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痛武器勇者~最強武器らしいけど、観賞用にして推しを布教します~  作者: 桝田キゲン
11 誰が「好き」を決めるのか

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二つの人影

 市場の喧騒は、何事もなかったかのように続いていた。


 新しいキャラクターの冊子を買った客が、隣の客へ表紙を見せている。


 屋台の店員が次の商品を並べる。


 誰かが笑い、誰かが値段を聞く。


 その中で、オタクミだけが立ち止まっていた。


 さっきセラに聞かれた言葉が、まだ胸に残っている。


『言わなくてよかったの?』


 答えは出せなかった。


 姉を亡くした女性が、大切そうに冊子を抱いていた姿も忘れられない。


「……難しいな」


 思わず呟くと、隣にいたアーグが口を開いた。


「一つ、整理しておいた方がいい」


「何を?」


「客が商品を好きになったことと、その商品をどうやって作ったかは、別の話だ」


 オタクミは顔を上げた。


「それは……分かってるつもりだ」


「ああ。お前はあの女性の喜びを否定しなかった。そこはいい」


 アーグは、まだ人が集まっている屋台へ視線を向けた。


「だが、客が喜んでいるからといって、商売のやり方まで問題がないことにはならん」


「……そうだな」


「問題は、条件だ」


「条件?」


「何を知って選んだのか。何を知らないまま選んだのか、ということだ」


 アーグは腕を組んだ。


「俺たちの見立てが正しければ、あの買い取り所では、品物と一緒に持ち主の思い出を集めていた。それを商品作りに使っている可能性が高い」


「うん」


「だが、あの女性がそれを知っていたかは分からない。知らなかったとしても、知った後に同じ商品を好きでいるかもしれん」


 オタクミは、女性が去った方向を見た。


「……好きでいるかどうかは、あの人が決めることだよな」


「そうだ」


「俺が勝手に『知らない方が幸せだ』って決めるのも違う。でも、確かめてもいないことを真実みたいに話すのも違う」


「その両方を考えなければならんだろうな」


 オタクミは小さく息を吐いた。


 簡単だった頃がある。


 偽物は悪い。


 本物を知ればいい。


 正しいものを届ければ、きっと分かってもらえる。


 そう思っていた頃が。


 けれど、好きなものを大切にしている人を前にすると、そう簡単には言えなくなった。


 だからといって、何もしなくていいわけでもない。


「……こういうの、布教にもちょっと似てるんだよな」


 オタクミが呟くと、アーグが首を傾げた。


「またお前の世界の話か?」


「そう。好きな作品を誰かに薦める時って、その人の好みを考えるだろ」


「まあ、そうだな」


「熱い展開が好きなら、そういう作品。泣ける話が好きなら、そっち。相手が好きそうなものを探して薦める」


 そこまで言って、オタクミはふと黙った。


 懐かしい光景が浮かんだからだ。


     *


 高校時代。


 昼休みの教室。


 机に突っ伏していたオタクミの前に、漫画が三冊、どさどさと置かれた。


『ほら、これ』


 顔を上げると、ケイスケが立っていた。


『……何だよ、この量』


『これ、お前好きそうなんだよ』


『また増やすのかよ。俺の積ん読が死ぬ』


『もう死んでるだろ』


『勝手に死亡判定するな』


 ケイスケは笑って、一冊目の表紙を指で叩いた。


『お前、こういう熱い展開好きだろ。主人公が一回ボロ負けするやつ』


『おい、それネタバレじゃね?』


『いや、そこからが本番だから』


『もっとネタバレじゃねえか!』


 そんなことを言い合っていた。


 ケイスケは、よく作品を持ってきた。


 ロボットものが好きだと言えば、別のロボット漫画。


 泥臭い主人公が好きだと言えば、傷だらけになって立ち上がる話。


 泣ける作品も好きだと分かると、普段のオタクミなら手を伸ばさないような、静かな物語まで薦めてきた。


 妙に当たることもあった。


『……これ、めっちゃいいじゃん』


『だろ?』


『お前、よく見つけたな』


『俺も好きだからな』


