推す理由まで売る
翌朝の王都アストリアの市場は、昨日よりも賑やかだった。
店先から客を呼び込む声が飛び交い、荷車が石畳を軋ませながら進んでいく。焼きたてのパンの香りも、買い物客の笑い声も、いつもと変わらない。
けれど、オタクミは市場へ足を踏み入れてすぐ、妙な違和感を覚えた。
「こちらは若手職人エダンが手掛けた限定品です! 商品だけでなく、ぜひ作り手の話も聞いていってください!」
安価なミスティアのアクスタを並べた屋台から、聞き慣れない呼び込みが響いていた。
これまでは値段の安さを強調する声ばかりだったはずだ。ところが今日は、商品の隣に椅子が置かれ、一人の青年が客の前に座っている。
年の頃は二十代前半だろうか。着慣れた作業着の膝には擦れた跡があり、青年は少し緊張した様子で指を組んでいた。
その前には、商品の値札より大きな札が立てられている。
『病気の父を支えながら、夜ごと制作を続ける若き職人』
下にはエダンという名前と出身地区、職人になった時期、将来の夢まで細かく書き込まれていた。
「……何だ、あれ」
オタクミが呟いた時、年配の女性が足を止めた。
「まあ、お父様がご病気なの?」
青年は顔を上げ、戸惑ったように笑った。
「……ええ、家のこともありますから。でも、作る仕事は好きなんです」
「それは大変ねえ」
女性が目を細めると、販売員が机の上からアクスタを持ち上げた。
「こちらは職人を応援するための商品でもあるんです。お買い上げいただいた代金の一部は、制作に関わる職人たちの支援へ回ることになっています」
「そうなの。じゃあ、二ついただこうかしら」
女性は商品を軽く眺めたものの、仕上がりを詳しく確かめることはなかった。
硬貨が置かれ、青年が慌てて立ち上がる。
「ありがとうございます!」
「頑張ってね。お父様もお大事に」
女性は満足そうに微笑み、買った品を大切そうに袋へしまった。
オタクミは、その背中を見送った。
女性が青年を気遣っていたのは、確かだと思う。青年の礼にも、少なくともその場では嘘らしいところは見えなかった。
ただ、札に書かれた経歴がどこまで事実なのか、販売員が説明した支援が実際にどう行われるのかは、外から見ているだけでは分からない。
「昨日と、売り方が違うな」
アーグが言った。
「ああ。……しかも、一軒だけじゃない」
オタクミが見渡すと、少し先の屋台にも似た札が立てられていた。
『十年間、夢を諦めなかった装飾職人』
さらに隣には、兄弟だという二人の似顔絵が飾られている。
『故郷の孤児院を支えたい、若き兄弟職人』
どの屋台も、商品と同じくらい作り手の名前や経歴を目立たせていた。
オタクミの脳裏に、昨日、正規店の前へ置いた札が浮かんだ。
――買わなくていいので、聞いてください。
あの時は、商品の違いを知ってもらうため、職人のドニに協力してもらった。作った人が自分の言葉で説明し、客が納得して買うこともあれば、説明だけ聞いて帰ることもあった。
ところが今、目の前では、職人自身の人生が客を引きつけるための看板になっている。
「……昨日のこと、見てたのかな」
リアが小さく言った。
「どうだろうな。もともと準備してた可能性もあるし」
オタクミは答えたが、胸の奥が落ち着かなかった。
真似しただけだと言うには、ずいぶん用意がいい。
「もう少し見てみよう」
アーグの言葉に、皆が頷いた。
*
市場の奥へ進むと、新しい売り方はさらに分かりやすくなった。
ある屋台では、販売員が小さな紙を客へ配っている。職人の名前、出身地、好きな食べ物、仕事で大切にしていること。裏面には将来の夢と、支援制度についての説明まで載っていた。
「プロフィールカードじゃねえか……」
オタクミは思わず呟いた。
「何、それ?」
セラが覗き込む。
「俺の世界にも似たようなのがあるんだよ。好きな人やキャラのことを、もっと知ってもらうための紹介カード。誕生日とか好物とか、本人を好きな人なら知りたくなる情報が載ってたりするんだ」
「へえ。じゃあ、これも同じなの?」
「似てる。でも……」
言いかけたところで、近くにいた若い女性が紙を胸元へ引き寄せた。
「この人、私と同じ町の出身なんだって」
隣の友人が覗き込む。
「本当だ。今度、自分のお店を持ちたいんだね」
「知らなかったなあ。ちょっと見ていこうよ」
二人は職人の紹介された屋台へ向かい、販売員と話し始めた。
