一人だけの観客
翌朝、セラが妙な動きをしていた。
正確には、食堂の隅で片手を伸ばし、そのまま固まっていた。
昨日、リアの絵を見ながらやっていた動きだ。
ただし、今日は少し違う。
指先を伸ばしたあと、何かに触れる直前で止める。いったん手を引き、また伸ばす。
そして、なぜか自分の手に向かって首を傾げていた。
「……セラ?」
「何?」
「いや、何してるのかなって」
「見れば分かるでしょ」
「ごめん。今のところ、見ても分からない」
セラは腕を下ろした。
「昨日のリアの絵よ」
「ああ、カナエの」
「そう。あの手の動き、ちょっと気になって」
「気になる?」
「絵では触れる直前で止まってるでしょう。だったら、その前にどう動いてたのかなって」
なるほど。
確かに、一枚の絵に描かれていない時間はある。
その前に何があって、そのあと何が起こるのか。
俺も好きな作品を見ながら、何度も想像してきたことだ。
けれど、その話を広げようとして、言葉が止まった。
以前なら、ここで三十分は語っていただろう。
カナエの動きについて、考えられる解釈を全部並べて。
今は、そこまでできない。
「……セラは、どう動くと思う?」
代わりに尋ねると、セラは少し驚いた顔をした。
「私?」
「うん」
「そうね……」
セラはまた手を伸ばした。
今度は、まっすぐではない。
一度ためらい、少し横へずらしてから、ゆっくり前へ出す。
「こういう感じかしら」
「……へえ」
「何よ、その反応」
「いや。ちゃんと考えてるんだなって」
「失礼ね」
「ごめん」
セラは鼻を鳴らした。
「手を伸ばすなら、足も動くでしょ。体重をどっちに乗せるかでも、見え方は変わるし」
そう言って、一歩踏み出す。
俺は思わずその足元を見た。
セラは元盗賊だ。
足運びや体の使い方には、俺なんかよりずっと敏感なのだろう。
けれど今、彼女が考えているのは戦うための動きじゃない。
誰かの描いた人物を、どう動かしたら面白いか。
そのことだった。
「……なんか、新鮮だな」
「何が?」
「セラが、絵の中の動きを考えてるの」
「私だって、そういうことくらい考えるわよ」
「うん」
俺は頷いた。
それ以上、気の利いたことは言えなかった。
セラは俺の顔を一度見てから、話題を変えた。
「朝ご飯、冷めるわよ」
「あっ」
「先に食べなさい。今日は荷物の確認もあるんだから」
「了解です」
俺が席に向かうと、セラはもう一度だけ指先を伸ばした。
何かを確かめるような、短い動きだった。
*
市場の準備が一段落したころ、リアが新しい絵を広げていた。
昨日のカナエだ。
何かに触れようとして、まだ触れていない。
指先の角度は少し変わっていたが、伸ばした手の先には何も描かれていない。
セラが隣に立つ。
「昨日の絵、また変えた?」
「はい。肩の位置を少しだけ」
「ふうん」
セラは絵を見て、自分の肩を動かした。
「……ねえ、リア」
「はい?」
「これ、実際に動いたらどう見えるか、試してみてもいい?」
リアの顔が明るくなった。
「もちろんです!」
「ただ、私の解釈になるわよ」
「それが見たいです」
リアは即答した。
セラは少し照れたように眉を寄せる。
「そんな大げさなものじゃないから」
「でも、私が描いたカナエを、セラさんがどう動かすのか気になります」
「……そう」
セラは周囲を見回した。
会場の通路には客がいる。
荷物を運ぶ人も、商品を見ている人もいる。
「ここじゃ邪魔になるわね」
「空いているところ、探しましょうか?」
「今すぐじゃなくていいわ。仕事が終わってから」
そのやり取りを、少し離れたところでシエルが聞いていた。
「私も、見てみたいです」
「シエルも?」
「はい。昨日の歌を、もう少し考えたいので」
セラは腕を組んだ。
「歌と動き、合わせるってこと?」
「合うかどうかも、試してみないと分かりませんけど」
シエルが微笑む。