 そう言って、二人で好きな場面を話し続けた。


 だが、外れることもあった。


『うーん……俺にはあんま刺さらなかったな』


 読み終わった漫画を返すと、ケイスケは少しだけ残念そうな顔をした。


『そっか』


『悪い。嫌いってほどじゃないんだけど』


『いや、合わないもんは合わないだろ』


 ケイスケは返された漫画を鞄にしまった。


 そして、少し考えたあと、別の一冊を取り出した。


『じゃあ次これ試す?』


『おい、まだあるのかよ!』


『こっちは全然違う話だから』


『俺の積ん読を殺しに来てるだろ、お前』


『もう死んでるって』


 二人で笑った。


 そんな昼休みだった。


     *


「……あいつ、よく当ててたんだよな」


 オタクミは、思わず口にした。


「何をだ?」


「俺が好きそうな作品。ケイスケってやつがさ」


 アーグは黙って続きを待った。


「俺より俺の好み分かってるんじゃないかって時もあった。でも、外すこともあった」


「それで?」


「別に、何も」


 オタクミは少し笑った。


「残念そうにはするけど、怒らなかった。また別のを薦めてきたり、俺が好きだった別の漫画の話をしたり。そこで終わりだった」


 アーグは屋台を見た。


「相手の好みに合わせること自体は、珍しくない」


「うん。それはケイスケもカルテルも同じなんだよな」


 オタクミは頷いた。


「でも、俺が好きになるかどうかまで、あいつは奪わなかった」


 言ってから、少し考えた。


 ケイスケはオタクミの好みを知っていた。


 けれど、何でも分かるわけではなかった。


 気に入らなかったと言えば、それを受け取った。


 間違えたら、また別のものを薦めてきた。


 オタクミが予想と違うものを好きになっても、そのこと自体を面白がっていた。


「……似てるけど、違うんだよな」


「何が違う?」


「まだ上手く言えない」


 オタクミは、冊子を買う客を見た。


「相手の好みを考えるのは、悪いことじゃない。俺だってやる。でも、相手が何を好きになるか、こっちの思ったとおりにしようとするのとは……」


 そこまで言って、首を振る。


「いや。カルテルだって、買わない客はいる。無理やり全員に買わせてるわけじゃない」


「その通りだ」


「だから、単純に『選ばせてない』とも言えないんだよな」


 アーグは頷いた。


「相手が好きそうな物を用意する商売は、いくらでもある。だが、本人が知らせるつもりのなかった事情まで集めて利用するなら、別の問題が生じる」


「……うん」


「薦められたものを気に入らなければ断れる。それは大事だ。だが、気に入った場合にも、どういう事情で薦められたのか、知りたいと思うかもしれん」


 オタクミは考え込んだ。


 好きにならなくてもいい。


 断ってもいい。


 気が変わってもいい。


 知らなかったことを知って、もう一度考えてもいい。


「……選び直せる余地、か」


 口にすると、少しだけ腑に落ちた。


 だが、それですべて説明できたとは思えなかった。


 今、商品を買ったあの女性には、その余地があったのだろうか。


 もし後から事情を知ったら、どう思うだろう。


 それでも好きでいるかもしれない。


 怒るかもしれない。


 両方かもしれない。


 どれを選ぶかは、彼女にしか分からない。


「……まだ答えじゃないな」


 オタクミが言うと、アーグは小さく頷いた。


「なら、答えにするには早いんだろう」


 市場の屋台では、新しい冊子がまた一冊売れていた。


     *


 その夜。


 王都の別の場所で、ケインは販売報告を読んでいた。


 机の上には、何枚もの帳簿が積まれている。


 新キャラクター商品の売れ行きは好調だった。


 馴染みのないキャラクターを使った商品としては、十分な成果が出ている。


「特に、家族や故郷に関する設定を持つ商品への反応が良好です」


 部下が報告書を開いた。


「買い取り所で集めた話を参考にした企画も、今のところ狙いどおりの反応を得ています」


「そうか」


 ケインは短く答えた。


「今後の展開については?」


「他都市の支部からも導入の希望が来ています。このまま広げれば、王都以上の規模で販売できる見込みです」


