好きなものが、遠くなる その2
翌朝。
目を覚ました俺は、しばらく天井を見つめていた。
眠れなかったわけじゃない。いつの間にか眠っていたらしいし、夢を見た記憶もない。
ただ、起き上がる理由が見つからなかった。
昨日までなら、目が覚めた瞬間からやりたいことが山ほどあった。
今日の市場はどうなっている?
リアの新しい絵は完成したか?
シエルの歌を聞きに来る人は増えたか?
そして何より、今日もミスティアが尊い!
それだけで布団から飛び起きられた。
「……」
俺はゆっくり身体を起こした。
机の上には、昨日のままのミスティアの絵と《タクミ・ブレイザー》。どちらも、そこにある。
「……おはよう、ミスティア」
声に出してみた。いつもの挨拶だった。
けれど、いつもなら続くはずの言葉が出てこない。
今日も尊い。今日も世界一。今日も俺の人生を照らす希望の星。
全部、本当に思っていることなのに。
口にしようとすると、喉の奥で引っかかった。
『……おはようでござる、オタクミ殿』
ゴルドスが静かに答えた。
「……おう」
それだけだった。
いつもなら、ここから剣と鞘を巻き込んだ朝の推し語りが始まる。
今日は、何も始まらなかった。
*
食堂へ下りると、みんなが朝食を取っていた。
「先生、おはようございます!」
リアが顔を上げる。
「……おはよう」
「昨日は休めましたか?」
「まあ、それなりに」
「よかったです」
リアは安心したように笑った。
その隣で、シエルが小さく手を振る。
「先生、今日も市場に行きますか?」
「……ああ、そうだな」
答えてから、アーグを見る。
「荷物、どうなった?」
「昨日遅れていた分の一部は、今日の便に回る予定だ。ただ、全部が予定どおり着くかはまだ分からない」
「……そっか」
「だから、先に届いている品だけで売り場を回すつもりだ」
「うん」
アーグが少しだけ眉をひそめた。
「……それだけか?」
「え?」
「いつもなら、『足りないなら別の企画を考えよう!』くらい言うだろ」
「……ああ」
俺は曖昧に笑った。
「今日は、アーグに任せるよ」
アーグは何か言いかけたが、結局、頷いた。
「分かった」
セラがパンをちぎりながら、こちらを見ている。
俺は目をそらした。
気を遣われている。それが分かる。分かるから、余計に居心地が悪かった。
「先生!」
リアが一枚の紙を差し出した。
「昨日、少し描き直してみたんです」
「……何を?」
「カナエです!」
紙には、リアが生み出したオリジナルキャラクター、カナエが描かれていた。
前に見たものと、少し表情が違う。目元が柔らかくなっていて、何かを見つけたように微笑んでいる。
「お客さんから、こういう表情も見てみたいって言われたんです。だから、試してみました」
「……へえ」
「どうでしょう?」
リアの目が輝いていた。
俺は絵を見た。
丁寧な線。工夫された表情。描いた本人が、きっと何度も見直したのだろうと思える仕上がりだった。
いい絵だ。そう思った。
なのに。
――ただ、見てほしかった。
ケイスケの声が浮かんだ。
「……先生?」
リアが首を傾げる。
「……ああ、いいと思う」
俺は答えた。
「すごく、いい絵だよ」
嘘じゃない。
でも、リアの表情が少し曇った。
「……そうですか」
「うん」
「……どこが、よかったですか?」
胸が詰まった。
どこが。
いつもなら、いくらでも言えた。
線の強弱。表情の変化。前の絵からどんな工夫が加わったか。何より、リアが自分で考えて描いたことの素晴らしさ。
語り始めれば、朝食が冷めるくらい話していたはずだ。
それなのに、今は言葉を探すことさえ怖かった。
俺が何かを言えば、リアはその言葉を気にするかもしれない。俺が褒めた部分ばかりを伸ばそうとするかもしれない。俺が気づかなかった部分を、大切にしていたかもしれない。
「……ごめん」
気づけば、謝っていた。
リアが目を丸くする。
「え?」
「今、うまく言えない」
「……先生」
「絵が悪いんじゃないんだ。俺が……」
そこまで言って、口を閉じた。
俺が、何だ?
疲れている? 落ち込んでいる? ケイスケに会ったせいで、何も考えられない?
