推しを担保に その2
荷車の車輪が、ぎしりと軋んだ。
「待って!」
セラが声を上げる。
水路沿いの荷場から動き出そうとしていた荷車が、わずかに速度を落とした。
オタクミは灰色の馬の上で、思わず身を乗り出す。
「さっき、あの布の下に細長い物が見えたんだ!」
「落ち着け」
アーグが隣から声をかけた。
「見えたのは細長い物だけだ。図面筒と決まったわけじゃない」
「分かってる! だから確かめたいんだよ!」
「なら、まず馬を止めろ」
「……それもそうだ!」
三人は荷車の通行を妨げない場所へ馬を寄せた。
セラが先に下り、オタクミの馬の手綱を押さえる。
「ゆっくりね」
「任せろ。もう馬から降りるくらい――」
オタクミは鐙から足を外した。
途端に身体が傾く。
「うおっ!」
慌てて鞍にしがみついた。
「……できるとは言ってない!」
「今、言いかけていたではないか」
腰元のゴルドスが笑う。
「最後まで言ってないからセーフ!」
セラに支えられ、何とか地面へ足をつけた。
アーグは荷場の者に声をかけ、近くの空いた場所へ三頭を移した。作業の邪魔にならないよう、馬の手綱を繋いでおく。
「勝手に走り出すなよ」
オタクミが灰色の馬へ言う。
馬は静かに鼻を鳴らした。
「お前に言われたくはあるまい」
「馬の気持ちを勝手に代弁するな!」
言い返した拍子に咳が出た。
「……げほっ」
喉の奥がまだ痛む。
管理塔で吸った煙の影響は、完全には抜けていない。
オタクミは水を一口飲み、呼吸を整えた。
「大丈夫?」
セラが尋ねる。
「うん。走らなきゃ平気」
「なら、走るなよ」
アーグが言った。
「今日はそればっかりだな!」
「言われなくなりたければ、無茶をするな」
「ぐうの音も出ない!」
◇
「すみません!」
アーグが御者へ声をかけた。
「その荷、どちらへ運ぶんですか?」
御者は手綱を握ったまま、怪訝そうに三人を見た。
「何だ、あんたら」
「この荷場で、運搬先が分からない荷が動いていると聞いた。少し確認したい」
「俺に聞かれても困る」
男は荷台を親指で示した。
「引き取れと言われたから来たんだ。行き先は札に書いてある」
「誰から受け取ったんです?」
セラが尋ねる。
「荷場の奴だよ。顔までは覚えてねえ」
「その札を見せてもらえますか?」
「荷主でもない奴に見せる義務はないだろ」
もっともだった。
オタクミは何か言いかけたが、アーグが手で制した。
「それなら、荷場の担当者に確認を――」
「おい! その荷はまだ動かすな!」
水路側から怒鳴り声が響いた。
作業着姿の男が駆け寄ってくる。
御者は顔をしかめた。
「今度は何だ!」
「その荷は確認待ちだ!」
「もう引き取れって言われたぞ!」
「誰に!」
「そっちの人間だよ!」
「だから、誰だ!」
「名前なんか聞いてねえ!」
二人は睨み合った。
「……何か、話が噛み合ってないな」
オタクミが呟く。
アーグは二人の間へ視線を向けた。
「確認させてください。御者さんには運べという指示が来た。一方、荷場側には動かすなという指示が来ている。同じ荷について、そういうことですね?」
「そうだ!」
「間違いねえ!」
二人が同時に答えた。
「なら、その指示を出した人物へ確認するのが先です」
「それができれば苦労しねえよ!」
作業員が吐き捨てる。
「こっちには確認が取れるまで止めろって言われてる。なのに、別の奴が勝手に運ばせようとするんだ!」
「勝手じゃねえ!」
御者が言い返した。
「こっちはちゃんと札をもらってる!」
御者は懐から折りたたんだ札を取り出した。
「ほら!」
作業員がそれを覗き込む。
次の瞬間、表情が変わった。
「……おい」
「何だよ」
「その札、使うなって言われてたやつだぞ」
「はあ!?」
「今朝から古い指示札は確認し直せって話になってたんだ!」
「そんな話、聞いてねえぞ!」
「こっちは言われたんだよ!」
「だったら、何で札を渡す奴がいるんだ!」
作業員は口を閉じた。
答えられないらしい。
御者も、今度は札を見つめた。
「……まさか、俺に渡した奴が間違ってたのか?」
「それは分からない」
アーグが答えた。
