えてるの?」
「はい!」
リアが即答する。
シエルも頷いた。
セラは呆れたように笑った。
「元気ねえ」
「セラさんは?」
リアが尋ねる。
「私?」
「また、動いてみたいと思いません?」
セラは少し考えた。
それから、自分の手を見た。
「……そうね」
小さく笑う。
「今度は、足がもつれにくい動きがいいわ」
「そこが最優先!?」
俺が突っ込むと、三人が笑った。
俺も笑った。
泣いたあとで、まだ少し声が変だった。
でも、その笑いは無理に作ったものじゃなかった。
*
ショーが終わっても、俺はすぐには立ち上がれなかった。
セラたちは片づけを始めている。
リアは絵を丁寧に重ね、シエルは自分の使ったものを確かめていた。
セラは、最後まで足元を確認している。
……本当に徹底してるな。
俺は少し笑った。
それから、自分の手を見た。
小さな手。
この世界へ来てから、何度も見てきた手だ。
《タクミ・ブレイザー》を握ってきた手。
ミスティアの絵を飾ってきた手。
好きなものを見せたくて、何度も前へ伸ばしてきた手。
今は、まだ動かせない。
少なくとも、あの剣へは。
ミスティアの絵へも。
でも。
今日、俺は誰かの作品を見た。
好きだと思った。
それを、自分の言葉で伝えられた。
「……オタクミ?」
セラが声をかけた。
「まだ座ってるの?」
「……うん」
「疲れた?」
「ちょっと」
「無理しないでよ」
「分かってる」
俺は頷いた。
セラは少しだけ近づいた。
「……どうしたの?」
俺は、しばらく考えた。
そして、ぽつりと言った。
「……もう一回、見たいな」
「え?」
セラが瞬きをする。
「今のショー?」
「……それも」
俺は首を振った。
胸の奥に、別のものが浮かんでいた。
ピンク色の金属。
刀身に描かれた、あの子の姿。
何度も眺めて、何度も語ってきた。
今はまだ、まともに見ることができない。
でも。
今日、セラたちの作品を見て、好きだと思った。
だったら。
俺がずっと好きだったものも。
もう一度、見てみたい。
「……ミスティア」
小さく名前を口にした。
セラは何も言わなかった。
「……俺、もう一回、ミスティア様を見たい」
言葉にすると、胸が少し痛んだ。
怖さは、まだある。
ケイスケのことも、消えていない。
あのとき自分がしたことも、なかったことにはならない。
でも、見たいと思った。
もう一度、あの子の絵を。
《タクミ・ブレイザー》を。
自分が好きだったものを。
セラは、静かに頷いた。
「……そう」
「うん」
「今すぐ?」
俺は首を振った。
「……まだ、ちょっと怖い」
「なら、急がなくていいわ」
セラはそう言った。
それから、少し笑った。
「でも、見たくなったんでしょ?」
「……うん!」
「だったら、その気持ちは大事にしなさいよ」
俺は頷いた。
セラは、それ以上何も言わなかった。
代わりに、片づけの続きを始めた。
リアとシエルも、いつものように話している。
ショーは終わった。
俺は、まだ元通りじゃない。
でも。
ずっと遠くに感じていたものへ、もう一度手を伸ばしたいと思った。
それだけで、今は十分だった。
俺は椅子から立ち上がった。
そして、三人のところへ歩いていった。
まだ、好きなものを語る言葉は戻っていない。
けれど、好きだと思う心まで、なくなったわけじゃなかった。
今日、俺はそれを思い出した。
たった一人の観客として。
誰かの好きなものを、受け取る側として。
そして、いつかもう一度、自分の好きなものを見つめるために。