女性は品物をいくつか見比べてから、アクスタを一つ選んだ。友人は買わなかったが、紹介カードを持ち帰ることにしたらしい。
「……買ったな」
オタクミが言うと、セラは頷いた。
「同じ町の人だったのが嬉しかったんでしょうね」
「そうだな。知らない人が、急に応援したい相手になった」
オタクミは配られている紙を見つめた。
名前だけの職人に、故郷があり、好きな食べ物があり、夢がある。
それを知れば、親しみが湧く。
その気持ちは、よく分かった。
ミスティアだって、見た目だけなら興味を持たなかった人が、物語や歌を知って好きになることがある。
何が好きなのか、何を目指しているのか。そんな話を聞くだけで、昨日まで知らなかった誰かを応援したくなることもある。
だからこそ、次の屋台で見つけた札に、オタクミは思わず足を止めた。
『お友達にも職人を紹介して、一緒に応援しよう!』
札の下には、紹介した友人が商品を購入すると、次回の買い物で割引を受けられると書かれていた。配られている紙には、紹介した人数を書き込む欄まである。
「……おいおい。そこまでやるのかよ」
販売員は若い客に、愛想よく説明していた。
「気に入った職人さんがいたら、お友達にも教えてあげてください。紹介された方がお買い上げになると、こちらの割引を受けられます」
「じゃあ、友達を連れてきた方がお得なんだ?」
「ええ。皆さんで応援していただければ、職人たちの励みにもなりますから」
客は嬉しそうに紙を受け取り、誰を誘おうか相談しながら去っていった。
「……これ、布教だ」
「また、お前の世界の言葉か?」
アーグが尋ねる。
「ああ。好きなものを人に薦めて、知ってもらうことだよ。この作品いいぞとか、このキャラ最高だぞとか、そういう話を友達にすること」
「お前はよくやっているな」
「よくやってるどころか、俺の人生の重要な活動の一つだぞ」
「胸を張って言うことなのね、それ」
セラに呆れられたが、オタクミは笑えなかった。
好きなものを誰かに薦める。
相手が興味を持ってくれたら嬉しいし、実際に好きになってくれたらもっと嬉しい。
けれど、目の前の仕組みでは、紹介した人数も、紹介先の購入も、次の割引へつながっていた。
好きになってほしいという気持ちと、得をしたいという気持ちが、一枚の紙の上で結びつけられている。
「……推す理由まで売ってやがる」
オタクミが呟くと、リアが顔を上げた。
「推す理由、ですか?」
「この人を知ってほしい。頑張ってるから応援してほしい。友達にも薦めたい。そう思うための材料を、向こうが全部用意してるんだ」
オタクミは紙を指さした。
「しかも、薦めれば自分にも得がある。応援することと買い物することが、最初から一つの仕組みになってる」
セラは少し考えた。
「でも、本当に応援したくて紹介する人もいるでしょ。それ自体が悪いとは思わないけど」
「……うん。それは俺もそう思う」
だからこそ、嫌な気分を簡単には説明できなかった。
*
「だが、昨日のお前がやったことと、何が違う?」
アーグの問いに、オタクミは足を止めた。
「いや、違うだろ。俺たちは……」
反射的に言い返そうとして、言葉が続かなかった。
昨日、オタクミたちも正規品を作った職人を客の前に出した。
ドニが制作工程を説明すると、今まで気づかなかったことに興味を持つ客がいた。少年が職人の仕事を褒め、その話を聞いた母親は正規品を一つ買ってくれた。
七人が買ってくれたことも、嬉しかった。
商品の背景を知ってもらえば、客の判断が変わる。
それを期待していなかったと言えば、嘘になる。
「……俺たちだって、知ってもらうことで売れたんだよな」
「そうだ」
「でも、ドニさんに苦労話をしてもらったわけじゃない。聞くだけで帰った人も責めなかったし、安い方を選ぶって言った人にも、無理に売ろうとはしなかった」
「それも事実だろう」
アーグは頷いた。
「だから、まったく同じとは言わん。ただ、作り手を前へ出し、その人について知ってもらえば、商品の見え方は変わる。そこは共通している」
オタクミは黙った。
目の前の売り方を嫌うあまり、昨日の自分たちだけは特別だったと言い切りたくなっている。
だが、それは違う。
「紹介したら割引になるって仕組みだって、それだけで悪いわけじゃないんだよな」