「ただ、指示の確認が取れていないのは確かです」
オタクミは二人の顔を見比べた。
さっきまで互いに怒鳴っていたのに、今はどちらも困惑している。
「……二人とも、違うことを言われただけなのか」
「そういう可能性が高いわね」
セラが答えた。
アーグは御者へ向き直った。
「札に書かれた運搬先が正しくない可能性があります。確認できるまで、この荷を動かさない方がいい」
「……分かった」
御者が手綱を緩める。
「だが、俺はこの荷を運ばないと仕事が終わらねえんだ」
「それは分かります」
セラが頷いた。
「だから、誰が確認できるのか、一緒に探しましょう」
作業員が水路側を指した。
「荷札を管理してる奴なら、向こうにいるはずだ」
三人はそちらへ向かった。
◇
荷場の奥では、木箱や袋が積み直されていた。
荷札を手にした若い男が、記録を見ながら頭を抱えている。
「……またかよ」
男は三人を見るなり、そう言った。
「何があったんですか?」
セラが尋ねる。
「同じ荷に、違う指示が出てるんです」
若い男は記録を指さした。
「荷を出せって指示と、止めろって指示です」
「どちらが新しい?」
アーグが尋ねた。
「それが分からなくて……」
「札に日付は?」
「あります。でも、渡された順番と合わないんです」
オタクミが首を傾げた。
「どういうこと?」
「あとから渡された札の方が、古い日付なんです」
「……え?」
若い男は札を二枚並べた。
一枚には、荷の移動を止める指示。
もう一枚には、港方面へ出すという指示。
どちらにも荷の番号らしいものが書かれている。
だが、確認に使う印が異なっていた。
「こっちは普段使ってる印なんです。でも、もう一枚には見慣れない印があって」
「誰が渡した?」
「分かりません。別の担当者から回ってきたので」
「その担当者は?」
「もう持ち場を離れてます」
若い男は困ったように笑った。
「誰に聞いても、自分の担当じゃないって言われるんです」
オタクミは札を見た。
「……同じ荷なのに、出せと止めろが両方ある」
「そうなんです」
「しかも、どっちが正しいか分からない」
「そうなんです!」
若い男は力強く頷いた。
「それで朝から何度も揉めてて!」
アーグが腕を組む。
「送り先は?」
「北貨物港方面です。ただ、途中で水路側の積み替え場所を経由する指示もあります」
「船に載せるのか?」
「そこまでは聞いてません」
若い男は正直に答えた。
「俺が知ってるのは、ここまでです」
アーグはしばらく考え込んだ。
「……確認できる相手がいないのに、指示だけが増えている」
「ええ」
「しかも、指示同士が矛盾している」
「そうなんです」
若い男は疲れた顔で頷いた。
「もう、どれを信用したらいいのか……」
オタクミは男の表情を見た。
怒っているというより、困っている。
荷物を動かす仕事を任されているのに、何を信じていいか分からないのだ。
「……大変だな」
思わず声が漏れた。
若い男は苦笑した。
「ほんとですよ」
◇
荷場から少し離れたところで、オタクミはアーグを見た。
「……これ、ただの連絡ミスなのかな」
「可能性はある」
アーグが答えた。
「だが、気になる点もある」
「どこ?」
「確認できる人物が、誰にも分からないことだ」
アーグは荷場を振り返った。
「荷を動かす者は運搬先だけを知っている。荷を止める者は停止の指示だけを知っている。札を管理する者は、その両方を渡されて困っている」
「……全員、情報が足りない」
「そうだ」
アーグは少し声を落とした。
「俺がカルテルにいたころにも、似た方法があった」
オタクミは顔を上げた。
「どういうやつ?」
「運ぶ者には道を教える。受け取る者には数だけを教える。中身を知る者は別にいる。情報を分ければ、一人が何かを話しても、全体は分からない」
「……それって、わざと?」
「わざとやる連中はいる」
アーグは頷いた。
「だが、今の荷場が同じ仕組みだとは限らない。単なる混乱かもしれん」
「でも、こんなに食い違ってたら、仕事にならないだろ」
「そこが問題だ」
アーグは険しい顔になった。
「情報を分ける方法は、扱いを間違えれば、仲間同士の信用まで失わせる」
