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痛武器勇者~最強武器らしいけど、観賞用にして推しを布教します~  作者: 桝田キゲン
11 誰が「好き」を決めるのか

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今度は、笑わない

 人の顔を追うのは、やめた方がいい。


 セラがそう言ったのは、カルテル側の屋台で製作者名と製作日を記した札を確認した、その日の午後だった。


 オタクミたちは正規店へ戻り、前日にアーグが取った記録を広げていた。


「……じゃあ、誰が聞いたのか調べないのか?」


「調べるわよ。でも、誰が怪しいかを決めるためじゃない」


 セラは帳面を指さした。


 店主とドニがC案について話した時間。その前後に店の近くにいた人々。確認できた行き先。


 常連客、向かいの果物屋、荷物を運んでいた少年、夕方になると通りを掃除する老人。


 店主とドニを含め、名前や立場まで把握できた人物は八人いた。


「この中に、カルテルへ流してる奴がいるってことか」


 オタクミが一覧を覗き込むと、アーグは首を振った。


「違う。これは容疑者の一覧じゃない。こちらが確認できた人物を書き出しただけだ」


「でも、話を聞けたかもしれないんだろ?」


「そうだ。だが、通りを歩いた全員を記録できたわけではない。それに、聞いた者が別の誰かへ話した可能性もある」


「……口から口へ、か」


「そもそも、あの表示が本当にこちらの話を受けて始まったのかも、まだ証明できていない」


 アーグの指摘は相変わらず容赦がなかった。


 ただ、今回はオタクミも素直に頷けた。


 昨日見つけたのは、答えではない。


 答えへ近づくための、手掛かりだった。


「じゃあ、行き先を見る方がいいわね」


 セラが帳面を引き寄せた。


「人がどこへ行くか。何を持っていくか。何を置いていくか」


「置いていくもの?」


「そう。情報って、口だけで運ばれるわけじゃないでしょ」


 アーグが顔を上げた。


「……確かにな」


 オタクミは二人を交互に見た。


「じゃあ、今日は人と物、両方を見るってことか?」


「そういうこと。ただし、変な顔でじろじろ見ないでよ」


「俺、そんな顔してる?」


「今してる」


「まだ始まってもいないのに!」


 セラは笑った。


 けれど、その視線はすでに市場へ向いていた。


     *


 午後の市場は、朝とは少し違う顔をしている。


 買い物客の勢いが落ち着く一方で、売れ残りを片づける店員や、荷物を運ぶ人々が増えていた。


 オタクミとセラは買い物客に紛れて通りを歩いた。


 誰かを尾行して捕まえるつもりはない。


 店先を覗き、商品の値段を眺め、時には立ち止まって話をする。


「……全員普通に見えるな」


 オタクミが小声で言った。


「普通だから、見つけにくいのよ」


 セラは前を向いたまま答えた。


「怪しい顔を探すんじゃなくて、物の流れを見るの」


「分かってるって」


「じゃあ、あそこ」


 セラが顎で示した先では、果物屋が売れ残りを選り分けていた。


 傷んだ果物を別の籠へ移し、古い値札を外している。


「何か分かる?」


「……果物が売れ残ってる?」


「それは見れば分かるわね」


「試された!」


「試験じゃないけど」


 セラは肩をすくめた。


「値札を外したでしょ。あれ、どうすると思う?」


「捨てるんじゃないか?」


「そうね。じゃあ、捨てたあと、どこへ行く?」


「……あ」


 オタクミは店先を眺めた。


 外された値札。


 使い終わった包み紙。


 荷物から剥がされた札。


 書き損じた注文票。


 今までなら、背景としてしか見ていなかったものばかりだ。


 市場で何が売られているかは、ずっと気にしてきた。


 けれど、商品が売れたあとに残るものについては、ほとんど考えたことがなかった。


 夕方が近づくと、通りを掃除する老人が現れた。


 箒を動かし、落ちた紙片や木屑を集めていく。


 値札の切れ端。


 包み紙。


 何かを書き損じたらしい紙。