「そうね。気に入ったものを教えてもらえて、買った人も喜ぶなら、いいことじゃない?」
セラは答えた。
「それに、職人さんへ本当にお金が届くなら、応援できるのも嬉しいと思うわ」
「……うん」
オタクミは最初の屋台を振り返った。
エダンは、別の客に向かって何度も頭を下げている。客も笑顔だった。
その姿を見て、あの青年を責める気にはなれなかった。
「俺が気になってるのはさ、あの紹介文がどこまで本当なのか、今の俺たちには分からないってことなんだ」
「職人さんの話?」
リアが尋ねた。
「ああ。あの人がどんな仕事をしたのかも、売上の一部がどう渡るのかも、俺たちは確かめてない。嘘だって決めつけるつもりはないけど、書いてあることを全部知ってるつもりになるのも違うだろ」
アーグは頷いた。
「そのうえで、紹介すれば得になる仕組みまである。客がその職人を好きになった理由と、商品を買う理由が、絡み合っているわけだな」
「そういうことだ」
オタクミは紹介カードを見た。
「昨日は、何を知って選ぶかを考えた。今日は、その知るための情報まで売る側が用意してる」
リアが小さく息をついた。
「……そう言われると、難しいですね」
「だろ?」
「でも、あの人たちが嬉しそうなのも、本当だと思うんです」
リアはエダンの屋台へ目を向けた。
「昨日のドニさんみたいに、作ったものを褒められたら嬉しいでしょうし、頑張ってって言われたら、励みになると思います」
オタクミは頷いた。
それも、間違いではない。
どこまでが自然な応援で、どこからが売り手の都合なのか。
今は、はっきり線を引けなかった。
「……だから厄介なんだな」
アーグが静かに言った。
誰も反論しなかった。
*
アーグは客を装い、職人紹介の紙を配っている屋台へ近づいた。
オタクミたちは少し離れて様子を見守る。
「この職人紹介、面白いですね。前からやっていたんですか?」
「いえ、今朝からですよ」
販売員は愛想よく答えた。
「作った人のことも知ってもらおうってことで、新しい売り方になったんです」
「ほかの店でも似たような紙を見かけましたが、皆さんで相談されたんですか?」
「さあ、俺はそこまでは。今朝、店に紙と説明が来たんですよ。これを使って案内するようにって」
「なるほど。職人の方には、売上の一部が渡るそうですね」
「そう聞いてます。詳しい取り決めは、店を仕切っている者に確認してもらわないと分かりませんが」
「そうですか。ありがとうございます」
アーグは紙を一枚受け取り、屋台を離れた。
販売員はすぐに次の客へ声をかけ始めている。
「どうだった?」
オタクミが尋ねる。
「少なくとも、あの店では今朝から始めたらしい。販売員は渡された説明を使っているだけで、支援制度の詳しい仕組みまでは知らないようだ」
「じゃあ、上の誰かがまとめて決めたってことか?」
「その可能性は高い。ただ、誰がいつ準備したのかまでは分からん。もともと作ってあった紙を、今日から使い始めただけかもしれない」
アーグは受け取った紙を広げた。
別の屋台で配られていたものと、構成がよく似ている。
「少なくとも、複数の屋台で共通した売り方が始まったことは確かだ。そして、もう客の反応が出ている」
オタクミは市場を見た。
紹介カードを持った若者が友人を連れて戻ってくる。販売員が職人を紹介すると、友人は興味深そうに話を聞き、商品を一つ手に取った。
買うかどうかはまだ分からない。
それでも、昨日までは別の場所を歩いていたはずの客が、紹介をきっかけに屋台の前へ来ている。
「……宣伝してるのが、店の人だけじゃなくなってるんだな」
「ああ。客自身が次の客を連れてくる。売り手にとっては大きな力になる」
「こっちは昨日、三十二人と話して、七人に買ってもらったところなのにな」
「比べるには条件が違いすぎるが、規模の差はあるだろうな」
アーグの返事は冷静だった。
オタクミも、昨日の七人が少なかったとは思わない。
説明を聞いてくれた人たちとのやり取りは、今でも大切な手応えとして残っている。
ただ、向こうはその一人一人が次の客を連れてくる仕組みを作っている。
同じ土俵で客を奪い合うつもりなら、こちらはたちまち置いていかれるかもしれない。
その時、レジナルドが紹介カードを見ながら口を開いた。
「作り手の物語を知ることは、悪いことではありませんな。昨日の職人殿の話も、皆が興味深く聞いておりました」
