完売御礼!
「売ってみる?」
俺がそう言った時、リアはしばらく目を丸くしていた。
自分の絵を誰かに見せる。その一歩だけでも大きかったのに、そこへいきなり「売る」が追加されたのだから無理もない。
とはいえ、原画一枚をそのまま売って終わりでは面白くない。
せっかくなら何人かに見てもらいたい。リアも「別の顔を描いてみたい」と言っていたし、だったら何枚か描いて、それを一つにまとめてみればいい。
そんな話から始まって、刊行準備は思ったより早く進んだ。
リアが描いたのは三パターンのミスティアだった。
一枚目は、俺が最初に見せたミスティアに近い凛々しい表情。
二枚目は、少し柔らかく笑っている。
そして三枚目は、横を向いて何かを見ている姿だった。
「尊い」
俺は三枚を机へ並べたまま、しばらく動けなかった。
「先生、それ、さっきから五回目です」
「五回で済んでると思う?」
「済んでないんですか?」
「心の中では二十七回くらい言ってる」
「多いです」
リアは呆れながらも、少し嬉しそうだった。
結局、その三枚をまとめた小さな本を作ることになった。
豪華なものではない。
まずは百部。
試験的に作って、街の人へ見せてみる。
欲しい人がいなければ、それまで。
俺は当然全部買い占める覚悟だったが、
「先生が全部買ったら意味がありません」
とリアから禁止された。
正論である。
「じゃあ九十九冊」
「駄目です」
「九十八」
「減らせばいい話じゃありません」
厳しい。
発売――というほど大げさなものでもないが、本を並べる日。
俺は朝から落ち着かなかった。
リアなんてもっと落ち着いていない。
「誰も来なかったらどうしましょう」
「その時は俺が」
「買い占めるのは禁止です」
先に潰された。
「じゃあ布教する」
「それは……ほどほどでお願いします」
ほどほど。
オタクに一番難しい注文である。
店先に並べられた小さな本を、通りを行く人たちがちらちら見る。
最初は通り過ぎるだけだった。
それが、一人。
足を止めた。
本を手に取る。
頁をめくる。
「この女の子は?」
来た。
俺の出番だ。
「よくぞ聞いてくれました!」
「先生、近いです」
リアに袖を引かれた。
危ない。
布教開始三秒で距離感を失った。
俺は咳払いして、一歩下がる。
「ミスティア・ルミナス。俺の推しです」
「おし?」
「めちゃくちゃ好きなキャラクターって意味です」
客はよく分かっていない顔をしながら、もう一度本へ目を落とした。
そして二枚目のミスティアで手を止める。
「こっちの顔、好きだな」
俺ではなく、リアが反応した。
「……本当ですか?」
「ああ。なんか優しそうだ」
その人は本を一冊買っていった。
リアはしばらく、その背中を見ていた。
「売れたな」
「……売れました」
「リアの絵が」
「はい」
「知らない人に」
「はい……!」
その後、二人目が来た。
三人目も。
少しずつ人が止まるようになった。
中には、俺と同じ凛々しいミスティアを気に入る人もいる。
柔らかく笑う顔を選ぶ人もいる。
三枚目を見て、
「この子、何見てるんだろう」
と長いこと眺めている人までいた。
面白い。
同じ三枚なのに、止まる場所が違う。
俺が全部説明しなくても、勝手に好きな一枚を見つけていく。
その時だった。
人だかりの後ろから、妙に通る声がした。
「まだあるか!?」
誰だ。
振り向くと、体格のいい男が人の隙間から顔を出していた。
知らない。
いや。
昨日も見た気がする。
魔導書製作所の近くで。
その前にもラザリスの通りで見たような。
「ガルドだ」
近くの誰かがぼそっと言った。
「昨日、告知の掲示板の前にずっと立ってたぞ」
何してんだこの人。
ガルドは人を押しのけたりはせず、ちゃんと列の最後尾へ回った。
ただし存在感だけはやたら強い。
腕を組み、仁王立ちしながら、列が一人進むたびに自分も一歩進む。
妙に真剣だった。
「……あの人、知り合いですか?」
リアが小声で聞く。
「いや」
俺は首を横に振った。
「でも、たぶん同志の匂いがする」
「匂いで分かるんですか?」
「分かる時がある」
やがて順番が来た。
ガルドは本を一冊手に取ると、最初の頁から最後まで無言で読んだ。
そして閉じる。
「一冊」
「ありがとうございます」
リアが渡そうとすると、ガルドは少し考えた。
「……二冊は?」
「一人一冊でお願いします」
「そうか」
引き下がるの早っ。
もっと食い下がるタイプかと思った。
ところが金を払い、本を受け取った瞬間。
ガルドは両手でそれを持ち上げた。
「買えた!」
声でかっ。
列の全員が見る。
本人は気にしていない。
「昨日から待った甲斐があった!」
「掲示板の前にいたの、やっぱりあんたかよ!」
誰かが突っ込んだ。
「当然だ! いつ売るか分からんものを見逃したらどうする!」
「日時書いてあっただろ!」
「念のためだ!」
何の念だよ。
ガルドは満足そうに本を抱えると、そのまま去っていった。
俺は遠ざかる背中を見ながら呟く。
「濃いな……」
「先生が言います?」
リアの一言が刺さった。
否定できない。
それからも本は少しずつ減っていった。
十冊。
二十冊。
半分。
気づけば残りは十冊を切っている。
リアは何度も数え直していた。
「先生」
「うん」
「あと三冊です」
「うん」
二冊。
一冊。
そして最後の一冊を、一人の女の子が手に取った。
頁をめくり、しばらく迷ってからお金を出す。
本が渡る。
机の上が空になった。
一瞬、俺もリアも何も言えなかった。
「……ない」
リアが言った。
「ないな」
「本当に?」
机の下を見る。
箱を見る。
もう一度机を見る。
ない。
百部全部。
「完売だ!」
俺が叫ぶと、リアがびくっと肩を揺らした。
その直後、笑った。
けれど笑ったまま、目の端に涙が浮かんだ。
「お、おい」
「違います」
「何が?」
「泣いてません」
「いや泣いてるだろ」
「泣いてません」
涙を拭きながら言われても説得力がない。
「……百人も」
リアが空になった机を見る。
「私の描いたものを、持って帰ってくれたんですね」
「そうだな」
俺はそれ以上、余計なことを言わなかった。
凄いだろ、とも。
これが正解だ、とも。
だって、買った人たちがどのミスティアを一番好きだったのか、俺には分からない。
俺とは違う絵を選んだ人もいた。
でも、持って帰った。
それだけで今は十分だった。
腰の鞘から、ゴルドスの声がした。
『今日はずいぶん満ちておるな、尊輝が』
「そりゃそうだろ」
俺は空になった机を見る。
「目の前で百冊届いたんだぞ」
『貴殿の本ではないがな』
「リアの本だからいいんだよ」
「先生」
リアが少し笑った。
その日の夕方。
百部すべてが、それぞれ誰かの手に渡った――はずだった。
けれど、そのうち三冊だけは、買った本人の手元には残らなかった。
一冊が別の誰かへ渡り。
もう一冊にも値段がつき。
最後の一冊は、俺たちが売った時より高い金額で取引された。
俺たちがそれを知るのは、もう少し後のことだった。




