絵師長ハルド
魔導書製作所の奥から出てきた男を見た瞬間、俺はなんとなく背筋を伸ばした。
年齢までは分からない。けれど、周囲の職人たちが自然に道を空けたことで、この人が偉い立場なのはすぐ分かった。
リアも姿勢を正す。
「ハルド絵師長」
なるほど。
この人が絵師長ハルドか。
ハルドは俺たちを見るより先に、机の上へ置かれた一枚の紙を見た。
リアが描いたミスティアだ。
「これは誰が描いた」
低い声だった。
怒っているのかと思ってリアを見ると、本人も少し緊張している。
「わ、私です」
「そうか」
ハルドは紙を持ち上げた。
じっと見る。
俺もつられて黙った。
こういう時、横から「めちゃくちゃ良くないですか!?」と布教したくなるのが俺だが、さすがに今は我慢した。
ハルドの目は、俺が絵を見る時とはまるで違った。
線の一本一本を追う。
顔を見る。
服を見る。
また顔へ戻る。
長い。
「……あの」
耐えきれなくなったのはリアだった。
「どう、でしょうか」
ハルドはすぐには答えなかった。
「線は甘い」
「はい」
「形も崩れている。装飾として使うなら、整えなければならん箇所も多い」
リアの肩が少し下がった。
俺は危うく口を挟みそうになったが、そこでハルドが続けた。
「だが、妙だな」
「妙?」
俺が聞き返す。
ハルドはこちらを見た。
「お前は誰だ」
「オタクミです」
「そうか」
終わった。
興味薄っ。
ハルドはまた絵へ目を戻した。
「この人物は実在するのか?」
「いや、キャラクターです」
「きゃらくたー?」
「えーと……物語に出てくる人物、みたいな感じです。ミスティア・ルミナスっていう俺の推し」
「推し」
そこから説明するのか。
俺が気合を入れたところで、リアが小さく言った。
「先生が、とても大切にしている人です」
「人ではないけど大体合ってる」
ハルドはしばらく俺とリアを見比べ、それからもう一度ミスティアへ視線を落とした。
「なるほど」
何がなるほどなのかは分からない。
「この絵は、魔導書には使いにくい」
リアの表情が曇った。
「……はい」
「魔物の特徴を伝えるための図でもない。薬草を見分けるための絵でもない。文字を引き立てる飾りとしても、主張が強すぎる」
俺は思わず頷いた。
それは分かる。
ミスティアを頁の隅へ添えて、本文の邪魔にならないよう控えめに――とか言われても、俺なら「もっとデカく!」と言う。
たぶんリアの絵も同じだ。
ハルドは紙を机へ置いた。
「だが」
また、そこで言葉を切った。
「見てしまう」
リアが顔を上げる。
「え?」
「この人物の顔をだ」
ハルドは指先で、ミスティアの顔の近くを示した。
「魔導書の絵なら、必要な箇所へ目を導けばよい。図なら形が分かればいい。飾りなら文字を邪魔せず、全体を整えればいい」
淡々とした口調だった。
でも、否定しているようには聞こえなかった。
「これは違う。何に使う絵なのか、儂にはまだ分からん。だが、気づけば顔を見ている」
俺は思わずリアを見る。
リアも驚いた顔をしていた。
「それって」
俺が口を挟むと、ハルドの眉が動いた。
「何だ」
「いいってことですか?」
「勝手に一言へまとめるな」
「すみません」
怖い。
いや、怖いというより職人気質だ。
ハルドは腕を組んだ。
「絵には役目がある。少なくとも、儂はそう教わってきた」
リアは黙って聞いている。
「読ませるための絵。伝えるための絵。飾るための絵。どれも、役目を果たせなければ仕事にはならん」
そう言ってから、ハルドはもう一度ミスティアを見る。
「だから、分からんのだ。この絵が何の役に立つのか」
「好きになる役に立ちます」
俺は即答した。
ハルドがこちらを見る。
リアもこちらを見る。
しまった。
勢いで言った。
でも撤回する気はなかった。
「そのキャラを見て、いいなって思ったり、もっと見たいって思ったり。そういうための絵です」
「お前がそう思うのか」
「俺はもう推してます」
「それは聞いていない」
「はい」
ハルドが少しだけ目を細めた。
「なら、お前以外もそう思うのか?」
そこで俺は止まった。
「……それは」
分からない。
俺にはミスティアが尊い。
リアの描いたミスティアも好きだ。
でも、それを見た全員が同じように感じる保証なんてない。
「分かりません」
答えたのはリアだった。
俺より先だった。
ハルドが彼女を見る。
「でも、私は……描いている時、ルミナスさんをもっと見たくなりました」
「描いているお前自身が?」
「はい」
リアは自分の絵を見た。
「先生が見せてくれたルミナスさんと、私に見えたルミナスさんは少し違っていて。それを描いてみたら、別の顔も描いてみたくなって」
ハルドは何も言わない。
リアは少し不安そうになりながらも、続けた。
「役に立つかは、まだ分かりません。でも……描きたいとは思います」
しばらく沈黙が続いた。
製作所の別の場所では職人たちが作業を続けている。紙をめくる音と、筆が走る小さな音だけが聞こえた。
やがてハルドが息を吐いた。
「なら、描け」
リアが目を瞬いた。
「……いいんですか?」
「描くことまで儂の許可が必要なのか?」
「い、いえ」
「なら描け。役に立つかどうかは、その後だ」
俺は思わず笑った。
この人、かなり職人だ。
「いいこと言いますね、絵師長」
「お前は少し黙れ」
「はい」
二回目である。
リアは嬉しそうに紙を抱えた。
けれど、ハルドはそこで終わらなかった。
「ただし、勘違いするな」
「はい」
「新しいから価値があるわけではない。珍しいから良いわけでもない。儂らが長く使ってきた描き方にも、それぞれ理由がある」
リアの表情が引き締まる。
「はい」
「お前の絵も同じだ。違うというだけでは足りん。その違いで、何ができるのかを見せろ」
厳しい。
でも、さっきまでとは少し違って聞こえた。
「面白いから全部変えよう」とも言わないし、「今までと違うから駄目だ」とも言わない。
ハルドにとって大事なのは、どうやら絵がちゃんと仕事をすることらしい。
昔からある技法にも理由がある。
リアの新しい絵にも、もし役目があるなら見せてみろ。
そういうことなのだろう。
「先生」
製作所を出たあと、リアが俺を呼んだ。
「ん?」
「私の絵、何ができると思いますか?」
その質問に、俺はすぐ答えかけてやめた。
「分からん」
「先生まで」
「でも、試せばいいじゃん」
「試す?」
「人に見せる」
リアが足を止める。
「ハルドさんも言ってただろ。何ができるか見せろって」
「でも、誰に……」
俺はリアの持つ紙を見る。
描かれているミスティア。
俺は好きだ。
リアは描きたいと思った。
ハルドは、役割は分からないけど目が向くと言った。
だったら次に知りたいことは一つだ。
「これ、街の人に見せたらどうなるんだろうな」
リアが目を丸くする。
俺はその顔を見て笑った。
「せっかくだし、やってみようぜ」
「何をですか?」
「リアの絵を、ちゃんと人に見てもらう」
「ちゃんと……」
「で、欲しいって人がいたら」
そこで俺は一度言葉を切った。
「売ってみる?」
リアの目が、さらに大きくなった。




