描きたいもの
翌朝、食堂に下りると、リアが絵を描いていた。
朝食の皿の横に紙を広げ、鉛筆を動かしている。
描かれているのは、カナエだった。
少し前までなら、俺は椅子に座るより先に紙をのぞき込み、勝手に感想を三つくらい口にしていただろう。
そのうち二つは勢いだけで、一つは自分でも何を言っているのか分からなくなるやつだ。
でも今は、足が止まった。
「……おはよう、リア」
「あ、先生。おはようございます」
リアが顔を上げる。
昨日、俺はセラとアーグに、しばらく布教を休みたいと伝えた。
今朝はリアとシエルにも話した。二人とも驚いたけれど、理由を無理に聞こうとはしなかった。
リアは、描いていた紙を隠さなかった。
だからといって、こちらに差し出してくることもなかった。
「カナエ?」
「はい。昨日の続きです」
見えた範囲では、片手を伸ばしたカナエが描かれていた。
何かをつかもうとしているようにも、誰かを呼び止めようとしているようにも見える。
俺は、もう少し見たいと思った。
同時に、その先が怖くなった。
いいと思った部分を言葉にした瞬間、リアはそれを正解だと思ってしまうかもしれない。
俺が以前、誰かの好きなものに向かって、軽い気持ちで言葉を投げたように。
「手、変えたんだな」
やっと言えたのは、それだけだった。
「はい。昨日は、もう少し指を開いてたんですけど」
リアは紙の端に描いた小さな下絵を指した。
そちらのカナエは、今にも何かをつかめそうな手をしていた。
「こっちだと、もう届いてる感じがして」
「……なるほど」
「でも、届く前のほうが、私には気になるんです」
リアはそう言って、もう一度紙を見た。
俺ではなく、カナエを。
「何に届こうとしてるか、まだ決めてないのか?」
「決めてません」
即答だった。
「決めないまま描いてるの?」
「はい。変ですか?」
「いや……」
変じゃない。
むしろ、そういう余白が好きだと言いたかった。
見る人が自分の大事なものを思い浮かべられるような、そんな一枚になりそうだと。
けれど、そこまで考えて、言葉が止まる。
俺の解釈で、リアの絵を囲ってしまいたくなかった。
「……リアが、まだ決めたくないなら、それでいいんじゃないか」
どうにか答えると、リアは少し首を傾げた。
「先生。私、先生の許可を取ってるわけじゃないですよ」
「えっ」
「聞いてみただけです」
そう言って笑う。
俺は、返す言葉に詰まった。
そうか。
俺が何かを決めてやる必要なんて、最初からないのか。
「……そうだな。ごめん」
「謝ることでもないですけど」
リアは鉛筆を持ち直した。
「先生が宣伝してくれたの、嬉しかったです。カナエを知ってもらえたのも」
「うん」
「でも、まだ描いたことのない顔がある気がするんです。描いてみたら、次は違う顔も見たくなって」
紙の上に、細い線が増える。
「今日は、この手をもう少し描いてみます」
リアは楽しそうに、指先の線を引き直した。
それは、俺を元気づけるための行動ではなかった。
ただ、リアが自分の好きなことをしている。
その姿を見て、俺は少しだけ息がしやすくなった。
「朝からずいぶん熱心ね」
セラが食堂に入ってきた。
俺たちの前の紙を見て、目を細める。
「またカナエ?」
「はい。手の形を変えてるんです」
「ふうん」
セラはリアの肩越しに絵を見た。
「何か落としたの?」
「落としてません」
「じゃあ、届かない棚の上にある物を取ろうとしてる?」
「それ、セラさんの発想ですよね」
「手を伸ばすといったら、そういう場面が多いでしょ」
「セラ、身長に恨みでもあるの?」
思わず言うと、セラが俺を見下ろした。
「あなたが言う?」
「今のは俺が悪かった」
「分かればいいわ」
短いやり取りだった。
俺は笑った。
笑えたことに、自分で少し驚いた。
けれど、そのままカナエの魅力を語り始められるわけではない。
胸の奥にある重さは、変わらなかった。
セラも、それ以上は何も言わなかった。
朝食が運ばれてくると、リアは紙を片づけた。
続きを描くつもりなのだろう。消しゴムのかすを丁寧に払ってから、紙を重ねる。
その動作が、なんとなく眩しかった。
*
市場に着くと、アーグが荷物を仕分けていた。
「お、来たか。そっちの箱、運ぶの手伝ってくれ」