「私の歌が、セラさんの動きを邪魔するかもしれませんし」
「だったら、邪魔だって言うわよ」
「はい。遠慮なくお願いします」
リアが二人を見比べた。
「……なんだか、楽しそうですね」
「まだ何もしてないわよ」
セラはそう言ったが、口元が少し緩んでいた。
俺はその様子を見ていた。
何か言いたい気持ちはある。
けれど、まだうまく言葉にならない。
セラがこちらを向いた。
「オタクミ」
「ん?」
「あなた、午後の片づけはアーグと一緒だったわよね」
「うん」
「じゃあ、私たちは終わったら少し残るから」
「分かった」
それだけだった。
何をするのか、細かく聞くことはしなかった。
セラも、俺に感想を求めなかった。
*
仕事が終わったあと、俺はアーグと荷物を確認していた。
箱の数を数え、置き場所を確かめる。
その間、リアたちは人の通らない場所で、昨日の絵について話していた。
時々、セラの声が聞こえる。
「そこまで伸ばすと、もう届いてるように見えるのよ」
「でも、手前すぎると何も見つけてないみたいです」
「だったら、顔の向きを変えたら?」
「それなら、歌も少し変えられそうです」
俺は箱を一つ持ち上げた。
アーグが帳面から顔を上げる。
「気になるのか?」
「……まあ」
「見に行けばいいだろ」
「今は、こっちの仕事中だし」
「それはそうだな」
アーグはあっさり頷いた。
それから、箱を一つ指した。
「そっち、数が合ってるか?」
「えーと……」
俺は中身を確かめた。
いつもの俺なら、セラたちの会話が気になって、仕事を放り出しかけていたかもしれない。
今は、気にならないわけじゃない。
ただ、そこへ飛び込んでいく勇気がなかった。
アーグはそれ以上、何も聞かなかった。
帳面に数字を書き込みながら、ぽつりと言った。
「リアたちも、いろいろ考えてるんだな」
「うん」
「お前が休んでる間も、やることはあるらしい」
「……そうだな」
その言葉は、少しだけ胸に刺さった。
でも、嫌な痛みではなかった。
俺がいなくても、みんなは自分の好きなものを見つけていく。
それを寂しいと思う気持ちと、よかったと思う気持ちが、まだうまく混ざらない。
俺は帳面に目を戻した。
「こっちの数、合ってる」
「よし。じゃあ次だ」
仕事は続いた。
*
しばらくして、セラたちのほうから声が上がった。
「ちょっと待って。それ、私には無理」
「えっ、そうですか?」
「そんな角度で腕を曲げたら、普通に痛いでしょ」
「絵だと描けたんですけど……」
「絵だからよ!」
俺は思わず顔を上げた。
アーグも手を止める。
「……何やってるんだ、あいつら」
「たぶん、カナエの動き」
「絵の中の人物を動かすって、そういうことか?」
「いや、俺にもまだ分からない」
次の瞬間、リアの笑い声が聞こえた。
シエルも笑っている。
セラが何か言い返したらしく、また笑い声が上がった。
俺も少し笑った。
何が起きたのか、全部は見ていない。
でも、楽しそうだった。
それだけは分かった。
*
セラが本気で何かを考えているときは、妙に静かになる。
そのことに気づいたのは、翌日のことだった。
普段なら、俺が余計なことを言えばすぐに突っ込んでくる。
荷物の置き方が悪ければ注意するし、危なっかしい客がいれば先に動く。
そのセラが、朝から何度も自分の手を見ていた。
「……手相でも見てるの?」
「違う」
「じゃあ、何かついてる?」
「ついてない」
「昨日の筋肉痛?」
「まだ言う?」
「すみませんでした」
セラは呆れた顔をした。
けれど、そのあと少し笑った。
「昨日のこと、考えてただけよ」
「カナエの?」
「そう」
セラは指先を曲げた。
「絵の中の人物って、見る人によって動き方も違うのね」
「……そうかもな」
「リアは、ためらってるって言ってた。でも私は、あの手を見て、少し怖がってるようにも見えた」
「怖がってる?」
