推しを担保に その3
水路の向こうで櫂が水を叩き、市場へ続く道では荷車の車輪が石畳を軋ませていた。二つの音が夕暮れの荷場に重なるなか、オタクミは遠ざかる小舟と、今にも市場へ入りそうな荷車を交互に見つめていた。
「……俺たちが今、本当に止めなきゃいけないのは――」
そこまで口にしたものの、続きが出てこなかった。
小舟は、さっきまで荷の積み込みを待っていた船だ。運搬指示の確認が取れず、この荷場からは何も積まないまま岸を離れたが、その行き先を追えば、荷がどこへ運ばれる予定だったのか、何か手掛かりが得られるかもしれない。
もちろん、あの船が管理塔から逃げた人物と関係している証拠はないし、図面筒が積まれていると確認したわけでもない。それでも、ここ数日の調査でようやく掴みかけた糸を、自分の判断で手放すことには抵抗があった。
一方、市場へ向かう荷車には、以前見た粗悪な偽物のアクスタに似た、白く濁った板状の品が積まれている。その先には、商品が届かず店を閉めた人々がいて、何が起きているのか分からないまま客を待たせている店主もいた。
「……くそっ。どっちも気になるんだよ……!」
思わず手帳を握りしめると、隣にいたアーグが静かに頷いた。
「船を追えば、荷の運搬経路について何か分かるかもしれない。ただ、あの船に例の筒がある証拠はない。市場の方は、今まさに荷が動いているから、何が運び込まれるのか確かめられる可能性は高いな」
「……お前なら、どうする?」
「俺の答えで決めるのか?」
「そう言われると嫌だけど、参考くらいにはしたいだろ」
「なら、判断材料だけ渡しておく。どちらを選んでも、もう一方を見失う可能性はある。そこから先は、お前が決めることだ」
「分かってるよ……」
オタクミは唇を噛み、小舟へ目を向けた。水面を進む小さな船影を追っていると、管理塔での火事や、煙に巻かれながら逃走者の行方を探したことが次々に思い出される。
あそこまで苦労して、ようやく北の荷場に辿り着いたのだ。ここで追跡を切り上げれば、また最初から手掛かりを探し直さなければならないかもしれない。
だが、その迷いを断ち切るように、市場の入口から作業員の声が聞こえた。
「おい、そっちにも箱を回してくれ! 客が集まり始めてるぞ!」
荷車の周囲では、運搬の指示を確認しようとする者と、すでに下ろした箱を屋台へ運ぶ者とが入り交じっていた。すべての荷が予定どおり動いているわけではなさそうだが、通りへ入った品物は着実に店先へ並べられている。
市場は、オタクミが迷っている間にも変わり始めていた。
「……なあ、セラ」
「何?」
「さっき、商品が届かないって困ってた店主さんがいたよな」
「ええ。お客さんを待たせてしまったって、申し訳なさそうにしてたわ」
「そのすぐ近くで、別の荷がこんなに運び込まれてるんだよな」
セラは市場への道を見つめ、表情を曇らせた。
「同じ市場なのに、商品が届かないお店もあれば、どんどん運び込まれるお店もある。その理由はまだ分からないけれど、困っている人がいるのは確かね」
オタクミは頷いた。
図面筒を追うことは大切だ。管理塔で何が起きたのか、逃げた人物は誰なのか、まだ解かなければならない謎はいくつも残っている。
けれど、あの小舟を追ったところで、必ず答えが得られるとは限らない。それに対して市場では、目の前で何かが進行している。そこにいる人々は、オタクミたちの調査が終わるまで待っていてはくれない。
「……船は、今は追わない」
口にした瞬間、セラが驚いたように振り向いた。
「いいの?」
「よくない! めちゃくちゃ惜しいし、正直、今からでも追いかけたい!」
勢いよく言い返した途端、喉の奥がひりついた。思わず咳き込むと、アーグが呆れたように水を差し出してくる。
「だから無理に叫ぶな。まだ煙を吸った影響が残ってるんだろう」
「……げほっ。分かってるけど、今のは叫ばずにいられないだろ……!」
水を一口飲み、呼吸を整える。喉の痛みが少し落ち着いたところで、オタクミはもう一度小舟を見た。
船はすでに岸から離れ、夕暮れの水路を下っている。あの先に手掛かりがあるかもしれないと思うと、今でも足が動きそうになった。
それでも、オタクミは市場へ向き直った。