 老人は、それらをまとめて麻袋へ入れていた。


「……あれか?」


 オタクミが尋ねる。


「何が?」


「いや、あの人が怪しいって意味じゃなくてさ。俺たちが見てなかったものを、あの人が運んでるなって」


 セラは少し笑った。


「ようやく分かった?」


「分かったけど、何でそんな上から目線なんだよ」


「分かるまで時間がかかったから」


「厳しい!」


 老人は麻袋を肩に担ぎ、市場裏の細道へ向かった。


 二人は少し距離を空け、その行き先を確かめた。


 老人が入ったのは、古紙や空き瓶、壊れた木箱などを引き取る小さな回収所だった。


 麻袋を渡すと、老人はわずかな銅貨を受け取る。


 それだけなら、ごく普通の廃品回収だ。


 実際、回収所には古紙以外のものも積まれていた。


「……別に、変なことしてないな」


「ええ。だから、まだ何も決めつけない」


 二人は離れた場所から、人の出入りを見ていた。


 酒場の従業員が、使い終わった注文票を束ねて持ち込む。


 宿の下働きらしい者が、書き損じた宿泊記録を渡す。


 荷運び人が、不要になった荷札をまとめて置いていく。


 どれも、本来なら捨てるものだ。


「……紙、集まりすぎじゃないか?」


「集める仕事なんだから、集まるのは普通でしょ」


「そうだけどさ」


 オタクミは積み上がった紙束を見た。


 そこには値段がある。


 注文した数がある。


 荷物の行き先もある。


 捨てられたからといって、書いてあることまで消えるわけではない。


 その時だった。


 回収所の奥から、一人の男が出てきた。


 男は積まれた紙束を調べ、何枚かを抜き出していく。


 最初、オタクミには紙の種類を分けているように見えた。


 だが、男は紙を広げるたびに、書かれた部分へ目を落としていた。


 文字の多い紙を手元へ残し、裏が白い紙を別の山へ置く。


「……あれ、何してるんだ?」


「まだ分からないわ。文字がある紙を選んでるようには見えるけど」


 男は抜き出した紙を束ね、回収所を出ていった。


 二人は追いかけなかった。


 どの通りへ向かったかだけを確かめ、アーグに知らせることにした。


 そこで無理に踏み込めば、普通の仕事をしている人まで疑うことになる。


 オタクミは、そんなことをしたいわけではなかった。


     *


「……古紙か」


 宿で話を聞いたアーグは、しばらく黙っていた。


「値札も注文票も荷札も、捨てれば紙屑だけどさ。書いてあることは残ってるんだよな」


「ああ」


 アーグは頷いた。


「一枚なら大した意味がなくても、何枚も集まれば話は変わる」


 帳面へ目を落としながら続ける。


「商品の値段が上がったか下がったか。どの店が何を注文したか。どこへ荷物が運ばれたか。そういう情報を集めれば、市場全体の動きを推測できる」


「じゃあ、カルテルはあの紙を使ってるのか?」


「まだ分からん。回収所へ集まることと、カルテルが利用していることは別だ」


「……だよな」


「だが、確かめる価値はある」


 翌日、セラは再び回収所の周辺を観察した。


 老人も、酒場の従業員も、荷運び人も、いつもどおりに紙を持ち込んでいた。


 誰かがカルテルと関係しているようには見えない。


 そもそも、事情を知らずに紙を持ち込んでいるだけかもしれない。


 夕方近くになると、前日と同じ男が姿を見せた。


 文字の残る紙を何枚か選び、束ねて持っていく。


 セラは距離を空けて、その行き先を確かめた。


 男が向かったのは、プライス・カルテルの取引に使われる商館だった。


 男は紙束を抱えて建物へ入り、しばらくすると手ぶらで出てきた。


 商館の中で何が行われたかまでは見えない。


 だが、古紙の一部がそこへ届いていることは確認できた。


「……つながったわね」


 セラは小さく呟いた。


     *


 その商館では、持ち込まれた紙束が机の上に広げられていた。


 値札。


 注文票。


 荷札。


 書き損じた宿泊記録。


 担当者は使えそうな記載を抜き出し、市場の報告書へ書き加えていく。


「南の荷が増えているな」


「北の値下げは?」


「昨日の分では、こちらです」


