一人分の拍手
観客が一人しかいないショーというものを、俺は今まで見たことがない。
いや、正確には、一人しかいないショーを見たことがないわけじゃない。
客が来なくて、たまたま一人になった催しなら、あり得るだろう。
でも、今回のは違う。
最初から、俺一人のために用意されたものだ。
それが分かっているから、妙に緊張する。
「……俺、どこに座ればいい?」
「そこ」
セラが指したのは、用意された一つの椅子だった。
周囲には、ほかの観客用の席はない。
少し離れたところにリアの絵が置かれていて、シエルは自分の立つ位置を確かめている。
セラは、床の上に何も落ちていないかを確認していた。
どこかで見た光景だ。
荷物を運ぶ前。
危険な場所を通る前。
セラはいつも、まず足元を確かめる。
まさか、ショーの直前にも同じことをするとは思わなかった。
「……セラ」
「何?」
「なんか、出発前みたいだな」
「出発?」
「危ない道を通る前の」
「似たようなものでしょ。途中で転んだら台無しだもの」
「いや、そんな危険なショーなの?」
「危険じゃないように確認してるのよ!」
いつもの突っ込みだった。
俺は少し笑った。
セラも、口元を緩める。
でも、そのあとすぐに真面目な顔になった。
「オタクミ」
「うん」
「昨日も言ったけど、無理はしないで」
「……分かってる」
「途中で止めてほしくなったら、言って」
「うん」
「それから、感想はなくてもいい」
「……それも、分かってる」
セラは俺の顔を見た。
確認するように。
俺が頷くと、ようやく一歩下がった。
「じゃあ、座って」
「はい」
椅子に腰を下ろす。
目の前にあるのは、大きな舞台でも、立派な幕でもない。
ただ、三人が準備した小さな場所だ。
それなのに、俺には妙に広く感じられた。
リアが絵の位置を確かめている。
シエルは静かに息を整えている。
そして、セラがこちらを向いた。
観客は、俺一人。
拍手をするのも、笑うのも、黙って見るのも、俺一人だ。
……いや、待て。
一人で拍手するのって、結構勇気がいるんじゃないか?
周囲に合わせることができない。
誰かが先に手を叩いてくれるわけでもない。
しかも、目の前には知り合いが三人。
これは、ある意味、大勢の観客より緊張する。
「……セラ」
「今度は何?」
「拍手って、いつすればいい?」
セラが固まった。
リアがこちらを見る。
シエルも、少し驚いた顔をした。
「……好きなときにすれば?」
「いや、好きなときって言われると難しくて」
「何でよ」
「だって、俺しかいないんだぞ? 俺が拍手した瞬間、それが会場の拍手全部になるんだぞ?」
セラは数秒、俺を見つめた。
そして、深いため息をついた。
「……そこまで考えなくていいわよ」
「でも、責任重大じゃない?」
「重大じゃない!」
リアが吹き出した。
シエルも笑っている。
セラは額を押さえた。
「始まる前から、そんなことで悩まないで」
「すみません」
「拍手したくなったら、すればいいの。したくなければ、しなくてもいい」
「……了解」
俺は頷いた。
少しだけ、肩の力が抜けた。
セラは俺の様子を見てから、リアとシエルに目を向けた。
二人が頷く。
そして、ショーが始まった。
*
最初に見えたのは、リアの絵だった。
カナエ。
手を伸ばす前の、まだ何にも触れていないカナエ。
以前の披露でも見た、リアが生み出した女の子だ。
でも、今、目の前にある絵は少し違う。
視線が、どこか遠くへ向いている。
何かを見つけたのか。
それとも、まだ探しているのか。
俺には分からない。
分からないまま、見ていた。
シエルの声が聞こえた。
静かな歌だった。
言葉より先に、音が届く。
最初の旋律は、どこか足元を確かめるようにゆっくりしていた。
低い音から始まり、少しずつ高い音へ移っていく。
けれど、上がりきる前に一度止まる。
何かを言いかけて、まだ言葉にしないような間があった。
俺はシエルを見た。
彼女は、ただセラの動きに合わせて歌っているわけではなかった。
自分の歌を、自分の呼吸で届けている。
その声が響く中、セラが一歩動いた。
たった一歩だった。
けれど、俺は思わず目を向けた。
普段のセラの動きとは違う。
危険を避けるためでも、誰かを守るためでもない。
何かを見つけたように顔を上げ、足を止める。
少し迷う。
そして、もう一歩。
その動きが、リアの絵と重なった。
カナエが、そこにいる。
もちろん、本当に絵から飛び出したわけじゃない。
セラはセラだ。
髪も、顔も、姿も違う。
それなのに、伸ばしかけた手を見た瞬間、俺はカナエを思い浮かべていた。
……ああ。
こういうことか。
絵の中に描かれていない時間を、セラが動いて見せている。
リアが描いた一瞬の前に、別の一瞬がある。
シエルの歌が、その間をつないでいく。
俺は、椅子の上でじっとしていた。
何か言いたくなった。
けれど、言葉が出てこない。
いつもなら、ここで「尊い」と叫んでいたかもしれない。
でも、今はまだ、それができない。
だから、ただ見ていた。
*
セラが手を伸ばす。
途中で止まる。
指先が、ほんの少し震える。
何かに触れたい。
でも、触れるのが怖い。
そんなふうに見えた。
シエルの歌が、少しだけ高くなる。
セラは動きを止めたままだ。
けれど、歌は止まらない。
短い音が一つ、また一つと続き、さっきまでのためらいとは違う方向へ進んでいく。
まるで、セラが立ち止まっているあいだにも、別の誰かの時間は流れているみたいだった。
俺は思わずシエルを見た。
彼女はセラを急かしていない。
セラも、歌に合わせて無理に動こうとはしない。
それぞれが、自分の表現を続けている。
やがて、セラが一歩踏み出した。
その瞬間だった。
「……っ」
セラの足が、ほんの少し引っかかった。
大きく転んだわけじゃない。
ただ、予定していた動きが一瞬崩れた。
俺は反射的に腰を浮かせかけた。
けれど、セラはすぐに姿勢を立て直した。
ちらりと、こちらを見る。
その目が、ほんの一瞬だけ言っていた。
――大丈夫だから。
俺は椅子に座り直した。
セラは何事もなかったように、もう一度手を伸ばした。
今度は、さっきより少しゆっくりと。
失敗をなかったことにするのではなく、その場から動き直すように。
俺は思わず笑いそうになった。
あれだけ足元を確認していたのに。
きっと、本人が一番悔しいだろう。
でも、今のセラは止まらない。
シエルの歌も続いている。
リアの絵は、変わらずそこにある。
完璧じゃない。
でも、目が離せない。
セラは、誰かの真似をしているだけじゃない。
自分で考え、自分で動いている。
リアのカナエを、自分なりに受け取っている。
そして、シエルも。
歌を止めず、自分の旋律を続けている。
その三つが、少しずつ重なっていく。
俺は、ただ見ていた。
今は、それでよかった。