「図面に何が書いてあるのかも分からないまま追いかけて、その間に目の前の市場が変えられたら……それこそ本末転倒だろ。俺は、今ここで何が起きているのかを確かめたい」
アーグはしばらくオタクミの顔を見つめ、それから小さく頷いた。
「分かった。なら、市場を調べよう」
「私も賛成よ。あそこで困っている人たちのこと、ちゃんと知りたいもの」
セラの言葉に、オタクミは少しだけ肩の力を抜いた。
「……ありがとな、二人とも」
「礼は調べ終わってからでいい。それと、馬を忘れるなよ」
「あっ」
オタクミは思わず振り返った。三頭の馬は荷場の脇に繋いだままで、灰色の馬は何事もなかったようにこちらを見ている。
「……危なかった」
「お前が大切な推しを担保に預けてまで借りた馬だぞ。忘れるとは、なかなか豪胆ではないか」
「忘れてない! ちょっと意識から抜けかけただけ!」
「それを世間では忘れかけたと言うのだ」
ゴルドスの指摘に言い返しながら、オタクミは馬のところへ戻った。
アーグが荷場の者に声をかけ、市場へ短時間向かうことを伝えると、三頭の馬を目の届きやすい場所へ繋ぎ直した。長引くようなら途中で様子を確認する必要があるが、少なくとも馬を置き去りにしたまま追跡へ走り出すよりはずっと現実的だった。
「悪いけど、ちょっと待っててくれな」
オタクミが灰色の馬の鼻先を撫でると、馬は静かに鼻を鳴らした。
その様子を見て、ふと痛バッグへ視線を落とす。いつもあるはずのミスティアの缶バッジが一つ欠けていて、そこだけ妙に寂しく見えた。
「……明日の夕方までには、絶対に返すからな」
「返却後の状態確認と精算も忘れるなよ。あれを済ませなければ、預けた品は戻らないんだろう?」
「分かってるって! 推しがかかってるんだから、そこは絶対に忘れない!」
「その割には、馬の方を忘れかけていたが」
「だから忘れてないって!」
セラがくすくす笑いながら二人を促し、三人はようやく市場へ向かった。
◇
「さあさあ! 今日だけの特別価格だよ! ミスティアのアクスタ、大量入荷! 今なら昨日の半値!」
市場へ入った途端、威勢のいい呼び声が飛び込んできた。
通りの入口に並ぶ屋台には新しい値札が掲げられ、その前で客たちが足を止めている。荷車からは次々と木箱が運び込まれ、すでに商品が並んでいる屋台の裏でも、次の箱を開ける作業が続いていた。
「……半値?」
オタクミは目を疑い、値札へ顔を近づけた。
一度見て、もう一度見る。数字は変わらない。
「いやいやいや、ちょっと待て! ほんとに昨日の半分じゃねえか!」
「値札にはそう書かれているな」
アーグが隣から覗き込む。
「ここまで下げて大丈夫なのか? 材料費とか、運ぶ金とか、いろいろあるだろ」
「仕入れ値も製造費も分からん以上、採算が取れているかどうかは判断できない。ただ、昨日までの価格を知っている客にとっては、相当な値下げに見えるだろうな」
実際、その言葉を裏付けるように、通りを歩いていた客たちが次々と値札に反応していた。
「昨日より安いじゃないか」
「この値段なら、一つ買って帰ろうかな」
「うちの子も欲しがってたのよね」
最初は数人だった人だかりが、気づけば屋台の前に小さな列を作っていた。売り手が商品を渡すたびに客が入れ替わり、空いた木箱はすぐ後ろへ下げられる。
「おい、次の箱を開けてくれ!」
「こっちはまだ残ってるぞ!」
「隣にも回す分があるんだろ! 先に分けてくれ!」
荷を運ぶ男たちは忙しそうに行き来し、通路の端では別の屋台が同じような箱を開けていた。さらにその先でも、新しい値札を取り付けている店が見える。
オタクミは思わず立ち止まった。
「……一軒だけじゃないのか」
「ああ。この通りだけでも、複数の店に似た商品が入っている」
アーグも周囲を見回していた。
「しかも、客の流れが変わり始めているな」
言われてみれば、確かにそうだった。
それまで市場の奥へ向かっていた客が値札を見て引き返し、別の店へ入ろうとしていた人まで、安売りの声につられて足を止めている。狭い通りの流れが屋台の前で滞り、その横を木箱を抱えた作業員がすり抜けていった。
安く売るという、ただそれだけの行為が、こんなにも簡単に人の動きを変えてしまう。
「……すげえな」
オタクミが呟くと、セラが通りの向こうを指した。
「あのお店、さっきはお客さんがいたのに、今は誰もいないわ」