「はい」
リアが頷いた。
「でも、昨日はドニさんが自分で知っていることを話してくれました。今日は、この紙に書かれたことを誰が確かめたのか、まだ分かりません」
「そうですな。紙があることと、そこに書かれた内容が確かなことは、同じではありません」
レジナルドは紙を丁寧に折った。
「もっとも、だからといって嘘と決めつけることもできませんが」
リアは少し安心したように頷いた。
オタクミは二人の話を聞きながら、昨日のドニを思い出した。
何かを聞くたび、職人は自分の知っている範囲で答えていた。分からないことまで知っているふりはしなかった。
今ここで売られている品についても、確かめられることと、まだ分からないことがあるはずだ。
その区別を忘れたくはなかった。
*
午後になって正規店を訪ねると、店主は帳簿の前で難しい顔をしていた。
昨日、久しぶりに客が正規品を買ってくれた時には、嬉しそうに何度も礼を言っていた男だ。
だが今日は、机の上に通知が広げられ、棚の品を数え直しているところだった。
「どうしたんですか?」
オタクミが尋ねると、店主は顔を上げた。
「ああ、あんたたちか。昨日は本当に助かったよ。だから、次もちゃんと品物を揃えたかったんだが……」
店主は一枚の紙を差し出した。
「次の仕入れが、予定どおりにはいかないらしい」
アーグが受け取る。
正規品を店へ揃えるために必要な品や、制作に関わる取引の一部について、予定していた数量をすぐには用意できないという通知だった。
「今までと同じように頼めないんですか?」
「少なくとも、今回の分はな。いつ揃うのかも、まだはっきりしない」
店主は棚へ目を向けた。
「昨日みたいに売れてくれるのはありがたい。だが、売れた分を補充できなければ、棚は空いていくばかりだろう」
その言葉に、オタクミも棚を見た。
昨日、少年が買っていったミスティアのアクスタ。
あの時、店主は心から嬉しそうだった。
けれど、次の客が来た時、同じ品が残っているとは限らない。
「配送も少し厄介でな」
店主は別の通知を示した。
「小口の荷物は、当面予定が変わるかもしれないそうだ。品物が用意できたとしても、いつ届くか分からんのでは困る」
アーグは二枚の通知を見比べた。
「取引先や配送側から、詳しい理由は聞いていますか?」
「在庫の都合だの、荷の扱いが変わっただの、説明はあったよ。ただ、どれも向こうの事情だからな。うちが何か言ったところで、すぐ変わる話でもない」
店主は苦く笑った。
「昨日は、少し希望が見えたと思ったんだがね」
その声に、オタクミは胸の奥が重くなるのを感じた。
客が品物を知り、気に入って買ってくれても、次の商品を用意できなければ店は続けられない。
作る人がいて、運ぶ人がいて、売る人がいて、ようやく客が選べる。
昨日は、その最後の部分を考えていた。
今日は、それより前のところで問題が起きている。
「……カルテルが関わってるのかな」
オタクミが小声で言うと、アーグはすぐには答えなかった。
「可能性はある。カルテルが市場の在庫や輸送に強い影響力を持つのは、これまでにも見てきたことだ」
「でも、今の通知だけじゃ分からない?」
「ああ。実際に在庫が足りないのかもしれんし、配送に別の事情があるのかもしれない。原因を確かめずに決めつけるのは危険だ」
オタクミは頷いた。
今朝から始まった職人紹介。
客を呼び込む紹介制度。
正規店に届いた仕入れと配送の通知。
同じ市場で起きている以上、気にはなる。
しかし、同じ日に起きたからといって、すべてが一つの指示で動いているとは限らない。
「それでも、店にとっては困るよな」
「当然だ」
アーグは店主の帳簿へ目を向けた。
「売れた品を補充できるか分からない。配送予定も定まらない。それでは、次の販売計画を立てにくい」
「そうなんだよ」
店主がため息をついた。
「値下げ競争についていくだけでも大変なのに、品を揃えるところまで不安定になったら、どうしたらいいのか……」
セラが尋ねる。
「今ある品は、まだ売れるんですよね?」
「ああ。今すぐ店を閉めるわけじゃない。ただ、減った分をいつ補充できるか、はっきり言えないのが困るんだ」
店主はそう答え、少し申し訳なさそうに笑った。
その表情を見て、オタクミは一層悔しくなった。