 担当者は別の紙を指さした。


「店の表に出ていない情報もあります。正式な数字ではないので、ほかの報告と合わせて確認してください」


「分かっている」


 紙束の中には、買い物客が書き残したような小さなメモもあった。


 使われるものもあれば、目を通されただけで脇へ置かれるものもある。


 すべての紙が重要なわけではない。


 だが、そこに書かれた内容は、捨てられたあとも別の誰かの判断材料になっていた。


     *


 セラの報告を受けたアーグは、腕を組んだ。


「……少なくとも、紙の一部がカルテルの取引に関わる場所へ運ばれている」


「やっぱり情報を集めてたんだな」


 オタクミが言うと、アーグは頷きかけてから首を振った。


「その可能性は高い。だが、男が何を運ぶために雇われているのかは分からんし、回収所の人間が事情を知っているとも限らない」


「じゃあ、掃除のおじいさんは?」


「今のところ、普通に掃除をして紙を売っただけだ」


「そっか」


 オタクミは、少し安心した。


 老人が怪しいわけではない。


 回収所へ紙を持ち込む人々が、カルテルへ密告しているわけでもない。


 それでも、紙は集まる。


 集まった紙に情報が残っている。


 誰かがそれを選び出し、別の場所へ運んでいる。


「……一人のスパイを置く必要すらないのか」


「場合によっては、な」


 アーグは答えた。


「市場が普段の仕事で出しているものを拾えば、店の外からでも分かることはある」


 オタクミは机に置かれた記録を見つめた。


 ふと、以前見た子供を思い出す。


 割れたアクスタを、それでも大切そうに持っていた子供。


 ほかの人には壊れた品でも、その子には意味があった。


 見る人が変われば、価値が変わる。


 ただ、今回のそれは少し違う。


 捨てた側が気にも留めなくなったものを、知らない誰かが利用している。


「……待てよ」


 オタクミは顔を上げた。


「何だ?」


「向こうが紙を拾ってるならさ、そこへ流すものも、こっちで選べるんじゃないか?」


 アーグの表情が変わった。


「また、何か思いついたのか」


「前は、相手が何を真似するか見た。今度は、拾った情報で相手がどう動くか試せるかもしれない」


 セラが眉を上げる。


「……また待つの?」


「そこは俺もつらい!」


 笑い声が上がった。


 だが、アーグは笑わなかった。


「前回とは違うぞ」


「分かってる」


「今度は、情報を見せるだけでは済まん。相手がそれを信じれば、実際に荷物が動くかもしれない」


 オタクミは頷いた。


「うん。だから、やるなら範囲を決めよう」


     *


 その夜、宿のテーブルに新しい紙が広げられた。


 書かれているのは、北市場と南市場についての短い需要予測だった。


 北市場では翌日、客が増える見込み。


 南市場では、客足が落ちる見込み。


 ただし、それはオタクミたちの観察とは違っている。


「……これ、やっぱり嘘ですよね」


 リアが紙を見つめた。


「そうだな」


 オタクミは答えた。


「前回は、まだ決まってない案を話しただけだった。でも今回は、向こうがこれを信じたら、実際の商売に影響が出る」


「買いたかった人が、買えなくなるかもしれません」


「……うん」


 オタクミは黙った。


 安い商品を選ぶ客には、その人なりの理由がある。


 正規品へ目を向けてほしいからといって、その人が困ることまで喜んでいいわけではない。


「今回は、どこまでやるつもりなんですか?」


 リアが尋ねた。


 オタクミはアーグを見た。


「正規店の注文や配送予定は使わない。一般の店の仕入れに影響する数字も書かない。カルテルの安価なアクスタの一部だけを想定した、小さな予測にする」


 アーグが頷いた。


「一日限りだ。相手が情報を拾っても、それを採用するとは限らない。それに、結果が予想を超えるようなら、その時点で中止する」


「……それでも、影響は出るんですよね」


「ああ」


 オタクミはリアを見た。


「だから、何が起きたかはちゃんと見る。成功したから全部よかった、なんてことにはしたくない」


 リアは少し考えたあと、頷いた。