指された先には、正規品を扱う小さな店があった。
店先には綺麗なアクスタが並び、明かりも灯っている。それでも、客の多くは店の前を通り過ぎ、安売りの屋台へ吸い寄せられるように向かっていた。
その光景を見たオタクミの胸に、重たいものが広がった。
「……まずは、あっちの商品を見てみよう」
そう言って、安売りの屋台へ足を向けた。
◇
「すみません。これ、一つ見せてもらっていいですか?」
「もちろん! 気に入ったら買っていってくれよ。今が買い時だからな!」
売り手は笑顔でアクスタを差し出した。
受け取ったオタクミは、印刷されたミスティアの姿をじっと見つめる。衣装の形や髪飾りの位置は一見それらしく、遠目には普通の商品と区別しづらいかもしれない。
しかし、手元へ近づけると違いが分かった。
透明なはずの板の縁が白く濁り、細かな印刷線がところどころ潰れている。髪飾りの輪郭も曖昧で、台座との接合部分には微妙な粗さがあった。
「……ああ、やっぱり」
思わず漏れた声に、アーグが顔を寄せる。
「何か分かったか?」
「前に見た偽物と、作りがよく似てる。ほら、この縁の濁り方とか、印刷の細かいところとか」
オタクミは声を落としながら、ミスティアの瞳の部分を示した。
「ここ、本当はもっと細い模様が入ってるんだよ。髪飾りも、こんなに輪郭がぼやけてない」
「なるほど。台座の仕上げも、以前確認した粗悪品に近いな」
アーグは頷いたが、すぐに付け加えた。
「ただし、これだけで製造元まで同じだとは言えんぞ。他の箱に入っている品が全部同じかどうかも、まだ確認していない」
「分かってる。けど、少なくともこれが正規品と同じ品質じゃないのは確かだ」
オタクミはもう一度アクスタを見つめた。
大好きなキャラクターだからこそ、小さな違いが気になってしまう。ほんのわずかに潰れた線も、輪郭のぼやけた髪飾りも、知らない人には大した問題ではないのかもしれない。
けれど、何度も見てきたオタクミには、その違いがはっきりと分かった。
「どうだい、気に入ったか?」
売り手に声をかけられ、オタクミは我に返った。
「あ、ありがとうございます。ちょっと考えます」
「そうかい! 気が変わったらまた来な!」
商品を返すと、売り手はすぐに次の客へ向き直った。
オタクミは少し離れた場所で手帳を開き、確認した特徴を書き留める。板の白濁、印刷の潰れ、接合部分の粗さ。以前見たものとの共通点を整理しながら、ふと目を上げると、屋台の前ではまた新しい木箱が開けられていた。
「……こんなのが、どんどん売れていくのか」
言葉にした途端、怒りに似た感情が湧き上がった。
だが、それを口にする前に、すぐ近くから明るい声が聞こえた。
「お母さん、これ! ミスティアだよ!」
振り向くと、小さな少女が屋台の前で商品を指していた。母親らしい女性は値札を覗き込み、少し驚いたように目を見開く。
「あら、本当に安いわね」
「二つ買ってもいい?」
「二つも?」
「一つは私の! もう一つは妹の!」
女性は少し考えてから財布を開いた。
「この値段なら、二人分買ってあげられるわね」
「やった!」
少女は嬉しそうに袋を受け取り、何度も中を覗き込んでいた。きっと家へ帰れば、妹と一緒に飾る場所を考えるのだろう。その姿が、オタクミには容易に想像できた。
「……嬉しそうだな」
隣でセラが呟く。
「うん」
「安く買えたのは、あの子たちにとって良いことなのかもしれないわね」
「……そうだな」
オタクミは頷いたものの、複雑な気持ちは消えなかった。
以前なら、偽物なんか買わないでほしいと、真っ先に腹を立てていたかもしれない。けれど、今目の前にいる少女は、妹とおそろいのミスティアを手に入れられたことを心から喜んでいる。
その気持ちまで間違っているとは、とても言えなかった。
「……でもさ、これがすぐ壊れたりしたら悲しいよな」
「そうね。せっかく大切にしようと思って買ったものだもの」
「安く買えて嬉しいのは分かるんだよ。俺だって推しグッズが安くなったら飛びつきたくなるし」
「お前の場合、安くなくても飛びつくだろう」
アーグの指摘に、オタクミは思わず顔をしかめた。
「今、余計なこと言った!」
「否定はせぬのだな」
「できるか!」
ゴルドスにまで笑われ、オタクミは肩を落とした。
