転売
完売の余韻に浸れたのは、思っていたより短かった。
百冊すべてが誰かの手に渡った。
リアはまだその事実が信じられないらしく、何度も空になった箱を見ては小さく笑っていたし、俺も「初版完売」という言葉の響きを頭の中で転がしていた。
初版。
完売。
増刷待ったなし。
なんて甘美な響きだろう。
「先生、さっきから顔が怖いです」
「失礼な。喜びを噛み締めてる顔だ」
「笑ってないです」
「オタクは感情が限界を超えると無表情になる時があるんだよ」
「そうなんですか?」
「個人差があります」
適当なことを言いながら街を歩いていた、その時だった。
「……ん?」
見覚えのある絵が視界に入った。
露店の片隅。
古道具や本が雑多に置かれた台の上に、小さな冊子が一冊載っている。
表紙にはリアの描いたミスティア。
間違いない。
この前、俺たちが売った本だ。
「リア」
俺が足を止めると、リアも気づいた。
「あれ……」
「だよな」
売った本を中古で見かける。
それ自体は、別におかしくない。
買ったものをどうするかは買った人の自由だし、読み終わって別の誰かへ渡すことだってある。
俺だって現実世界で中古ショップを使ったことくらいある。
問題は、その横に置かれていた札だった。
俺は値段を見た。
もう一回見た。
目を擦ってから、三回目を見た。
「…………高くない?」
リアも札を見る。
「私たちが売った時より……」
「高い」
しかも、ちょっとじゃない。
明らかに高い。
俺は露店の主人へ聞いた。
「これ、どうしたんですか?」
「ああ、それか。今人気なんだろ?」
主人は特に悪びれる様子もなく答えた。
「持ち込まれたんだよ。もう売り切れて手に入らないから、高くても欲しがる奴がいるって」
嫌な予感がした。
「持ち込んだ人は?」
「知らんよ。仕入れた奴とは別だからな」
「別?」
「何人か間に入ってるみたいだな」
俺とリアは顔を見合わせた。
一冊だけなら、偶然かもしれない。
だが販売の日、最後に数冊が妙な動きをしていた。
売った人から、別の人へ。
そこからさらに別の場所へ。
そして今、値段だけが上がっている。
「……これが転売か」
腰の鞘からゴルドスの声がした。
『てんばい?』
「買ったものを、別の人に売ること自体は普通なんだけどな」
俺は冊子を見る。
「最初から高く売るために買う奴がいるんだよ。欲しい人より先に押さえて、品薄になったところで値段を上げる」
『なるほど。商売ではないのか?』
「そこがややこしい」
俺は頭を掻いた。
仕入れて売る。
言葉だけなら商売と同じだ。
安く買って高く売ること自体を全部悪だと言ったら、街の商人まで否定することになる。
問題はそこじゃない。
「俺たちは、欲しい人に届けたくて一人一冊にしたんだよ」
リアが小さく頷く。
販売の日のガルドだって二冊欲しがったが、一人一冊と聞けば素直に引き下がった。
それでも百冊すべてが売れた。
なのに、その一部を最初から「もっと高く売れる物」として見ていた人間がいた。
「先生」
リアが不安そうに冊子を見た。
「私たち、安くしすぎたんでしょうか」
その言葉に、俺は一瞬詰まった。
安かったから買われた。
売り切れたから値段が上がった。
だったら最初から高くすれば――。
いや。
「それは違うと思う」
「でも、この値段でも欲しい人がいるなら……」
「いるかもしれない」
実際、露店に置かれている以上、この価格でも買う人間がいると踏まれている。
「でも俺たちが見たかったのって、『どこまで高く売れるか』じゃなかっただろ」
リアが俺を見る。
「リアの絵を見て、欲しいと思ってくれる人がいるか。それを見たかった」
「……はい」
「だから値段を上げれば解決、ではないと思う」
とは言ったものの。
じゃあどうする。
俺は転売対策の専門家じゃない。
現実世界だって限定グッズが出るたびに転売対策と転売側のいたちごっこだった。
購入数制限。
受注生産。
再販。
本人確認。
抽選。
いろんな手段があったけど、この世界で全部そのまま使えるわけでもない。
「増やす?」
リアが言った。
「本を、もっと作れば……」
「それはありだな」
欲しい人全員に行き渡るくらい作れば、わざわざ高値で買う意味は薄くなる。
だが、すぐに大量に作れるのか。
材料も、人手も、時間もいる。
百冊だから早くできたものが、千冊、一万冊になれば話は変わる。
「人気出るって、嬉しいだけじゃないんだな……」
俺がぼやいた時だった。
背後から、聞き覚えのある大声が響いた。
「その値段はなんだぁぁぁ!」
出た。
ガルドだった。
あの日買った本を今日も大事そうに抱えている。
持ち歩いてるのかよ。
「販売時の三倍ではないか!」
露店の主人が眉をひそめる。
「欲しい奴がいるからこの値段なんだよ」
「なら販売の日に並べ!」
「その日に買えなかった奴もいるだろうが」
「なら次を待て!」
「次が出るって誰が決めた」
ガルドが止まった。
俺も止まった。
リアも止まった。
そうだ。
次があるとは、まだ誰も言っていない。
俺たち自身も決めていない。
完売した。
そこで喜んで終わっていた。
だから「もう手に入らない」と思った人間が、高くても欲しがる。
そこへ、高く売れると考えた人間が入ってくる。
「……なるほどな」
俺が呟くと、ガルドが振り向いた。
「オタクミ!」
「声でかい」
「これはどういうことだ!」
「俺が聞きたいよ!」
ガルドは自分の一冊を両腕で抱え込んだ。
「これは売らんぞ」
「誰も売れって言ってない」
「五倍でも売らん!」
「聞いてない」
「十倍でもだ!」
「だから聞いてない!」
隣でリアが笑いをこらえている。
でも、その表情は少しだけ明るくなっていた。
ガルドは本を値札として見ていない。
自分で並んで、自分で買って、大事そうに抱えている。
その一冊の価値は、露店の値段とは別のところにある。
俺は再び高値のついた冊子を見る。
腹は立つ。
ものすごく腹は立つ。
でも、怒鳴って終わりでは何も変わらない。
「リア」
「はい」
「もう一回、考えよう」
「何をですか?」
「欲しい人に届く方法」
増やすのか。
売り方を変えるのか。
一人一冊だけでは足りないのか。
今すぐ答えは出ない。
ただ一つ分かった。
作って、売れて、喜んで終わりじゃない。
人気が出れば、それを欲しがる人が増える。
欲しい人が増えれば、その間に入り込む人間も出てくる。
百冊全部が誰かへ届いたことだけで嬉しかった。
今、その「届く」の途中にも問題があると知った。
「次は、こいつらに好き勝手させない」
俺が言うと、リアが少し困ったように笑った。
「先生、顔が怖いです」
「今度は喜んでる顔じゃない」
「それは分かります」
ガルドが横から力強く頷く。
「俺も分かる!」
「お前はまず声量を下げろ」
俺たちの最初の完売は、最初の市場問題まで連れてきた。