 完全に納得したわけではなさそうだった。


 その違和感は、オタクミにも分かった。


 情報を使って人を動かすことが、どこまで許されるのか。


 簡単に答えが出る話ではない。


「それと」


 アーグが紙を指さした。


「正式な注文票や、どこかの店の記録を偽造するのは避ける。これは出所のはっきりしない市場の見込み情報に留める」


「了解」


「北と南を完全に逆転させるような大きな数字も使わん。動くとしても、一部の在庫配分が偏る程度にする」


「分かった」


 オタクミは頷いた。


 その紙は、客向けの宣伝でも、正式な配送指示でもない。


 誰かが市場の様子を書き留めたように見える、短い覚え書きだった。


 翌朝、オタクミたちは通常の回収が行われる場所へ、その紙をほかの不要な紙と一緒に出した。


 清掃の老人を呼び止めたり、回収所の人間に特別な依頼をしたりはしない。


 その後、紙束がいつもの回収先へ運ばれたことだけを確認した。


「……さて」


 オタクミは腕を組んだ。


「ここからが問題だな」


「何が?」


 セラが尋ねる。


「待つこと」


「でしょうね」


 セラは即答した。


「まだ何も起きてないんだから、落ち着きなさい」


「分かってるって!」


 そして、実際に何も起きなかった。


 少なくとも、午前中は。


     *


 回収された紙束は、いつものように仕分けられていた。


 値札や注文票の間に、北市場と南市場についての短い覚え書きが混じっている。


 文字のある紙を選んでいた男は、その紙にも目を通した。


 別の何枚かと重ね、小さな束へ加える。


 その束は、ほかの記録とともに商館へ運ばれた。


 商館では、担当者が市場の情報を整理していた。


「北市場の客足が増えるという話があるな」


「こちらにも、似た見込みがあります」


 別の担当者が、すでに届いていた報告を示した。


 実際には、その報告も確定した数字ではない。


 ただ、北市場の屋台からは追加の品を置けそうだという連絡があり、倉庫には動かせる在庫もあった。


「少し北へ回すか」


「南はどうします?」


「減らしすぎるな。だが、今日の追加分は北を優先する」


 担当者は、手元の紙をもう一度見た。


 そこには、確かな需要が書かれているわけではない。


 しかし、いくつかの不確かな情報が同じ方向を指していたため、判断が傾いた。


 その中の一枚が、オタクミたちの置いた紙だった。


     *


「……まだかな」


「さっき見たばかりでしょ」


 セラが呆れたように言った。


「いや、でもさ」


「五分前にも同じこと言ってたわよ」


「時間が進むの遅くない?」


「あなたが落ち着かないだけ」


 オタクミは頭を抱えた。


 午前中、市場に目立った変化はなかった。


 昼になっても、はっきりした動きは確認できない。


 オタクミは何度も外へ出ようとしたが、そのたびにセラに止められた。


「待つって言ったの、あなたでしょ」


「そうなんだけど!」


「だったら待ちなさい」


「俺、こういうの向いてないな……」


「今さら?」


 セラは笑った。


 変化が見えたのは、午後だった。


 アーグが市場の記録を持って戻ってきた。


 いつもより少し足が速い。


「……オタクミ」


「何かあった?」


「ああ。北市場へ向かうカルテル側の商品が、普段より多い」


 オタクミは身を乗り出した。


「じゃあ、南は?」


「午後になって、いくつかの屋台で補充が追いついていない。少なくとも、こちらが確認した範囲では、在庫の偏りが出ている」


「……本当に?」


「複数の屋台と荷運びの動きを確認した。ただし、あの紙だけが原因だとまでは断定できん」


 アーグは帳面を開いた。


「だが、北へ多く、南へ少なくという動きは、流した情報の内容と一致している」


 オタクミは息を呑んだ。


 一行はまず、北市場へ向かった。


 カルテル側の屋台の裏には、普段より多くの箱が積まれている。


 販売員たちは商品の置き場所を相談していた。


「こっちにも置けるか?」


「客が来れば出せるが、今はまだ残ってるぞ」


 そんな声が聞こえる。