だが、すぐに少女の姿を思い返す。
あの子が買った品が、さっき確認したものと同じ品質かどうかは分からない。ひょっとしたら長く大切にできるかもしれないし、残念な結果になるかもしれない。
それでも、買った瞬間に嬉しかったことだけは確かだった。
「……難しいな」
オタクミは小さく息を吐いた。
「安いのは良いことなのに、あれを見て素直に喜んでいいのか、分からなくなる」
アーグは少し考えてから答えた。
「無理に一つの答えへまとめる必要はないんじゃないか。安く買えて嬉しい客がいるのも事実だし、別の店が困ることもある。まずは、その両方が起きていると知っておけばいい」
「……そうだな」
オタクミは頷いた。
市場へ来る前は、怪しい荷を運び込む者がいて、それを止めればいいと思っていた。だが実際に来てみると、そこにいる人々の事情は想像していたよりずっと複雑だった。
安い商品を喜ぶ客もいる。
その裏で、商品を売れずに困る店主もいる。
どちらの姿も見てしまった以上、片方だけを見なかったことにはできなかった。
◇
通りの向こうにある正規取扱店では、店主らしい男が客に商品を説明していた。
棚からアクスタを手に取った客は、透明な板に印刷されたキャラクターの姿を眺め、裏返して台座を確かめている。店主は別の商品を示しながら、何かを話し始めたところだった。
「こちらも同じ工房の品で、台座の作りが――」
そのとき、向かいの屋台から大きな声が響いた。
「ミスティアのアクスタ、今なら半値だよ!」
客が顔を上げた。
「……半値?」
店主の説明が止まる。
客は手元のアクスタと値札を見比べ、少し迷ったあとで商品を棚へ戻した。
「すみません。ちょっと向こうも見てきます」
「……ええ。どうぞ」
男は無理に引き止めなかった。
客が店を出ると、棚へ戻されたアクスタを手に取り、少し傾いていた台座を丁寧に直す。何気ない動作だったが、それを見ていたオタクミには、妙に寂しく感じられた。
「……今の、説明の途中だったよな」
「ええ。お客さんが値段を聞いて、向こうへ行ってしまったわね」
セラも気づいていたらしい。
オタクミは正規店と安売りの屋台を見比べた。向こうでは客が次々と商品を買っていくのに、こちらでは綺麗に並べられたアクスタが棚へ戻されてしまった。
客が悪いわけではない。安い商品が気になるのは当然だし、予算の都合もあるだろう。
それでも、店主は商品の違いを伝え終えることさえできなかった。
「……ちょっと、あの店の人に話を聞いてみたい」
アーグが頷き、三人は正規店へ向かった。
「すみません。商品を見せてもらってもいいですか?」
「もちろんです。どうぞ」
店主は穏やかに答え、棚を示した。
オタクミはミスティアのアクスタを一つ手に取った。透明な板は澄んでいて、衣装の細かな模様もはっきりと印刷されている。台座との接合部分もしっかりしており、先ほどの屋台で見た品との差は、近くで比べればすぐに分かりそうだった。
「……綺麗だ」
「ありがとうございます」
店主が少し嬉しそうに笑う。
「さっき向こうの屋台も見てきたんですけど、こっちはずいぶん作りが違いますね」
その言葉を聞いた途端、男の笑みがわずかに薄れた。
「……向こうは、相当安かったでしょう」
「はい。昨日の半値って言ってました」
「うちでは、あの値段では売れません」
男の返事は静かだった。
「仕入れた品をそのまま並べるだけではありませんから。傷がないか、台座がきちんとはまるか、そういう確認もしています。もちろん、それだけで値段の違いを説明できるわけではありませんけどね」
「……そういうことって、お客さんには伝わってるんですか?」
オタクミが尋ねると、男はすぐには答えなかった。
店の外からは、安売りを知らせる声が絶えず聞こえてくる。
「聞いていただければ説明できます。でも、説明する前に値段を見て帰ってしまう方もいますから」
「……さっきの人みたいに?」
男は小さく頷いた。
「ええ。安い品を選ぶ方が悪いとは思っていません。皆さん、それぞれ事情がありますし、こちらも無理に高い方を買ってほしいとは言えませんから」
そう言って、男は棚に並ぶ商品へ目を向けた。