「触れたいものがあるのに、触ったら何かが変わるかもしれない、って」
俺は返事をしなかった。
その言葉が、胸の奥に引っかかったからだ。
セラは俺の反応を待たずに続けた。
「だから、最初は手を伸ばさないほうがいいのかなって思ったの」
「……最初は?」
「一歩動いて、止まって。それから手を伸ばす」
セラは床を見た。
「でも、ずっと迷ってるだけだと、見てるほうがじれったいでしょ」
「まあ……」
「だから、最後には自分で動く。そういうのが、私は好きかな」
俺はセラを見た。
それは、俺に何かを教えようとする言葉には聞こえなかった。
セラが自分の好きな動きを話している。
ただ、それだけだった。
「……セラらしいな」
「何が?」
「最後は動くところ」
「止まってたら、何も始まらないこともあるでしょ」
そう言ってから、セラは少し眉を寄せた。
「別に、あなたに言ってるわけじゃないからね」
「分かってる」
「本当に?」
「……たぶん」
「そこは分かってなさいよ」
セラがため息をついた。
俺は小さく笑った。
*
その日の仕事が終わったあと、リアとシエルがセラのところへ集まった。
俺はアーグに頼まれた確認を済ませ、少し離れた場所で帳面を閉じていた。
「昨日の続き、できますか?」
リアが尋ねる。
「できるけど、その前に一つ確認したいことがあるの」
セラは真面目な顔をしていた。
「これ、何のためにやる?」
リアとシエルが顔を見合わせる。
「何のため……ですか?」
「そう。絵の動きを試すだけなら、昨日ので十分だったでしょ」
「私は、もっと見たいです」
リアが答えた。
「自分が描いたカナエが、私の考えてなかった動きをするところ」
「私は、歌と一緒になったときに、どんなふうに感じるか確かめたいです」
シエルが続ける。
「昨日は、セラさんの動きに合わせようとしすぎた気がするので。今度は、私が歌いたい旋律を先に歌ってみたいです」
セラは二人の話を聞いていた。
「……そっか」
「セラさんは?」
リアが聞く。
「私?」
「はい。セラさんは、どうしたいですか?」
セラは少し黙った。
指先を見て、それからリアの絵を見る。
「……私は」
言いかけて、口を閉じる。
何かを考え直すように、腕を組んだ。
「昨日、やってみて思ったの。絵の中の一瞬を、自分の体でつないでみるのって、結構面白いのね」
リアが頷く。
「はい」
「それに、誰かが描いたものを、私が勝手に動かしていいのかと思ってたけど」
「勝手じゃないです。私、見たいですから」
「うん。それは分かった」
セラは少し笑った。
「だったら、もう少しちゃんとやってみたい」
シエルが目を輝かせた。
「歌も合わせて?」
「あなたが合わせたいなら」
「合わせたいです。でも、私の歌に動きを全部合わせなくてもいいと思います」
「私もそう思う」
リアが言った。
「三人とも、同じことを考えなくてもいいですよね」
セラは二人を見た。
それから、ふっと笑った。
「そうね。そのほうが面白そう」
話はそこで終わらなかった。
セラは周囲を見回し、床の広さや人の通り道を確かめ始めた。
「ただ、やるなら安全なところじゃないと駄目よ。動いてる途中で誰かにぶつかったら、それどころじゃないし」
「絵は、どこに置きましょう?」
「それも考えないとね。歌う位置も」
「私、声の届き方を試してみます」
「あと、無理な動きはなし。昨日みたいな腕の角度は却下」
「ええっ」
「ええっ、じゃない!」
リアが笑った。
シエルも楽しそうに頷いている。
俺は、少し離れた場所からその様子を見ていた。
セラはいつも、何かを始めるときに現実的なことを考える。
危なくないか。
誰が何をするのか。
どこまでならできるのか。
それは、戦うときも、旅をするときも変わらない。
でも今、その慎重さは、何かを守るためだけに使われているわけじゃなかった。