そんなことを言えば、リアは自分の絵を見せたことまで悪かったと思ってしまうかもしれない。
「……少し、考えさせてくれ」
俺は絵を返した。
リアは両手で受け取った。
「……はい」
その声が、思っていたより小さかった。
*
市場へ出ても、何も変わらなかった。
いや。変わらなかったのは、市場の方だ。
売り声が響く。荷車が通る。人が立ち止まり、商品を眺め、値段を聞く。
いつもと同じ王都の朝だった。
「先生!」
通りの向こうから声がした。
以前、俺たちの売り場に来てくれた客だった。
「今日も何か新しいもの、ありますか?」
「あ、ああ……」
俺は立ち止まった。
新しいもの。ある。
リアの絵もあるし、シエルの歌もある。カナエのことだって、まだ知らない人がいる。
いつもなら、ここで両手を広げていた。
『よくぞ聞いてくれました! 本日のおすすめはこちら!』
そんな調子で。
「……あっちの売り場に、いろいろあるよ」
俺は指をさした。
客は少し驚いたようだった。
「先生は、今日は紹介しないんですか?」
「……うん。今日は、みんなに任せてる」
「そうなんですね」
客は軽く頭を下げて、売り場の方へ歩いていった。
俺は、その背中を見送った。
別に、悪いことをしたわけじゃない。売り場の場所は伝えた。客は自分で見に行ける。それで十分なはずだ。
なのに、胸の奥が、空っぽになったようだった。
「……オタクミ」
隣にいたセラが声をかけた。
「無理して来なくてもよかったのよ」
「……分かってる」
「じゃあ、何で来たの?」
俺は答えられなかった。
部屋にいるのが嫌だった。ミスティアの絵を見ていると、ケイスケを思い出す。
でも、市場に来れば、いつもの自分に戻れる気がした。
誰かに好きなものを紹介して。相手が笑ってくれて。俺も笑う。
そうすれば、昨日のことを少しは忘れられると思った。
「……戻れると思ったんだ」
気づけば、そう言っていた。
「何に?」
「……いつもの俺に」
セラは何も言わなかった。
「でも、駄目だった」
俺は笑おうとした。うまくいかなかった。
「……何か言おうとするとさ」
「うん」
「その言葉で、誰かが傷つくかもしれないって思うんだ」
セラが俺を見る。
「俺が好きだって言えば、相手は合わせてくれるかもしれない。俺が褒めたら、そこばっかり気にするかもしれない。俺が何かを薦めたら、断りにくいかもしれない」
「……」
「だったら、何も言わない方がいいんじゃないかって」
セラはしばらく黙っていた。
そして、俺の額を指で弾いた。
「痛っ!?」
「……あんたね」
「な、何だよ!」
「それ、相手のこと考えてるようで、また勝手に決めてない?」
俺は固まった。
「……え?」
「リアが絵を見せたのは、あんたの感想を聞きたかったからでしょ」
「……うん」
「それを聞いてどうするかは、リアが決めることじゃないの?」
「……」
「傷つくかもしれない。影響されるかもしれない。だから何も言わない。そうやって、あんたが先に全部決めたら、相手は何も選べないじゃない」
俺は口を開いた。反論できなかった。
「……でも、俺は」
「分かってる」
セラの声が少し柔らかくなった。
「怖いんでしょ」
その一言で、胸の奥が揺れた。
怖い。そうだ。俺は、怖かった。
また誰かを傷つけることが。大切にしているものを、知らないうちに踏みにじることが。
そして何より、自分が楽しく笑っている間に、誰かが傷ついているかもしれないことが。
「……怖いよ」
声が震えた。
「めちゃくちゃ怖い」
セラは、何も言わなかった。ただ、俺の隣に立っていた。
*
その日の午後、俺は売り場の隅に座っていた。
シエルの歌が聞こえる。人々が足を止め、耳を傾けている。リアの絵を見て、何かを話している客もいる。
アーグは商人と荷物の相談をしていた。セラは、売り場の前で子供に話しかけられている。
みんな、動いている。俺が何もしなくても。
それは、いいことのはずだった。
俺が全部を決めなくても、みんなが自分の好きなことを続けられる。俺が望んでいた形だ。
なのに、今の俺には、その輪の中へ戻る勇気がなかった。
「……先生」
顔を上げると、リアが立っていた。
手には、朝のカナエの絵がある。
「……リア」
「もう一度、見てもらってもいいですか?」
俺は息を止めた。
「……でも」
「先生」
リアは、まっすぐ俺を見た。
「私、先生に褒めてもらいたくて描いてるわけじゃないです」
胸が痛んだ。
「……うん」
「もちろん、褒めてもらえたら嬉しいです。でも、違うと思ったところがあったら、それも聞きたいです」
「……」
「先生がどう思うかを聞いて、どうするかは私が決めます」
セラの言葉が、頭の中で重なった。
俺は、ゆっくり絵を受け取った。
カナエが笑っている。朝と同じ絵だ。でも、今度は逃げずに見た。
「……この表情」
「はい」
「前の絵より、少しだけ目元が柔らかい」
リアが頷く。
「はい。そこを変えました」