「ただ、こちらも商品を仕入れて店を開けています。売れなければ商売を続けるのは難しくなりますし、良い品を置いているつもりでも、それを見てもらえなければどうしようもありません」
オタクミは手元のアクスタを見つめた。
細い線まで鮮明に印刷されたミスティアの姿。綺麗に磨かれた板の縁。台座に差し込んでも、ぐらつきそうにない作り。
これを作った人がいる。仕入れた人がいて、状態を確かめ、客の目に留まるよう並べた人がいる。
それなのに、その違いを伝える前に客が店を離れてしまうことがある。
「……見てもらえないのか」
思わず呟くと、店主は困ったように笑った。
「そういう日もあります」
その言葉に、オタクミは何も返せなかった。
商品の良さを分かっている人が、必死に売ろうとしている。けれど、どれだけ丁寧に作られた品でも、手に取ってもらえなければ、その良さを知ってもらう機会すらない。
「……ありがとうございました」
オタクミはアクスタをそっと棚へ戻した。
「こちらこそ。ゆっくりご覧ください」
男は最後まで穏やかだった。
その態度が、かえってオタクミの胸に残った。
◇
店を出ると、安売りの屋台にはさらに人が集まっていた。
木箱が一つ空くと、すぐ次の箱が開けられ、ミスティアのアクスタが店先へ並べられていく。その流れは、オタクミたちが市場を選んだからといって、少しも止まっていなかった。
「……なあ、アーグ。これ、値下げだけで対抗しても難しいよな」
「少なくとも、同じ条件で価格を競うのは厳しいだろうな。正規品には材料や加工の費用があるし、店を維持するにも金がかかる」
「だよな……」
オタクミは腕を組み、通りを見渡した。
安さを喜ぶ客がいる。商品を売ろうとする人がいて、客が来ずに困っている店主もいる。どちらか一方を悪者にすれば簡単なのかもしれないが、実際にその姿を見てしまうと、そんなふうには考えられなかった。
「さっきの女の子、嬉しそうだったわね」
セラが言った。
「うん。妹の分まで買えたんだもんな」
「正規店の人は困っていたけれど、あの子にとっては値段が下がったことが嬉しかったのよね」
「……そうだな」
オタクミは頷き、ゆっくりと息を吐いた。
「俺さ、今まで偽物を見つけると、腹が立つのが先だったんだよ。何でそんなものを買うんだって、思ったこともある」
セラは黙って聞いていた。
「でも、今日見てたらさ。買った人は、ただ嬉しかったんだよな。ミスティアが欲しくて、安くなったから買えた。それを悪いことだとは思えない」
「ええ」
「だけど、粗悪な商品が本物と同じように売られてるのも嫌だし、ちゃんと作った品を扱ってる店が困ってるのも嫌なんだよ」
オタクミは頭を掻いた。
「……全部、嫌なんだよな」
「欲張りだな、小僧」
ゴルドスが低く笑う。
「そうだよ、欲張りだよ。推しが好きな奴も、作ってる奴も、売ってる奴も、できればみんな笑ってほしいんだ」
「商売で全員を満足させるのは、簡単ではないぞ」
アーグが言った。
「分かってる。価格も品質も違うし、客の事情だってそれぞれだろ」
「なら、どうする?」
問われたオタクミは、すぐには答えられなかった。
あの少女は、妹とおそろいのアクスタを買えたことを喜んでいた。正規店で商品を手に取った客は、値札を見て安売りの屋台へ向かっていった。
どちらも、自分なりに考えて選んだのだろう。
ただ、その人たちが何を知ったうえで選んだのかまでは、今のオタクミには分からなかった。
「……まだ分かんない」
正直に答えると、アーグは少し意外そうに眉を上げた。
「珍しく素直だな」
「珍しくは余計だ!」
反射的に言い返したものの、オタクミはすぐに表情を戻した。
「でも、分かったことはある。俺、今まで偽物を売ってる奴を見つけることばっかり考えてた。何で買うのかとか、買った人がどう思ってるのかとか、ちゃんと見てなかった気がする」
「それなら、まだ確かめることがありそうね」
セラが微笑む。
「ああ。今すぐ答えが出るとは思わないけど、まずはちゃんと知りたい」
そう口にすると、不思議と少しだけ気持ちが落ち着いた。
市場を選んだ理由が、ようやく自分の中ではっきりしてきた気がした。
◇
そのとき、正規店の前で一人の客が足を止めた。
棚に並ぶアクスタを眺め、少し迷ってから一つを手に取る。店主が近づき、商品の説明を始めると、客は興味深そうに耳を傾けていた。