自分が見せたいものを、ちゃんと形にするために使われていた。
*
「……ねえ、セラさん」
リアが小さな声で尋ねた。
「これ、誰かに見てもらうんですか?」
セラはすぐには答えなかった。
「どうだろうね」
「私は、見てもらえたら嬉しいですけど」
「私もです」
シエルが頷く。
「でも、大勢の前で歌うのとは、少し違う気がします」
「そうね」
セラはしばらく考えていた。
それから、こちらを見た。
目が合う。
俺は反射的に背筋を伸ばした。
「……何?」
「オタクミ」
「はい」
「何でそんなに警戒してるのよ」
「いや、セラが真面目な顔で俺を見たから」
「普段は真面目じゃないみたいに言わないで」
「そういう意味では!」
セラは一度ため息をついた。
そして、少しだけ言いにくそうに口を開いた。
「あなたに、見せたいと思ったの」
俺は瞬きをした。
「……俺に?」
「そう」
「カナエの動きを?」
「それだけじゃないわ」
セラはリアとシエルを振り返った。
「リアが描いたものを、私が動いて、シエルが歌う。三人で考えてるものを、一度ちゃんと形にしてみたい」
「うん」
「それを、あなたに見てほしい」
俺は返事ができなかった。
胸の奥が、急にざわついた。
俺は今、好きなものをちゃんと語れない。
リアの絵にも、十分な感想を返せない。
そんな俺に見せても、困らせるだけじゃないだろうか。
「……でも、俺」
「分かってる」
セラが先に言った。
「今、前みたいに感想を言えないんでしょ」
「……うん」
「それでもいいわ」
「え?」
「別に、立派な感想が欲しいわけじゃないもの」
セラは腕を組んだ。
「私がやってみたいからやる。リアも描きたいし、シエルも歌いたい。それで、見せたい相手を考えたら、あなたが浮かんだの」
俺はセラを見つめた。
「……俺が元気になるため、とかじゃなくて?」
聞いてから、嫌な質問だったかもしれないと思った。
けれど、セラは怒らなかった。
「あなたが少しでも楽しめたら、もちろん嬉しいわよ」
そう言って、肩をすくめる。
「でも、楽しまなきゃ駄目だなんて言わない。見たからって、明日から元通りになれとも言わない」
「……」
「私が見せたいの。そこは、あなたの都合だけで決められたくないわね」
その言葉に、俺は少し驚いた。
セラは続けた。
「大勢に見せる前に、って話じゃないの。最初から、あなた一人に見せたいと思ったのよ」
「……一人?」
「そう。観客は、あなた一人」
俺は目を丸くした。
「え、リアとシエルは?」
「作る側よ。リアは絵を、シエルは歌を担当するでしょ」
「ああ、そっか」
「誰かに評価してもらうための発表でもないし、大勢を集める催しでもない。今、私が見せたい相手は、あなたなの」
セラは一度、言葉を切った。
「もちろん、見るかどうかはあなたが決めていい」
リアが一歩前に出た。
「先生。私も、見てほしいです」
「リア……」
「でも、感想は無理に言わなくていいです。私、描きたいから描いてますし」
シエルも頷いた。
「私も、歌いたいから歌います」
三人が、俺を見ていた。
誰も、俺に何かを約束させようとはしていない。
元気になることも。
笑うことも。
褒めることも。
ただ、見てほしいと言っている。
「……少し、考えてもいい?」
俺が尋ねると、セラは頷いた。
「もちろん」
「ごめん」
「だから、謝らなくていいって」
セラは苦笑した。
「私たちも、準備を整える時間が必要だしね」
リアが頷いた。
「私、絵の配置をもう少し考えたいです」
「私は、歌をもう少し練りたいです」
「私は、まず動きを決めるわ。昨日みたいに腕がつるのは嫌だし」
「まだ筋肉痛なの?」
俺が聞くと、セラが睨んだ。
「そこは忘れなさい!」
リアとシエルが笑った。
俺も、少しだけ笑った。
*
その夜、俺は部屋で考えていた。
机のそばには、《タクミ・ブレイザー》がある。
鞘に納まったままだ。