 部下の声には、自信があった。


 企画は成功している。


 売上も伸びている。


 次は市場を広げる。


 商売としては自然な判断だった。


 ケインは帳簿を一枚めくった。


「まだ王都だけでいい」


「……はい?」


「他都市への展開は保留だ」


 部下は戸惑った顔をした。


「ですが、現在の売れ行きであれば、十分に――」


「精度が足りない」


 ケインは言った。


 部下は口を閉じた。


 数字だけを見れば、十分な成果に思える。


 それでも、ケインは次の展開を認めなかった。


「王都で続けろ。販売と客の反応を、もう少し見る」


「……承知しました」


 部下は頭を下げた。


 それから、別の紙を差し出す。


「それと、異邦人オタクミに関する報告です」


 ケインの指が止まった。


「読め」


「例の女性が商品を購入した際、オタクミも近くにいたそうです」


 部下は紙を見下ろした。


「しばらく様子を見ていたものの、女性には声をかけませんでした。その後も、仲間たちと市場に残っていたとのことです」


「……何も?」


「はい。少なくとも、女性本人への接触は確認されていません」


 ケインは報告書を受け取った。


 女性への接触なし。


 しばらく様子を見ていた。


 それだけだった。


 何を考えていたのかは書かれていない。


 何を話したのかも、分からない。


 ケインは文字を見つめた。


 昔のあいつなら、どうしただろう。


 偽物だ。


 騙されている。


 本物を知るべきだ。


 そう言って、迷わず割って入ったかもしれない。


 少なくとも、昔のケイン――まだケイスケと呼ばれていた頃の彼は、オタクミにそういう勢いを感じたことがあった。


 だが、それは昔の記憶でしかない。


 今のオタクミが何を考えて女性を見送ったのか、報告書からは分からなかった。


 ケインは紙を置いた。


 それなのに、胸の奥がざらつく。


「……今さら考えるのかよ」


 声は、ほとんど息のようだった。


「何かおっしゃいましたか?」


「何でもない」


 ケインは表情を戻した。


 視線の端に、別の記録がある。


 大きな眼のキャラクター。


 昔の教室。


 笑い声。


 思い出さなくてもいいはずのものが、勝手に浮かんでくる。


 客が喜ぶ。


 商品を買う。


 また欲しいと思う。


 ならば、価値がある。


 人に合わせて作られたキャラクターであっても、結果が同じなら価値は同じ。


 そう考えればいい。


 だが。


 昔、自分が好きだったあのキャラクターは、自分のために作られたものではなかった。


 誰かが自分の好みを調べたわけでもない。


 自分が偶然見つけた。


 惹かれた。


 好きになった。


 それだけのことだった。


 そこに違いがあるのか。


 違いがあったとして、何が変わるのか。


 ケインは、その先を考えるのをやめた。


「他都市への準備は止めておけ」


 部下へ改めて命じる。


「王都で続ける」


「……承知しました」


 部下は書類をまとめ、部屋を出ていった。


 扉が閉まる。


 机の上には、二種類の報告書が残った。


 一つは、売上の記録。


 もう一つは、オタクミの行動記録。


 ケインは、後者を手に取った。


 そこに書かれた短い文章を、もう一度読んだ。


     *


 同じ頃。


 宿では、リアがスケッチブックを開いていた。


 昼間に見た新しいキャラクターたちを、思い出しながら描き写している。


 温かい食事を用意して待つ女性。


 転んでも笑って立ち上がる少年。


 誰にも心を開かず、特定の相手にだけ弱音を見せる少女。


 どれも、よくできていた。


 短い紹介文だけで、どういう人物なのかが分かる。


 絵を見れば、どんな気持ちになってほしいのかも伝わってくる。


 リアは、少年の顔を描き終えたところで手を止めた。


「……上手いんですよね」


 隣で本を読んでいたシエルが顔を上げる。


「何がですか?」


「今日の絵です。表情も、服も、色の使い方も。見た人が好きになりそうなところを、ちゃんと考えてあるんです」


「リアさんも、いい絵だって言ってましたね」


「はい」


 リアは、少女の絵へ目を落とした。