 通りにいる客の数は、荷物の増え方ほどには変わっていないようだった。


「……本当に増えてるな」


 オタクミが呟くと、アーグは頷いた。


「今日確認した範囲ではな。これだけで北全体が売れ残ったとは言えんが、補充分が多いのは確かだ」


 次に南市場へ向かう。


 こちらでは、一部の屋台で商品が品薄になっていた。


「もうないのか?」


 客が販売員へ尋ねる。


「申し訳ありません。今ある分は、こちらだけでして……」


「追加は?」


「すぐには届かないようです」


 客は困ったように商品棚を見た。


 安い商品を買うつもりだったのだろう。


 別の客も、目当ての品が見つからず、屋台を離れていく。


 そのうちの何人かが、通りの向こうにある正規店の方へ歩いていった。


「……あの人たち、向こうへ行ったな」


 オタクミが呟いた。


 アーグは頷いた。


「正規品を見に行った可能性はある。ただし、買ったかどうかは分からん」


「そっか」


 オタクミは屋台を見た。


 買おうとしていた品を手に入れられず、困っている客がいる。


 その一方で、正規品へ目を向ける客もいる。


 結果は、一つではなかった。


「……やったな」


 オタクミが小さく言った。


 アーグは帳面を見たまま答えた。


「一時的な変化だ」


「うん」


「我々の紙が判断材料の一つになった可能性は高いが、ほかの要因もあるはずだ」


「それも分かってる」


 オタクミは頷いた。


「でも、今までとは違うんだ」


 ずっと、相手の値段や宣伝に反応してきた。


 こちらが考えたことを、向こうが似た形に変えてしまう。


 そのたびに、次の方法を探してきた。


 けれど今回は、意図的に置いた情報と同じ方向へ、カルテル側の荷物が動いた。


「俺たち、初めて向こうの流れを動かせたんだな」


 セラが少し笑った。


「一日だけだけどね」


「一日で十分だよ」


 オタクミも笑った。


 けれど、品薄になった棚の前では、買い物を諦めて帰る客もいる。


 オタクミは、その背中を見た。


「……次も同じことをやるかは、ちゃんと考えないとな」


 リアが頷いた。


「はい」


 ゴルドスが腰元から声を響かせた。


「ようやく盤上で動かされるだけではなくなったな」


「お、褒めてくれる?」


「ただし、盤をひっくり返せたわけではない。相手の駒が少し動いた程度だ」


「もうちょっと気持ちよく褒めてくれよ!」


「増長するから嫌だ」


「信用がない!」


 セラが笑った。


 アーグは帳面を閉じた。


「今日はここまでだ。これ以上動けば、何が原因で市場が変わったのか余計に分からなくなる」


「了解」


 小さな成功だった。


 市場全体が変わったわけではない。


 カルテルの力が弱まったわけでもない。


 それでも、今まで見えなかった情報の流れが、少しだけ形を持ち始めていた。


     *


 市場から戻る途中、リアが一軒の屋台の前で足を止めた。


 そこには、試作品と書かれた傷のあるアクスタが並んでいた。


 以前からカルテル側の屋台に置かれている、制作途中の失敗作らしい品だ。


 リアはしばらく眺めていたが、販売員に断ってから、一つを手に取った。


 透明板の端には傷があり、台座にも削り直したように見える跡がある。


「……やっぱり、何か違う気がします」


 隣に来たレジナルドが尋ねた。


「何がですかな?」


「資料庫で見た未完成の作品と、少し似ているんです。途中で止まったものとか、何度も描き直した跡があるものとか」


 リアは品物を見つめた。


「でも、あそこにあったものは、完成していなくても、その人が何をしようとしていたのかなって考えられたんです」


「ふむ」


「こっちは、失敗した跡に見えるようにしている気がして……」


 リアは言いかけて、首を振った。


「でも、私がそう感じるだけかもしれません。実際に作っているところを見たわけじゃないですし」


 レジナルドは静かに頷いた。


「それでよいのではありませんかな」


「え?」


「分からないものを、急いで答えにしなくてもよい。気になるなら、その違和感を残しておけばよいのです」