ミスティアの絵も、まだ布に包んである。
俺は、そのどちらにも手を伸ばせなかった。
今日、セラは俺に見せたいと言った。
リアも、シエルも。
俺はずっと、見せる側にいた。
好きなものを誰かに知ってほしくて、語って、飾って、時には勢い余って相手を置いていった。
見てもらえることが、嬉しかった。
でも、見せられる側が何を感じるかについて、俺はどれだけ考えていただろう。
セラは、感想を無理に言わなくていいと言った。
それでも、俺は怖かった。
見て、何も言えなかったら。
何かを言って、また誰かを傷つけたら。
考え始めると、きりがない。
「……どうしたもんかな」
小さくつぶやいた。
鞘の中から、ゴルドスの声がした。
「難しく考えておるのう」
「……聞いてたのか」
「聞こえておっただけでござる」
「同じじゃない?」
「違うのでござるよ」
いつもの調子だった。
俺は少しだけ息を吐いた。
「見たい気持ちは、あるんだ」
「うむ」
「セラたちが何を作るのか、気になる。でも、ちゃんと受け取れるか分からない」
ゴルドスはすぐには答えなかった。
俺も、答えを求めていたわけじゃない。
「……今の俺が見ても、いいのかな」
「それを決めるのは、おぬしと、見せたいと言うた者たちであろう」
俺は鞘を見た。
ゴルドスは、それ以上何も言わなかった。
俺はしばらく考えてから、灯りを落とした。
見たいという気持ちはある。
けれど、今すぐ返事をするには、まだ少し怖かった。
*
そのあとも、セラたちは仕事の合間を縫って準備を進めた。
俺も普段の仕事は続けていた。
荷物を運び、商品の場所を案内し、アーグと数を確かめる。
推しの話を求められたときだけ、言葉が止まった。
そのたびに、セラやリアが自然に応対を引き継いでくれた。
ありがたかった。
同時に、まだそこへ戻れない自分を意識した。
ある日、片づけの途中でセラたちの声が聞こえた。
「そこ、もう少し空けたほうがいいわね」
「絵が見えにくくなりますか?」
「それもあるけど、私が動いたときにぶつかりそう」
「では、こちらへ寄せます」
リアが何かを動かす音がした。
続いて、シエルの声が聞こえる。
「ここから歌うと、セラさんの動きが見えますか?」
「見えるけど、あなたは歌いにくくない?」
「少しだけ。でも、位置を変えれば大丈夫そうです」
「無理はしないでよ」
「はい」
俺は手元の箱を閉じた。
何を作っているのか、気になった。
けれど、今は見に行かなかった。
あれは、セラたちが俺に見せたいと言ったものだ。
俺が先に答えを知ってしまうのも、なんだか違う気がした。
少しして、リアがこちらへ来た。
「先生」
「ん?」
「まだ、考え中ですか?」
「……うん」
「分かりました」
リアはそれだけ言って戻ろうとした。
「リア」
「はい?」
「……準備、楽しい?」
リアはぱっと笑った。
「はい。すごく」
その顔を見て、俺は少し安心した。
「そっか」
「先生に見てもらえたら嬉しいです。でも、準備してる時間も楽しいんです」
「……うん」
「だから、急がなくて大丈夫ですよ」
リアはそう言って、セラたちのところへ戻っていった。
俺はその背中を見送った。
自分の返事を待つためだけに、三人の時間が止まっているわけではない。
そのことが、少し嬉しかった。
*
別の片づけの時間には、シエルが歌を確かめていた。
俺のいる場所からは、歌声だけが聞こえた。
短い旋律が途中で止まり、少し間を置いて、もう一度始まる。
「今のところ、少し長くしたいです」
シエルの声がした。
「私が止まってる時間?」
「はい。でも、セラさんが待つためじゃなくて、私がそこを歌いたいので」
「……そういうことなら、私の動きも考え直せるわね」
「無理に合わせなくても大丈夫です」
「分かってる。私も、そのほうが面白いと思っただけ」
続いて、リアの声がした。