昨日、ドニが制作について話し、客がそれを聞いてくれた時、確かに何かが変わったと思った。
それでも、知ってもらうだけでは解決しない問題がある。
「……なあ、アーグ」
「何だ?」
「もし安い方の店にばっかり客が集まって、ほかの店が続けられなくなったらさ。そのあと客は、どこで買うんだ?」
アーグは少し考えた。
「残った店から買うことになるだろうな」
「そこで値段が変わったら?」
「ほかの店を選べない客は、困るだろう」
オタクミは眉を寄せた。
元の世界にも、赤字を覚悟で客を集め、競争相手が減ったあとで利益を取り戻そうとするやり方があると聞いたことがあった。
だが、今の屋台が実際に赤字なのか、将来値上げするつもりなのかは分からない。
「……そういう狙いだって、あり得るってことか」
「ああ。だが、まだ推測だ。向こうの原価も、長期的な計画も、今は分からん」
アーグは市場の方角へ視線を向けた。
「ただ、品物を買う場所だけでなく、品物を揃える道筋まで少なくなれば、客も店も選べることが減っていく。それは確かだ」
オタクミは昨日の手帳を思い出した。
――それでも、知ってから選べる場所は作れる。
確かに、そう書いた。
だが、選べる場所がなくなったらどうなる。
商品の違いを知っていても、手に入る品が一つしかなければ。
作り手を応援したいと思っても、その人の商品を置く店が残っていなければ。
「……選ぶ前に何を知ってるかだけじゃ、足りないんだな」
オタクミは低く言った。
「選べるものが、ちゃんと残ってるかも考えないと」
腰元から、ゴルドスの声が響いた。
「ずいぶん話が大きくなってきたものだ」
「笑い事じゃねえぞ」
「笑ってはおらん。お前が目の前の値札だけでなく、その後ろまで見ようとしていると言っておる」
「……だったら、最初からそう言えよ」
オタクミがぼやくと、セラが小さく笑った。
だが、すぐに店主へ向き直る。
「昨日みたいに、お客さんが話を聞ける場所をまた作れたらと思ってたんですけど……今は難しそうですか?」
「ありがたい話だよ。ただ、ドニにも仕事があるし、まずは次の品物を揃えられるか確かめないとな」
「そうですよね」
セラは無理に勧めなかった。
店主の事情を聞かずに自分たちのやり方だけを押しつければ、昨日学んだことを忘れるのと同じだ。
オタクミも、すぐに解決策を口にするのはやめた。
「……分かりました。俺たちも、今見えてることをもう少し整理してみます」
「無茶はしないでくれよ」
店主が真剣な顔で言った。
「あんたたちが来てくれたおかげで、昨日は本当に助かったんだ。だからこそ、危ないことまでしてほしくはない」
「……ありがとうございます」
オタクミは素直に頭を下げた。
今ここで約束できることは多くない。
それでも、心配してくれる人がいることは、ありがたかった。
*
店を出ると、市場は午後の賑わいの中にあった。
職人の紹介文を読んで微笑む人がいる。商品を買ったあと、青年に励ましの言葉をかけて帰っていく人もいる。
オタクミには、もうその姿を見て怒ることだけはできなかった。
誰かを応援したい。
頑張っている人に報われてほしい。
その気持ち自体は、オタクミが大切にしてきたものと何も変わらない。
だからこそ、気になる。
その応援は、誰へ届くのか。
客は何を知って、誰を信じて買っているのか。
「オタクミさん」
リアが隣へ並んだ。
「昨日、ドニさんが嬉しそうにしていたのを覚えていますか?」
「ああ。あの男の子に褒められた時だろ」
「はい。今日の職人さんたちも、ああやって応援してもらえたら嬉しいと思うんです」
「……うん」
「でも、紙に書かれていることと、本人がどんな仕事をしているのかは、まだ分かりませんよね」
オタクミは頷いた。
リアは少し考えてから続けた。
「だから、あの人たちが嘘をついているとも思いたくないです。確かめていないのに決めつけたら、昨日のお客さんたちにしてほしかったことと、反対になってしまう気がして」
「そうだな」
オタクミは市場を振り返った。
若手職人エダンの屋台では、青年がまた客に頭を下げていた。
あの青年が本当にどんな仕事をしているのかは、今の自分には分からない。
けれど、だからといって、青年が悪いと決めつける理由もない。
「……今、確かめられたのは、複数の屋台で似た売り方が始まったことと、客がそれに反応してること。それから、正規店の仕入れと配送に困りごとが出てることだな」