 リアはもう一度、傷のある透明板を見た。


 作られた傷と、残ってしまった傷。


 見た目は似ていても、そこにどんな時間があったのかまでは分からない。


 リアは品物を元の場所へ戻した。


「……はい。覚えておきます」


 レジナルドは微笑んだ。


 オタクミは二人の話を、少し離れたところで聞いていた。


 分からないものを、分からないまま残しておく。


 それは、以前の自分には苦手なことだった気がした。


     *


 その夜、プライス・カルテルの王都側拠点には、配送に関する報告が届いていた。


 北市場では、通常より多くの商品が送られた。


 南市場では、一部の屋台で補充が追いつかなかった。


 ケインは報告書へ目を通した。


「需要予測は?」


 部下が別の紙を差し出す。


「北市場で客足が増えるという情報がありました。ただ、実際の動きとは一致していない部分もあります」


「情報の出所は?」


「市場から集められた資料の一部だと報告されています。詳細は確認中です」


 ケインは紙を見比べた。


 不確かな需要情報が、商品の配分を変える判断材料になっている。


 それ自体は、珍しいことではない。


 だが、今回は気になる点があった。


 正規店側の一行が、製作者名と製作日の表示を確かめていたこと。


 その後、市場の情報がどう動くかを調べているような行動が報告されていること。


 そして今日、予測と実際の客足に食い違いが生じていること。


「……そうか」


 ケインは小さく呟いた。


 部下が尋ねる。


「何か?」


「市場の情報を、逆に利用された可能性がある」


 部下の表情が変わった。


「では、回収の経路を変更しますか?」


「すぐには変えるな」


「ですが、また利用されるかもしれません」


「そうだろうな」


 ケインは否定しなかった。


 経路を閉じれば、似た仕掛けを防ぎやすくなるかもしれない。


 だが、いま閉じる必要があるかどうかは、別の話だった。


「しばらく様子を見る。異常が続くなら、改めて判断する」


「承知しました」


 部下が一礼して去った。


 ケインは、もう一度報告書へ目を落とした。


 正規店側の異邦人。


 市場の動きを確かめていた男。


 その名前を見つめる。


「……そういうところは、昔から変わらないな」


 声に出したあと、ケインはしばらく黙っていた。


 口元に浮かびかけた笑みは、すぐに消えた。


 懐かしいだけの記憶ではない。


 それでも、確かめたいことがある。


 ケインは報告書を閉じた。


     *


 翌朝。


 宿へ、小さな包みが届いた。


 差出人の名はない。


 オタクミは不思議そうに包みを受け取った。


「……俺宛て?」


 宿の者は頷いた。


「そう聞いております」


「誰から?」


「分かりません。預かったものですので」


 オタクミは包みを見た。


 特に大きなものではない。


 中には、薄い紙が一枚入っているようだった。


 共用部屋へ戻ると、セラが顔を上げた。


「何それ?」


「俺にも分からん」


「開けるの?」


「……まあ、俺宛てらしいし」


 オタクミは包みを慎重に開いた。


 中に入っていたのは、一枚の絵だった。


 描かれているのは、見慣れない服を着たキャラクター。


 顔の中でも、眼だけが極端に大きい。


 瞳には細かな光が描き込まれ、虹彩にはいくつもの色が重ねられている。


 見る者の視線を、真っ先に眼へ引き寄せるような絵だった。


「……眼、でかいな」


 オタクミは思わず呟いた。


 セラが横から覗き込む。


「本当ね。最初から眼を見せたい絵って感じ」


 リアも興味深そうに近づいた。


「嫌いなんですか?」


「いや、嫌いってわけじゃない」


 オタクミは首を振った。


「こういうのが好きな人もいるだろ。眼を大きくして感情を見せる絵柄だってあるし。俺が好きかどうかと、その人が好きかどうかは別だよ」


 言いながら、オタクミは絵を見つめた。


 妙に懐かしい。


 それも、ただ見覚えがあるという程度ではなかった。


 胸の奥に、遠い日の空気が広がっていく。


 夕方の教室。