だが、値札を確認した途端、その表情が変わった。
「……やっぱり、少し高いですね」
「ええ。ご予算もあると思いますので、どうぞゆっくりお考えください」
店主は無理に引き止めなかった。
客は少し申し訳なさそうに頭を下げ、商品を棚へ戻すと、向かいの屋台へ目を向けた。
「……あっちも見てきます」
そう言って歩き出した客を、店主は黙って見送った。
そのあとで棚に戻されたアクスタを手に取り、わずかに傾いた台座を直す。慣れた手つきで、傷がついていないか確かめてから、もう一度きれいに並べ直していた。
オタクミは、その一連の動作を見つめていた。
「……なあ、アーグ。今の人、商品を手に取ってたよな」
「ああ」
「店の人も説明しようとしてた。でも、結局値段を見て帰っちゃった」
「そうだな」
「……あの人、本物と向こうの品の違い、知ってたのかな」
アーグは少し考えてから首を振った。
「分からない。知っていて安い方を選んだのかもしれないし、違いを知らなかったのかもしれない。本人に聞かなければ判断できん」
「……だよな」
オタクミは正規店の棚へ目を向けた。
透明なアクスタが、店の明かりを受けて静かに輝いている。店主はあれだけ丁寧に品物を扱っているのに、その違いを客へ伝える時間はほんのわずかしかなかった。
商品を見てもらえれば、何かが変わったかもしれない。
もちろん、違いを知ったうえで安い方を選ぶ人もいるだろう。それは本人が決めることだし、オタクミが無理に変えさせることではない。
けれど、今の客はどうだったのか。
正規店の品にどんな良さがあるのか、十分に知る前に店を出てしまったのではないか。
「……選ぶ前に、終わっちゃってる」
オタクミが小さく呟くと、セラが顔を向けた。
「何が?」
「店の人が伝えたいこと、ほとんど聞いてもらえてないんだよ。商品はあるのに、作りだってちゃんとしてるのに、そこまで見てもらえないまま値段だけで終わっちゃう」
セラは正規店の棚を見つめ、静かに頷いた。
「……そうね」
オタクミはもう一度、向かいの屋台へ目を向けた。
木箱が開かれ、商品が並び、値札を見た客が集まっていく。夕暮れの市場には、安売りを知らせる声と人々の楽しげな話し声が絶えず響いていた。
その光景を見ていると、先ほど自分で選んだことの重さを、改めて感じた。
水路を進む小舟を追わなかったことへの未練は、まだ残っている。図面筒につながるかもしれない手掛かりを、自分の意思で見送ったのだ。
だが、ここへ来なければ、きっと見えなかったものがある。
安く買えて喜ぶ少女の笑顔も、客を見送ったあとで丁寧に商品を並べ直す店主の姿も、遠くから荷車を追っているだけでは知ることができなかった。
「……よし」
オタクミは手帳を開いた。
逃走者、図面筒、荷の移動、食い違う運搬指示、小舟。そして市場で見た大量のアクスタと、商品が届かず困っていた店主のこと。
ここ数日で集めた情報が、何ページにもわたって並んでいる。
新しいページを開くと、オタクミは短く書き込んだ。
――市場を選んだ。
少し考え、続けてもう一行。
――選ぶ前に、何が届いている?
「……何を書いたの?」
セラに尋ねられ、オタクミは手帳を閉じた。
「次に考えること」
アーグが目を細める。
「答えは出たのか?」
「いや、まだ。でも、答えを出す前に、ちゃんと聞かなきゃいけないことがある気がする」
「だったら、聞いてみましょう」
セラが頷く。
「ああ」
オタクミは再び市場を見渡した。
正規店では店主が棚の商品を並べ直している。その向かいでは、新しい木箱が開けられ、値下げされたアクスタを求める客が次々と集まっていた。
同じ通りで、同じキャラクターの商品が売られている。
けれど、そこにいる人々が何を見て、何を考え、何を大切にして選んでいるのかは、それぞれ違うのかもしれない。
そして、その違いをオタクミはまだほとんど知らない。
知らないまま怒っても、きっと何も変わらない。
「……次は、そっちを確かめよう」
オタクミは小さく呟いた。
その視線の先で、また一人の客が正規店の値札を見て足を止め、商品に手を伸ばすことなく安売りの屋台へ歩いていった。
本物の価値が届く前に、客の選択が終わってしまう。
その光景が、いつまでもオタクミの頭から離れなかった。