セラが荷場へ目を向けた。
「さっきの人たちも、互いに疑ってたわね」
「ああ」
オタクミは考え込んだ。
同じ仕事をしているはずの人間が、相手の指示を信じられない。
何かを隠しているのではないか。
責任を押しつけようとしているのではないか。
そう考え始めれば、いくらでも疑いは広がる。
「……嫌な仕組みだな」
「利益が一致している間だけ仲間だ、という考え方の連中もいる」
アーグが言った。
「だが、利益を分ける前に情報まで分けられたら、誰が何をしているのか分からなくなる」
オタクミは眉をひそめた。
「……推しじゃなくて商品としてしか見てない奴らって、最後は仲間まで商品みたいに扱うのかな」
ゴルドスが静かに笑った。
「人を値札だけで見る者なら、そういうこともあろう」
「嫌だな、それ」
「だが、今の荷場にいる者が、みなそうとは限らぬぞ」
「……うん」
オタクミは頷いた。
困っている作業員たちは、少なくとも今は目の前の仕事を何とかしようとしていた。
誰かが意図的に混乱させているとしても、その責任を全員に押しつけるわけにはいかない。
「……ちゃんと確かめないとな」
「ああ」
アーグが答えた。
◇
水路沿いの積み替え場所へ向かうと、そこでも口論が起きていた。
「だから、受け取れないって言ってるだろ!」
「こっちには出せって指示が来てるんだ!」
「確認印が違うんだよ!」
「そんなこと、俺に言われても!」
三人は足を止めた。
「……こっちもか」
オタクミが呟く。
セラが男たちへ近づいた。
「すみません。何かお困りですか?」
一人の男が振り返る。
「見りゃ分かるだろ。荷の受け取りができねえんだよ」
「何が違うんです?」
「受け取りの確認が取れないんだ。なのに、運んできた奴は置いていくって言って聞かねえ」
もう一人が言い返す。
「俺はここへ運べって言われたんだよ!」
セラは二人の顔を見比べた。
「その荷は、さっき荷場で止められていた荷車と関係がありますか?」
「……ああ、同じ番号だ」
男が答えた。
「だが、こっちにはまだ受け取るなって指示が来てる」
アーグの表情が変わった。
「同じ番号?」
「ああ」
「それなら、さっきの荷と同じ扱いになっている可能性があるな」
オタクミは目を丸くした。
「……同じ荷が、二つの場所で動いてる?」
「そういうわけじゃない」
アーグが答えた。
「少なくとも、同じ荷番号について、複数の指示が出ているということだ」
オタクミは頭を掻いた。
「……ややこしい!」
「だから困ってるんだよ!」
作業員が言った。
そのとき。
水路側から、船頭らしい男が声を上げた。
「おい! まだ積めないのか!」
小さな荷船が岸に寄せられていた。
船頭は櫂を持ったまま、苛立ったように荷場を見ている。
「確認が取れないんだ!」
作業員が答える。
「だったら、別の荷を積め!」
「そっちも確認待ちだ!」
「……何だと?」
船頭の顔が険しくなった。
「こっちは出発の時間があるんだぞ!」
アーグが水路へ目を向けた。
「……船か」
オタクミも船を見た。
EP107で見た小舟と同じかどうかは分からない。
夕暮れの光では、船の細かな特徴も見えにくい。
ただ、今ここにいる船頭が、荷の積み込みを待っていることは分かった。
セラが呟く。
「水路側まで混乱してるのね」
「ああ」
アーグが答えた。
「運搬先が分かっていても、荷を受け取る側が信用できなければ止まる」
オタクミは船頭を見た。
船頭は岸を見回し、何度も作業員に声をかけている。
「……何か、焦ってるみたいだな」
「出発が遅れているからかもしれん」
アーグが答えた。
「ほかの理由があるかどうかは分からない」
そのとき、船頭が怒鳴った。
「もういい! 確認が取れないなら、こっちは出るぞ!」
作業員が慌てて手を上げる。
「待ってくれ! 荷を積まないまま出られたら困る!」
「俺だって困ってるんだよ!」
船頭は櫂を持ち直した。
小舟が、ゆっくりと岸から離れ始める。
「……あっ!」
オタクミが声を上げた。
「行っちゃうぞ!」
アーグは船を見つめた。
「荷の受け渡し先を確かめる必要があるな」