「でも、描いていると、少し分からなくなるんです」


「何がですか?」


「この子たちは、何をしたいんだろうって」


 リアはスケッチブックを指で押さえた。


「誰かに待っていてほしい。励ましてほしい。自分だけを見てほしい……そういう気持ちに応えるために作られているのは分かります」


 少し考え、言葉を続ける。


「でも、この子たち自身が、誰かのそばにいたいと思うのは、どういう時なんだろうって」


 シエルはしばらく黙っていた。


 リアは、机に置いた鉛筆を見た。


 資料庫で見た、途中で止まった絵のことも思い出す。


 あの絵は、完成していなかった。


 誰にも届かなかったのかもしれない。


 何を描こうとしていたのか、今でも分からない部分がある。


 けれど、そこには何かを描きたかった人の手があった。


 昼間の商品は違う。


 誰に届くのかが、よく考えられている。


 そのこと自体を、リアは悪いとは思わなかった。


 自分だって、描いたものを誰かに好きになってもらえたら嬉しい。


 だからこそ、迷っていた。


「シエルさん」


「はい」


「誰かに好きになってもらうために作るのって、悪いことだと思いますか?」


 シエルは少し驚いた顔をした。


 それから、ゆっくり首を横に振る。


「悪いとは思いません」


「……そうですか」


「私も、聞いてくれる人がいるから歌いたくなることがあります」


 シエルは本を閉じた。


「この歌を聞いたら、笑ってくれるかな、とか。疲れている人が少し元気になってくれるかな、とか。そういうことを考えるのは、楽しいです」


 リアは頷いた。


「分かります。絵も、そういう時があります」


「でも」


 シエルは少しだけ目を伏せた。


「好きになってもらえなくても、歌う時があります」


 リアが顔を上げる。


「誰かに聞いてほしいというより、ただ、その人のそばで歌いたい時があるんです」


「そばで……」


「その人が笑ってくれるか分からなくても。歌を好きになってくれるか分からなくても」


 シエルは小さく笑った。


「そこにいたいから、歌いたい。そういう時もあります」


 リアは黙って聞いていた。


 好きになってもらうために歌う。


 好きになってもらえるか分からなくても歌う。


 同じ人が、どちらの気持ちも持っている。


 それは、少しもおかしなことではない。


「……ありがとうございます」


 リアが言うと、シエルは首を傾げた。


「何か、参考になりましたか?」


「はい。でも、まだ上手く言えません」


 リアは、開いていたページを閉じた。


 そして、新しいページを開く。


 真っ白な紙だった。


 いつもなら、まず顔を考える。


 どんな目をしているか。


 髪は長いか、短いか。


 どんな服が似合うか。


 どんな表情で笑うか。


 そういうところから描き始めることが多かった。


 けれど、今はどれも決めたくなかった。


 リアは鉛筆を置いた。


 まず、一本の線を引く。


 そこから、人の形を簡単に描いた。


 顔はない。


 服もない。


 ただの人影だった。


 少しだけ紙の上に余白ができる。


 リアは、そこへもう一人を描いた。


 一人。


 その隣に、もう一人。


 二人とも同じ方向を向いている。


 手はつないでいない。


 抱きしめてもいない。


 話してもいない。


 ただ、並んで立っている。


 シエルが少し身を寄せた。


「……二人、いるんですね」


「はい」


「誰ですか?」


 リアは二つの人影を見つめた。


「分かりません」


「何をしているんですか?」


 しばらく考えてから、答えた。


「……一緒にいるだけです」


 シエルは、もう一度絵を見た。


「そうですか」


 それ以上、何も尋ねなかった。


 リアは、鉛筆を持ったまま二人の間の白い部分を見つめていた。


 近すぎるだろうか。


 遠すぎるだろうか。


 どちらが先に立っていたのだろう。


 それも、まだ分からない。


 けれど。


 一人だけでは描けなかったものが、そこにはあった。


     *


 別の部屋では、オタクミが机に向かっていた。


 手元には、以前届いた一枚の絵がある。