「了解」
俺は箱の持ち手に手をかけた。
重くはない。
持ち上げると、アーグが妙な顔をした。
「そっちは軽いほうだぞ」
「知ってるよ」
「いや、お前が自分から軽いほうを選ぶとはな」
「何その評価」
「普段は見栄を張って重いのを持とうとして、途中でセラに渡してるだろ」
「過去の失敗を在庫管理するな!」
「商人だからな」
アーグが真顔で答える。
俺は箱を抱えたまま、肩を落とした。
こういう会話ならできる。
荷物の数を確認することも、客に商品の場所を教えることもできる。
昨日から今日にかけて、俺の全部が止まったわけじゃない。
止まっているのは、もっと狭くて、もっと大事な場所だった。
会場の一角では、リアがカナエの絵を並べていた。
シエルが隣で、展示台の位置を確かめている。
「こちらのほうが、歌うときに見やすいでしょうか」
「そうですね。でも、絵の近くに立つと、ちょっと隠れちゃうかも」
「でしたら、私は反対側に」
リアが一歩下がって、展示全体を見た。
しばらく考えてから、絵の位置を少しずらす。
「こっちにします。シエルさんの声が聞こえる方向から、絵も見てもらいたいので」
「いいですね」
シエルが微笑んだ。
俺に確認する声は、かからなかった。
寂しくない、と言えば嘘になる。
以前なら、頼まれてもいないのに配置について熱弁していただろう。
でも、二人は俺がいなくても考えられる。
当たり前のことだ。
その当たり前を、俺は今までどれだけちゃんと見ていただろう。
昼前、カナエの絵を見ていた客がリアに声をかけた。
「この子、前にも見た気がするね」
「はい。前に描いた絵も、こちらにあります」
「同じ子なのに、ずいぶん雰囲気が違う」
リアは少し緊張した顔で、二枚の絵を並べた。
「今は、違う表情を描いてみたくて」
「何かを待っているようにも見えるね」
「そう見えますか?」
「うん。何か大事なものを見つけたのかもしれない」
リアはすぐに答えなかった。
客が去ったあとも、しばらく絵を眺めていた。
「リア?」
「……待ってる、かあ」
独り言のようにつぶやく。
「私、届こうとしてるところを描いたつもりだったんですけど」
「違って見える人もいるんだな」
「はい」
リアは嬉しそうだった。
「でも、今の絵はこのままにします」
「いいのか?」
「はい。私が描きたかった手は、これなので」
そう言って、指先の線を軽くなぞる。
「次は、待ってるカナエも描いてみたいです」
俺は、思わず口を開きかけた。
それは絶対にいい。
同じ人物が、見る人の言葉をきっかけに別の表情を見せるなんて、創作の醍醐味じゃないか。
でも、声にはならなかった。
リアが俺を見た。
何かを待っているようにも見えた。
俺は、無理に笑顔を作るのをやめた。
「……楽しそうだな」
リアは少し驚いたあと、笑った。
「はい。楽しいです」
それで会話は終わった。
俺は箱を運ぶ仕事に戻った。
リアは、また自分の絵に向き合った。
俺が感想を言えなくても、その手は止まらなかった。
---
午後、シエルが小さく歌っていた。
客に披露するための歌ではない。
リアの絵を見ながら、旋律を確かめるように声を出している。
いつもの歌より、少し静かだった。
「シエル?」
「あ、先生。すみません。気になりましたか?」
「いや。今の、初めて聞いた気がして」
「少し変えてみたんです」
シエルはリアの絵を見た。
「カナエさんが手を伸ばしているでしょう?」
「うん」
「最初は、何かを見つけた喜びを歌にしようと思ったんです。でも、絵を見ていたら、まだ見つける前の時間のほうが気になって」
「見つける前……」
「何かがあると信じて、手を伸ばしているようにも見えたので」
シエルはもう一度、短い旋律を口ずさんだ。
音は静かに始まり、最後の一音だけ、少し上へ向かう。
「まだ完成ではないんですけど」
「……シエルは、そっちのほうが好きなのか?」
「はい。今は、こちらを歌ってみたいです」
迷いのない返事だった。
リアが横から顔を出した。
「それ、もう一回聞いてもいいですか?」
「もちろんです」
シエルが歌う。
リアは目を閉じて聞いていた。
歌が終わると、すぐに紙を取り出した。
「どうしたの?」