 窓から差し込む光。


 古い机の上に広げられた漫画。


 その横で、楽しそうに説明する友人。


 眼の大きなキャラクターが描かれたページを指さし、何が魅力なのかを熱心に語っていた。


「……ケイスケ」


 名前が、自然に口から出た。


「誰?」


 セラが尋ねた。


「高校の頃の友達」


 オタクミは絵から目を離さず答えた。


「俺の知らない古い作品を、いろいろ教えてくれた奴でさ。好きな作品の話になると、すごい勢いで説明するんだ」


 思い出す。


 昼休みに机を寄せて話したこと。


 帰り道で、どうでもいいことを言い合ったこと。


 ケイスケが「これ絶対好きだと思う」と作品を薦めてきたこと。


「……今考えると、あいつも布教する側だったんだな」


 オタクミは少し笑った。


 だが、もう一度絵を見た時、別の記憶が浮かんだ。


 ケイスケが大切にしていた作品。


 大きな眼のキャラクター。


 その魅力を話してくれた友人。


 そして、自分の声。


『眼、でかすぎない?』


 軽い冗談のつもりだった。


 オタクミはそう言って、笑った。


 ケイスケがその時、何と返したのか。


 今では、はっきり思い出せない。


 ただ、あの絵を好きだと話していたことだけは覚えている。


「……俺、笑ったんだ」


 オタクミは小さく呟いた。


「え?」


 セラが聞き返す。


「昔、ケイスケが好きだった絵を見てさ。眼が大きすぎるって、笑ったことがある」


 オタクミは絵を見つめた。


「俺は、軽い冗談のつもりだったんだ。でも、あいつは本当に好きだったんだよな」


 その時、ケイスケがどう思ったのかは分からない。


 気にしなかったのかもしれない。


 嫌だったのかもしれない。


 自分には、そこを確かめた記憶がなかった。


「……今なら、あんな言い方しないと思う」


 オタクミは呟いた。


「もっと、何が好きなのか聞けばよかったな」


 リアは何も言わず、隣で絵を見ていた。


 オタクミは、少しだけ懐かしそうに笑った。


「社会人になってから、だんだん連絡取らなくなっちゃったけどさ。たまに思い出してたんだ。元気かなって」


 絵の中の大きな眼が、こちらを見つめている。


「……もしまた会えたら、あの時のこと、謝りたいな」


 そう言ってから、オタクミは絵を裏返した。


 そこには、一文だけ書かれていた。


『今度は、笑わないんだな』


 オタクミの手が止まった。


 さっきまで、遠い日の記憶だったものが、急に目の前へ引き寄せられた。


 セラが紙の裏を覗き込む。


「……何これ」


 オタクミは答えなかった。


 大きな眼。


 高校時代。


 ケイスケ。


 そして、自分が言った言葉。


 偶然にしては、近すぎる。


「これ……今の話とつながってるの?」


 セラが尋ねた。


「……分からない」


 オタクミは正直に答えた。


「でも、昔のことを知ってるみたいな書き方だ」


 ゴルドスが低い声で尋ねる。


「そのケイスケという者に関わる話なのか?」


「……そうかもしれない」


 オタクミは絵を見た。


 まさか。


 そんなはずがない。


 この世界に、ケイスケがいるなんて。


 けれど、送り主の分からない包みに、こんな絵と文章が入っていた。


 何か理由があるのかもしれない。


 誰かが、あの頃のことを知っているのかもしれない。


「……ケイスケ?」


 小さく名前を呼んでみた。


 答えはない。


 誰が送ったのか。


 なぜ、今なのか。


 何を伝えようとしているのか。


 分からないことばかりだった。


 オタクミは絵を丁寧に机へ置いた。


 捨てる気にはなれなかった。


 もし、本当にケイスケが関わっているのなら。


 聞きたいことはいくつもある。


 でも、その前に。


 ずっと遅くなってしまった言葉を、いつか伝えたい気がした。


 ――あの時は、悪かった。


 オタクミは、もう一度絵を見た。


 大きな眼のキャラクターは、何も言わずにこちらを見つめていた。

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