好きなものが、遠くなる その1
宿へ戻ってから、俺は一度も《タクミ・ブレイザー》を抜かなかった。
普段なら、部屋に入った瞬間に鞘から抜いて、刀身の輝きを眺めながらミスティアの決め台詞を唱えているところだ。
それが俺の日課だった。
いや、日課なんて生ぬるいものじゃない。
推しへの感謝を忘れないための、神聖なる儀式!
……だったはずなのに。
「……」
腰から外した剣を、机の上に置く。
いつもと同じ剣。いつもと同じ鞘。
なのに、手が伸びなかった。
『……オタクミ殿』
ゴルドスの声がした。
「……何だよ」
『聞きたいことが、あるのでござろう』
俺は黙った。
ある。山ほどある。
事故の相手がケイスケだったこと。
あいつが、自分は死んだと信じていること。
そして、ゴルドスが俺に話していないこと。
「……なあ」
『うむ』
「お前、事故の相手がケイスケだって、知ってたのか?」
返事がない。
「……ゴルドス?」
『拙者は、あの事故について、貴殿に伝えておらぬことがある』
胸の奥が冷たくなった。
「……それって、何だよ」
『……』
「俺、ずっと気になってたんだぞ。あの事故で誰かを傷つけたんじゃないかって。でも、お前が生きてるって言ったから……!」
『それは、偽りではない』
「だったら!」
机に置いた手に力が入った。
「だったら、何でケイスケは自分が死んだなんて言うんだよ! お前は何を知ってるんだよ!」
沈黙。
俺は唇を噛んだ。
ゴルドスは、いつもふざけたことを言う。俺も、いつもふざけて返す。くだらない言い合いをして、笑って、それで何となく話が終わる。
でも、今日は笑えなかった。
『……すまぬ』
小さな声だった。
「……謝るだけかよ」
『今、確かなこととして告げられぬ話を、軽々しく口にするべきではないと思うておる』
「……そうかよ」
俺は椅子に座った。
それ以上、何も言えなかった。
ゴルドスがいつ、何を知ったのか。どうして話せないのか。
聞きたいことは増えたのに、答えは一つも増えなかった。
*
夕方になって、セラが部屋を訪ねてきた。
「……入るわよ」
「もう入ってるじゃねえか」
「返事がなかったから」
「……そうか」
セラは机の上を見た。
そこには、昼から動かしていない《タクミ・ブレイザー》が置いてある。
「珍しいわね」
「何が?」
「剣を眺めてない」
「……そんな日もあるだろ」
「あるの?」
「……」
ない。
少なくとも、俺がこの世界へ来てからは。
セラはそれ以上からかわなかった。代わりに、椅子を引いて俺の向かいに座る。
「アーグが、明日の荷物の確認をしてるわ」
「……ああ」
「リアとシエルも手伝ってる」
「……うん」
「オタクミ」
「何だよ」
「今日は、何もしなくていいから」
俺は顔を上げた。
「……でも」
「でも?」
「俺が何もしなかったら、困る人がいるだろ」
「いるかもしれないわね」
セラはあっさり答えた。
「でも、あんたが全部やらなきゃいけないわけじゃない」
「……」
「アーグは商売のことを考えられる。リアは絵を描ける。シエルは歌える。私だって、少しくらいは役に立てる」
「少しくらいって……お前、めちゃくちゃ助けてくれてるだろ」
「だったら、任せなさいよ」
言い返せなかった。
セラは机の端に置いてあった紙を手に取った。
リアが以前描いてくれた、ミスティアの絵だった。
「これ、どうする?」
「……何が?」
「飾らないの?」
俺は絵を見た。
青白い光。星を思わせる衣装。まっすぐ前を見つめる、ミスティアの姿。
いつもなら、見ただけで胸が高鳴る。
尊い。最高。やっぱり俺の推しは世界一!
そんな言葉が、勝手に口から飛び出していたはずだった。
でも。
「……今は、いい」
セラの手が止まった。
「……そう」
それだけ言って、絵を元の場所へ戻した。
俺は、その絵を見つめた。
好きじゃなくなったわけじゃない。そんなはずはない。ミスティアは、今でも俺の大切な推しだ。
なのに、見ていると別のものを思い出す。
眼の大きなキャラクター。ケイスケが大切にしていた絵。それを見て笑った、昔の俺。
「……なあ、セラ」
「何?」
「俺、ずっと好きなものを広めたかったんだ」
「知ってる」
「でもさ……」
言葉が詰まった。
「俺、誰かの好きなものをちゃんと見てたのかな」
セラは、すぐには答えなかった。
「……全部は見られないでしょ」
「……え?」
「この街にどれだけ人がいると思ってるのよ。好きなものなんて、人の数だけあるんだから」
「……そうだけど」
「でも、あんたは見ようとしてた」
俺は俯いた。
「……昔は、見てなかった」
「昔のことは、私には分からない」
セラは静かに言った。
「でも、今のあんたが誰かの話を聞こうとしてるのは、知ってる」
「……」
「それで全部許されるとは思わないけどね」
俺は顔を上げた。
セラは、いつものように少しだけ笑っていた。
「そんな簡単に済むなら、誰も苦労しないでしょ」
「……そうだな」
「だから、今日は休みなさい」
セラは立ち上がった。
「明日になったら、また考えればいいわ」
扉へ向かいかけて、振り返る。
「それと」
「……何だ?」
「好きなものを見ても元気が出ない日くらい、あってもいいんじゃない?」
俺は何も答えられなかった。
セラが出ていったあと、部屋は静かになった。
机の上には、ミスティアの絵。その隣には、《タクミ・ブレイザー》。俺は、しばらく二つを見つめていた。
*
夜。
窓の外から、王都のざわめきが聞こえてくる。
市場は、今日も動いている。
誰かが商品を売り、誰かが買い、誰かが好きなものを見つけている。
その中に、ケイスケもいる。
あいつは今、何をしているんだろう。
帳簿を見ているのか。部下に指示を出しているのか。
それとも、昔みたいに、何か好きな作品を眺めているのか。
「……ケイスケ」
名前を呼んでも、返事はない。当たり前だ。
俺は机の上の絵へ手を伸ばした。
指先が、紙の端に触れる。
ミスティアは、いつもどおり笑っていた。
何も変わっていない。
変わったのは、俺の方だ。
「……好きなんだけどな」
小さく呟いた。
「今でも、めちゃくちゃ好きなんだけど……」
どうしてだろう。
好きなものを見ているのに、苦しい。
推しの魅力を語ろうとすると、ケイスケの声が聞こえてくる。
――ただ、見てほしかった。
俺は、絵から手を離した。
今なら、あいつの気持ちが全部分かる。そんなことは言えない。分かったつもりになるのが、一番怖かった。
それでも、もう一度、話したかった。
許してもらうためだけじゃない。昔の関係に戻るためだけでもない。
今のケイスケが何を好きなのか。どうして、あんなやり方を選んだのか。何を守ろうとしているのか。
ちゃんと聞きたかった。
でも、次に会っても、あいつは敵だと言った。
俺は窓の外を見た。
王都の明かりが、遠くに滲んでいる。
「……なあ、ミスティア」
絵の中の推しへ、小さく問いかける。
「好きなものってさ……こんなに苦しいものだったっけ」
もちろん、答えは返ってこなかった。
俺は絵を伏せなかった。ただ、いつものように飾ることもできなかった。
そのまま、机の上に置いておいた。
明日、もう一度見たら、少しは違って見えるだろうか。
そんなことを考えながら、俺は長い夜を過ごした。