「絵も、最初に見せるものはこっちにします」
「昨日、並べてた順番と違うの?」
「はい。私、こっちのカナエから見てほしくなったので」
「理由は?」
「まだ何にも触れてない顔が、今は一番好きだからです」
少しして、紙を動かす音がした。
セラが何かを確かめ、シエルが短く歌う。
リアがもう一度、絵の位置を変える。
俺はその全部を見たわけじゃない。
けれど、三人がそれぞれ自分の考えを持ち寄っていることは分かった。
誰か一人の正解に、残りの二人が合わせているわけじゃない。
少しずつ違うものを好きだと言いながら、一つのものを作ろうとしている。
俺は箱を持ち直し、片づけを続けた。
*
準備が整ったと聞いたとき、セラはいつもより少し真面目な顔をしていた。
「オタクミ」
「うん」
「一応、形になったわ」
「……そうなんだ」
「まだ実際に見てもらわないと分からないところはあるけど、動きも確認したし、リアの絵も、シエルの歌も合わせられた」
セラは指を折りながら続けた。
「邪魔になる物も片づけた。動くところも確かめた。無理な姿勢もやめた」
「最後の、ちょっと惜しそうだな」
「惜しくないわよ!」
即座に返ってきた声に、俺は少し笑った。
セラも、つられたように笑う。
それから、まっすぐ俺を見た。
「……あなたは、どう?」
俺は一度、息を吸った。
ずっと考えていた。
セラが見せたいと言ってくれたこと。
リアが描きたいから描いていること。
シエルが歌いたい旋律を選んでいること。
そして、俺がそれを見たいと思っていること。
怖さは、まだ消えていない。
でも、怖いからといって、見たい気持ちまでなかったことにはしたくなかった。
「……見たい」
口にすると、思っていたより小さな声になった。
セラは黙って待った。
「でも、ちゃんと感想を言えるかは、まだ分からない」
「分かってる」
「途中で、苦しくなるかもしれない」
「だったら、止めればいいわ」
セラは即答した。
「無理に最後まで見なくていい。私たちがやりたいことだからって、あなたが我慢する必要はないもの」
「……ありがとう」
「それに、あなたが何も言わなかったとしても、私たちがやったことまでなくなるわけじゃないしね」
俺は顔を上げた。
セラは少し照れくさそうに肩をすくめた。
「リアは絵を描いた。シエルは歌を作った。私は動きを考えた。それだけでも、もうやってよかったと思ってる」
「……そっか」
「だから、感想を言わなきゃって気負わないで」
俺は頷いた。
「分かった。……いや、まだ完全には分かってないかもしれないけど」
「そこは正直なのね」
「今、格好つける余裕がないので」
「普段は格好つけてたんだ?」
「その話は置いとこう!」
セラが笑った。
俺も笑った。
それでも、胸の奥にある重さは変わらない。
ミスティアの絵を見られるようになったわけでもない。
《タクミ・ブレイザー》を抜けるようになったわけでもない。
ただ、セラたちが何を見せてくれるのか、知りたいと思った。
「……楽しみにしてる」
そう言うと、セラは一瞬、目を見開いた。
それから、少し照れくさそうに顔をそらした。
「期待しすぎないでよ」
「それは無理かも」
「何でよ」
「だって、セラが見せたいって言ったんだろ?」
セラは返事に詰まった。
しばらくして、小さく息を吐く。
「……そうね」
そして、俺をまっすぐ見た。
「だったら、あとはあなたに見てもらうだけね」
その言葉には、いつものセラらしい強さがあった。
俺は頷いた。
まだ、好きなものを語る自分を信じられない。
けれど今度は、誰かが自分の好きなものを見せようとしてくれている。
俺は、それを見たいと答えた。
それが何を変えるのかは、まだ分からない。
ただ、一つだけ決まったことがある。
セラたちが準備した小さなショーの観客は、俺一人。
その席に座ることを、俺は自分で選んだ。