アーグが頷いた。
「そうだ。職人紹介の中身や支援金の行き先、仕入れ条件が変わった原因については、まだ分かっていない」
「だったら、次はそこを混ぜずに考えよう」
オタクミは答えた。
今までの自分なら、怪しいと思ったものへすぐ飛びついていたかもしれない。
だが、昨日は買わなかった客にも理由があると知った。
今日も、見えていることだけで全員を決めつけたくはなかった。
「それにさ……」
オタクミは紹介カードを手にした若者を見た。
「俺、好きなものを友達に薦めるのって、すごく楽しいことだと思ってるんだよ。ミスティアを一曲聴いてもらって、悪くないなって言われただけでも嬉しかったし」
「知ってるわよ。そこから一時間くらい説明が続くんでしょ?」
セラの言葉に、オタクミは顔をしかめた。
「一時間は盛りすぎだろ!」
「じゃあ、どのくらい?」
「……作品にもよる」
「ほらね」
皆が笑った。
オタクミもつられて笑ったが、すぐに市場へ視線を戻した。
目の前では、誰かの夢を知って商品を買う人がいる。
そのこと自体は悪くない。
しかし、応援する気持ちを向ける先も、友達へ薦める理由も、売り手が用意した情報によって大きく変わる。
その仕組みを知った今、何も考えずに笑って見過ごすことはできなかった。
「……俺の好きまで、勝手に値段だけで決められてたまるか」
オタクミは小さく呟いた。
怒鳴る必要はなかった。
誰かを応援したいという気持ちを、否定するつもりもない。
ただ、その気持ちが何を見て生まれ、どこへ届くのか。
そこだけは、確かめられるようにしておきたかった。
*
その夜、プライス・カルテルの王都側拠点では、市場から集められた報告が整理されていた。
新しい職人紹介に対する客の反応。紹介用の紙を受け取った客が、ほかの客を連れてきたという報告。正規店の前で前日に行われた施策についての記録。
いくつもの情報がまとめられ、机の上へ置かれている。
ケインは、その一枚に目を通していた。
職人の話を聞いて購入した客がいる。
紹介された人物を応援したいと口にした客がいる。
安さとは別の理由で商品を選んだ客もいる。
報告書の中身を追うケインの表情は、ほとんど動かなかった。
少し離れて立つ部下が尋ねる。
「新しい販売方法には、今のところ反応があるようです」
「そうか」
「正規店側でも、昨日は職人を客の前に出していたそうです。似たようなことを考えるものですね」
ケインは報告書を置いた。
「客が欲しがるものは、品物そのものとは限らん」
「……と、おっしゃいますと?」
「安さを求める者には安さを見せればいい。誰かを応援したい者には、応援する理由を示す。それだけのことだ」
部下は納得したように頷いた。
ケインは別の報告へ手を伸ばした。
そこには、正規店の前に置かれた札についての記述があった。
――買わなくていいので、聞いてください。
職人の説明を聞き、それでも購入しなかった客がいたこと。買わない客を無理に引き止めなかったこと。
ケインの指が、その一節でわずかに止まった。
「……買わなくてもいい、か」
「何か?」
部下が顔を上げる。
「いや」
ケインは紙を伏せた。
「引き続き、市場の報告を上げろ。売れた数だけではなく、客が何を見て選んだのかも分かる範囲でな」
「承知しました」
部下が一礼し、部屋を出ていく。
扉が閉まると、ケインは伏せた報告書へもう一度目を向けた。
そこに書かれている男のことを、ケインは知っている。
客の選択を否定せず、買わなかった者まで気にかけたという報告。
以前の姿を知る者にとって、それがどれほど信用できる言葉なのか。
「……今さら」
低い声が、静かな部屋へ落ちた。
ケインは報告書を閉じ、次の書類を手に取った。
市場では今日も、さまざまな理由で商品が買われていた。
値段を見て選ぶ者。
職人の夢に心を動かされる者。
誰かに薦めたいと思う者。
それぞれの理由は違っていても、買い手が動けば売上になる。
ケインは淡々と数字を追った。
だが、机の脇へ伏せた報告書だけは、次の束へ重ねずに残してあった。
買わなくてもいいと書いた男がいる。
その男は、今日も市場で何かを見ていたらしい。
ケインは窓の外へ目を向けたあと、何事もなかったように書類へ視線を戻した。