 眼の大きなキャラクター。


 裏には、短い言葉。


『今度は、笑わないんだな』


 誰が描いたのか。


 誰が送ったのか。


 まだ分からない。


 オタクミは、絵をそっと机に戻した。


 昼間、ケイスケのことを思い出した。


 昔の自分は、あいつが薦めてくれる作品を楽しみにしていた。


 全部が好きになったわけではない。


 けれど、違うと思った時にも、そこで話が終わることはなかった。


『じゃあ次これ試す?』


 あの声が、まだ耳に残っている。


 当ててもらうのが嬉しかっただけじゃない。


 外れた時にも、笑って話を続けられた。


「……理解するって、当てることじゃないのかもな」


 オタクミは小さく呟いた。


 相手が喜ぶ言葉を、間違えずに選ぶこと。


 相手の好みを、全部予測できること。


 それができれば、相手を理解したことになるのだろうか。


 違うと言われた時。


 好きじゃないと言われた時。


 予想していなかった答えが返ってきた時。


 そこで相手の言葉を聞けることも、必要なのではないか。


「……選び直せる余地、か」


 昼間の言葉をもう一度呟く。


 それだけで全部が解決するとは思えない。


 でも、何か大事なところに触れている気がした。


「考え込んでいるな」


 背後から声がした。


 振り向くと、アーグが部屋の入口に立っていた。


「まあな」


「その絵か」


「それもある」


 オタクミは、机の上の絵を見た。


「……ケイスケのことも考えてた」


 アーグは室内へ入ってきた。


「昔の友人だったな」


「ああ」


 オタクミは頷いた。


「会いたいと思ってる」


「そうか」


「謝りたいこともある。でも、それだけじゃないんだ」


 アーグは黙って続きを待った。


「今のあいつが、何を好きなのか聞きたい」


「昔好きだったものではなく?」


「そう」


 オタクミは、絵の端へ目を落とした。


「今は別のものが好きかもしれない。昔好きだった作品を、もう好きじゃないかもしれない」


 少しだけ笑う。


「俺の知らないものを薦めてきたら、たぶん驚くだろうな」


「それでも聞きたいのか」


「聞きたい」


 答えはすぐに出た。


「もし俺がそれを好きになれなくても、ちゃんと話を聞きたい。今度は、あいつが何を好きなのか、俺の予想だけで決めたくない」


 アーグは少しだけ目を細めた。


「昔のことも、今のことも、相手に聞かなければ分からんことはある」


「……ああ」


「会えた時に、確かめればいい」


 オタクミは頷いた。


 机の上には、大きな眼のキャラクターがいた。


 昔なら、変だと笑ってしまったかもしれない絵。


 今は、その眼をじっと見ていた。


 描いた人は、どんなところが好きだったのだろう。


 どんな気持ちで、この表情を描いたのだろう。


 そこを、自分はまだ知らない。


     *


 夜が深くなった。


 宿の一室では、シエルが先に眠っていた。


 リアだけが、まだ机に向かっている。


 スケッチブックには、二つの人影。


 どちらも顔がない。


 名前もない。


 同じ方向を向いて、ただ隣に立っている。


 リアは、その二人の周りに何かを描き足そうとした。


 けれど、鉛筆が止まった。


 背景を描けばいいのだろうか。


 表情を付ければいいのだろうか。


 手をつなげば、仲がいいことは伝わるかもしれない。


 けれど、今はどれも違う気がした。


 リアは鉛筆を置き、少し離れて紙を見た。


 二つの人影は、何もしていない。


 ただ、同じ場所にいる。


 それだけなのに、一人を消してみようとは思わなかった。


「……どうしたら、伝わるんだろう」


 小さく呟く。


 何を伝えたいのか、自分でもまだ分からない。


 ただ、二人が隣にいることを、見た人にも感じてほしかった。


 リアはページを閉じなかった。


 顔を描くことも、名前を付けることもしなかった。


 ただ、二つの人影を見つめ続けた。


 まだ、どちらも相手の方を向いてはいない。


 それでも、同じ紙の上にいた。

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