「……いいな」
俺は小さく笑った。
「何かを見つけて、嬉しくなったみたいに見える」
リアの顔が明るくなった。
「そうなんです! そういう感じにしたかったんです!」
「……そっか」
俺は絵を見つめた。
「あと……これは俺の好みなんだけど」
「はい」
「口元をもう少し控えめにしたら、別の雰囲気にもなるかもしれない。でも、今の表情も好きだ」
リアは少し考えた。
「……なるほど」
俺は慌てて付け加えた。
「いや、別に直せって意味じゃなくて!」
「分かってます」
リアは笑った。
「先生の感想ですよね」
「……ああ」
「ありがとうございます」
リアは絵を受け取った。
「でも、今回はこのままにします」
「……そっか」
「はい。私、この笑い方が好きなので」
俺は、その言葉を聞いた。
好きなので。
たったそれだけの言葉だった。
なのに、胸の奥で何かが動いた。
「……いいと思う」
今度は、ちゃんと言えた。
「リアが好きなら、それが一番だ」
リアは嬉しそうに頷き、売り場へ戻っていった。
俺は、その背中を見送った。
少しだけ、息がしやすくなった。
*
夕方。
売り場を片づけるころ、シエルが俺の隣に座った。
「先生、今日は静かでしたね」
「……そうだな」
「でも、リアの絵は見られたんですね」
「ああ」
「よかったです」
シエルは小さく微笑んだ。
「……なあ、シエル」
「はい?」
「俺、また前みたいに騒げるかな」
シエルは少し考えた。
「……分かりません」
意外な答えだった。
「え?」
「でも、前と同じじゃなくてもいいと思います」
「……同じじゃなくても?」
「はい」
シエルは、片づけの終わった売り場を見渡した。
「先生が静かな日でも、歌を聞いてくれる人はいました。リアの絵を好きだと言ってくれる人もいました」
「……ああ」
「先生が元気になったら、また一緒に喜べたら嬉しいです。でも、今すぐじゃなくても大丈夫です」
俺は、しばらく何も言えなかった。
「……ありがとな」
「どういたしまして」
シエルは立ち上がり、ほかの荷物を運びに行った。
俺は夕暮れの市場を見つめた。
まだ、ケイスケのことを考えると胸が痛む。
事故のことも、ゴルドスのことも、分からないままだ。
あいつが俺を許す日が来るのかも分からない。
明日になれば全部元どおり。そんな都合のいいことは、きっと起きない。
それでも。
リアは、自分の好きな表情を選んだ。シエルは、自分の歌を歌った。セラは、俺に言いたいことを言った。アーグは、俺が黙っていても仕事を進めてくれた。
俺が何も決めなくても、みんなにはそれぞれの好きなものがある。
そして俺にも、まだ好きなものがある。
「……ミスティア」
小さく名前を呼んだ。
昨日より、少しだけ自然に声が出た。
でも、そこで止めた。
今は、それでよかった。
*
宿へ戻ると、机の上には朝と同じようにミスティアの絵があった。
俺は椅子に座り、しばらく眺めた。
青白い光。星の意匠。まっすぐ前を向く姿。
好きだ。やっぱり、好きだ。
けれど、その気持ちを言葉にしようとすると、まだ少し苦しくなる。
「……なあ、ゴルドス」
『……うむ』
「俺、まだお前に聞きたいことがある」
『承知しておる』
「……でも、今日はもう無理だ」
『……そうか』
「逃げてるって、思うか?」
少しの沈黙。
『拙者には、そうは思えぬ』
「……そっか」
『ただ、聞かねばならぬことは、いずれ聞かねばならぬのであろうな』
「……ああ」
俺は頷いた。
「分かってる」
机の上の絵へ、もう一度目を向ける。
ケイスケに、また会わなければいけない。あいつが今何を考えているのか、聞かなければいけない。
でも、その前に。
俺は、自分が何を好きで、何を守りたいのか、もう一度考えたかった。
「……好きなものを好きって言うの、難しいな」
『……そうでござるな』
「前は、こんなこと考えなかったのに」
『考えるようになったのであれば、それもまた変化でござろう』
「……成長ってやつ?」
『さて。それを決めるのは、まだ早いかもしれぬ』
「厳しいな、お前」
『拙者は、甘い言葉だけを申す鞘ではござらぬゆえ』
少しだけ笑った。
本当に、少しだけ。
けれど、それは昨日から初めて、無理に作らずに出た笑いだった。
俺はミスティアの絵を手に取った。
いつもの場所に飾る。
それだけのことに、少し時間がかかった。
でも、飾れた。
「……おやすみ、ミスティア」
今夜は、それだけにした。
明日、また好きだと言えるかもしれない。言えないかもしれない。
それでも、俺の好きだったものが、消えたわけじゃない。
ただ、今は少し遠くにある。
俺は灯りを消した。
暗くなった部屋の中で、机の上の絵だけが、窓から差し込む月明かりを受けていた。
俺は目を閉じた。
まだ、何も解決していない。
それでも明日は来る。
そして、俺はきっとまた、誰かの好きなものに出会う。
そのときは。
今度こそ、ちゃんと見たいと思った。