「ちょっと、描いてみたい顔が浮かんで」
鉛筆が走る。
俺は、その速さに見覚えがあった。
好きなものを見つけたとき、考えるより先に手が動く。
俺も、そういう瞬間を何度も経験してきた。
リアは新しい紙に、カナエの横顔を描き始めた。
さっきまでの絵とは違う。
目線が少し上を向いている。
伸ばした手は、まだ何にも触れていない。
「シエルさんの歌を聞いたら、こういう顔も描きたくなりました」
「嬉しいです」
シエルが微笑む。
「でも、歌に合わせなくてもいいんですよ」
「はい。これは私が描きたい顔です」
リアは鉛筆を止めずに答えた。
その言葉が、妙に耳に残った。
*
「……で、その手は何をしてるの?」
夕方近くになって、セラがリアの新しい絵をのぞき込んだ。
「何かに触れようとしてるところです」
「触れる直前?」
「はい」
「だったら、こう?」
セラが片腕を伸ばした。
指を少し開き、何かをつかむ寸前で止める。
「それだと、もう取る気満々に見えません?」
リアが言う。
「取る気がないのに手を伸ばす?」
「そうじゃなくて……まだ、触っていいか迷ってる感じです」
「迷ってる?」
セラは腕を引き、もう一度伸ばした。
今度は指先だけが、ほんの少し前へ動く。
「こう?」
「あっ。それ、近いです!」
「近いって何よ。正解は?」
「まだ分かりません」
「描いてる本人が?」
「はい」
セラは呆れたように息をついた。
けれど、腕を下ろさない。
指先の角度を変え、肩の位置をずらす。
リアが真剣な顔でそれを見ていた。
「……セラ、何分その姿勢なの?」
俺が尋ねると、セラがこちらを向いた。
「知らないわよ」
「そろそろ腕、つらくない?」
「別に」
「今、ちょっと震えてるけど」
「震えてない」
「いや、カナエが突然、筋力の限界に挑む物語に」
「誰が限界よ!」
セラが勢いよく腕を下ろした。
リアが吹き出す。
シエルまで、口元を押さえて笑っていた。
「もう。絵の参考になればと思っただけなのに」
「なりました! すごく!」
リアが慌てて答える。
「指だけじゃなくて、肩も動くんですね。手を伸ばすって」
「そりゃ動くでしょ」
「絵だと、つい手の形ばっかり見ちゃうので」
リアは紙を見直した。
「でも、さっきのままにはしないです」
「え?」
セラが聞き返す。
「セラさんの動きは、すごく分かりやすかったんです。でも、カナエはもう少し、ためらってる感じにしたくて」
リアは新しい線を引いた。
肩をほんの少し下げ、指先を柔らかくする。
「こっちが好きです」
セラはしばらく紙を見た。
「……なるほどね」
「変ですか?」
「いや。絵にすると、そっちのほうがカナエらしい気がする」
リアが嬉しそうに笑った。
俺はそのやり取りを聞きながら、展示台の端に置かれた道具を片づけていた。
セラの動きを見て、リアが絵を変える。
シエルの歌を聞いて、また別の顔を描く。
でも、二人の意見に従っているわけじゃない。
リアは、自分で選んでいる。
そんな当たり前のことを、俺は今、ようやく見ている気がした。
けれど、だからといって、何を言えばいいのかはまだ分からなかった。
セラはもう一度、リアの絵に目を向けた。
「……動いてるところを見たら、また違うのかしらね」
「え?」
「今の絵よ。手を伸ばす前と、伸ばしたあと」
セラは自分の手を見た。
「一枚だと、その間は見る人が考えるでしょ」
「はい」
「実際に動いたら、どう見えるのかなって」
リアが目を輝かせた。
「それ、面白そうです」
「思いついただけよ」
セラはすぐに言った。
その話は、そこでいったん終わった。
けれど、セラは帰り支度の途中でも、時々自分の指先を見ていた。
*
店じまいのころ、アーグが帳面を閉じた。
「花の冊子の件だが、今日の時点で、入荷を確約できる話はない」
「……そうか」
俺は手を止めた。
あの冊子を孫のために探していた老人の顔が浮かぶ。
店主の許可を得て会場へ運んだ二冊は売れた。
けれど、欲しかった人に届かなかった事実は変わらない。
「店主にも、分かっている範囲だけ伝える。届く日を勝手に約束するわけにはいかん」
「うん。それで頼む」
「お前も、気にしてるだろうが」
「……気には、してる」
それしか言えなかった。
俺が布教を休んでも、市場の問題が休んでくれるわけではない。
それは分かっている。
ただ、今の俺にできることは限られていた。
「確認できることは、俺も手伝う」
「分かった。必要になったら声をかける」
アーグはそれ以上、励ましもしなかった。
代わりに帳面をしまい、空になった箱を一つ俺に渡した。
「じゃあ、まずこれを頼む」
「……はいはい」
「軽いぞ」
「その情報、もういいから!」
アーグは笑って、別の箱を持ち上げた。
俺も箱を運んだ。
今は、それでよかった。
*
宿へ戻る前、リアが俺の隣に来た。
「先生」
「ん?」
「今日の絵、もう少し描けたんです」
「うん」
「見ますか?」
リアの手には、紙があった。
俺はそこに描かれたカナエの輪郭を、ちらりと見た。
見ること自体は、できる。
朝も、市場でも、俺はリアの絵を見ていた。
ミスティアの絵に向き合おうとしたときのように、目をそらさずにはいられないわけじゃない。
ただ、ちゃんと受け取って、言葉にするのが怖かった。
好きだと思ったところを伝えたら、リアがその方向へ描こうとするかもしれない。
違うと思ったところを口にしたら、何かを失わせるかもしれない。
そんなことを考えてしまう。
「……リア」
「はい」
「見るのは、できるんだ」
リアが静かにうなずく。
「でも、今の俺じゃ、ちゃんと感想を言える自信がない」
言ってから、情けなくなった。
以前の俺なら、感想を求められたら喜んで飛びついていた。
その俺が、目の前の一枚に向き合うことすらためらっている。
「だから、今日は……じっくり見るのは、やめておく」
「分かりました」
リアは紙を引っ込めた。
怒った様子も、落胆した様子もなかった。
「先生に見てもらえないと、困る?」
俺が聞くと、リアは少し考えた。
「寂しくはあります」
「……ごめん」
「でも、困りません」
リアははっきり言った。
「描きたいものが、まだいっぱいあるので」
俺は顔を上げた。
「今日、セラさんが手を動かしてくれたでしょう?」
「ああ」
「シエルさんも、新しい歌を聞かせてくれました」
「うん」
「それで、また描きたいものが増えちゃって」
リアは困ったように笑った。
でも、全然困っている顔ではなかった。
「先生が元気になったら、また見てほしいです。でも、それまで描かずに待ってるのは、私が嫌なんです」
「……そっか」
「はい」
リアは紙を胸に抱えた。
「だから、先に描いてますね」
その言葉に、俺は何も付け足せなかった。
付け足す必要も、なかったのかもしれない。
「……うん。描いててくれ」
「はい!」
リアが笑う。
それは、俺に許可をもらった笑顔ではない。
自分のしたいことを、自分で決めた人の顔だった。
*
夜。
部屋へ戻った俺は、《タクミ・ブレイザー》を机のそばに置いた。
鞘に納まったままの剣。
いつもなら、真っ先に手を伸ばす。
刀身に描かれたミスティアを眺め、今日あったことを報告して、最後には自分でも引くくらい長い感想を語る。
けれど、今夜も手は伸びなかった。
ミスティアの絵も、まだ飾れない。
布に包んだまま、机の端に置いてある。
「……おやすみ、ミスティア」
それだけ言った。
返事があるわけではない。
それでも、何も言わずに眠ることはできなかった。
椅子に座り、今日のことを思い返す。
リアは、描きたい顔を見つけた。
シエルは、歌いたい旋律を選んだ。
セラは、絵の中の手を実際に動かしてみた。
みんな、それぞれの好きなものに向かっていた。
俺はまだ、そこへ戻れない。
ケイスケに言われたことも、自分がしてしまったことも、何一つ消えていない。
好きなものを語る自分を、今は信じられない。
でも、今日のリアは、俺の言葉を待たなかった。
俺が黙っていても、カナエの手は少しずつ形を変えていた。
そのことを思い出すと、胸の奥が少しだけ温かくなった。
それは、俺が立ち直ったということではない。
明日になれば剣を抜ける、という予感でもない。
ただ、誰かが楽しそうに何かを作っている。
その音を、俺はまだ聞くことができる。
窓の外で、夜風が小さく鳴った。
俺は灯りを落とし、布団に入った。
自分の好きなものは、まだ遠い。
けれど、誰かの好きなものが動いていく音は、すぐそばで聞こえていた。