「追うのか?」
「少なくとも、どこへ向かう船なのかは知りたい」
アーグは作業員へ尋ねた。
「あの船の行き先は?」
「北貨物港方面だよ。いつもなら途中で荷を受け取っていくんだ」
「今日は?」
「確認が取れないから、まだ何も積んでない」
アーグは頷いた。
「分かりました」
オタクミは小舟を見た。
今の船には、少なくともこの荷場から荷は積まれていない。
図面筒があるかどうかも分からない。
だが、水路側の荷の動きを知る手掛かりにはなるかもしれなかった。
◇
水路沿いの荷場から少し進むと、港へ向かう道沿いに屋台が並んでいた。
しかし、その様子は妙だった。
「……あれ?」
オタクミが足を止める。
まだ人通りがあるのに、いくつかの屋台が閉まっている。
隣では普通に商売している店もある。
「夕方だから店じまい?」
セラが呟く。
「それなら不自然ではないな」
アーグが答えた。
だが、オタクミは閉まった屋台を見つめた。
扉には、新しそうな錠前が付いている。
その隣の屋台にも、似た形の錠前があった。
「……同じ鍵?」
「同じ形の錠前だな」
アーグが訂正する。
「鍵まで同じとは限らない」
「……確かに」
オタクミは頷いた。
セラが、営業している屋台へ近づいた。
「すみません。今日は閉まっているお店が多いんですか?」
店主らしい女性が顔を上げた。
「そうね。いつもより静かだわ」
「何かあったんですか?」
「荷が届かないって言ってた店もあるし、今日は売れる品がないって話も聞いたよ」
「そのお店の方は?」
セラが尋ねる。
女性は隣の閉まった屋台を指した。
「さっきまで、そこの店主がいたんだけどね」
ちょうどそのとき、屋台の裏手から男が一人出てきた。
疲れた顔をしている。
「……今日はもう閉めるしかないな」
男は呟いた。
セラが声をかける。
「荷が届かなかったんですか?」
「そうだよ」
男は肩を落とした。
「朝から待ってたのに、まだ来ない。客には夕方には品を出せるって言っちまったのにな」
オタクミは思わず尋ねた。
「何を売る予定だったんです?」
「普段扱ってる小物だよ。飾り物とか、日用品とか」
「……お客さん、待ってたんだ」
「ああ」
男は苦笑した。
「何度も見に来てくれた人もいた。悪いことしたよ」
オタクミは胸が少し痛くなった。
商品が届かない。
店を開けられない。
そして、待っていた客も買えない。
荷場の混乱は、ここまで影響しているのかもしれなかった。
「……荷の行き違いが原因なんですか?」
アーグが尋ねる。
「分からん」
男は首を振った。
「仕入れ先からは、もう送ったって言われてる。でも、こっちには届いてないんだ」
「送り先を確かめましたか?」
「何度もな」
男はため息をついた。
「確認中だって言われるばかりだ」
オタクミは手帳を開いた。
――店へ荷が届かない。
――仕入れ先は発送済みと説明。
――店主は確認待ち。
書き終え、顔を上げる。
「……大変ですね」
「まあ、商売してりゃ、こういう日もある」
男は苦笑した。
「でも、これが続くと困るな」
オタクミは閉まった屋台を見つめた。
売る物がなくなれば、店は開けられない。
客も、買いたい物を買えない。
誰かがわざとやっているとしたら。
その影響は、荷場だけでは済まない。
◇
そのとき、通りの向こうから荷車が一台やってきた。
荷台には木箱が積まれている。
箱の一つが少し開いていて、中に透明な板のような物が見えた。
「……あれ」
オタクミが呟く。
アーグが顔を向けた。
「どうした?」
「今、箱の中に……」
オタクミは目を凝らした。
透明な板の一部が、白く濁っているように見える。
以前見た、粗悪な偽物のアクスタに似た質感だった。
だが、距離がある。
夕暮れの薄い光では、はっきり確認できない。
「……似てる」
「何に?」
「前に見た偽物のアクスタ」
セラも荷車へ目を向けた。
「でも、まだ分からないわね」
「うん」
オタクミは頷いた。
「ちょっと見えただけだから」
荷車は市場側へ向かって進んでいく。
その後ろを、別の荷車が続いていた。
オタクミはその動きを見つめた。
「……おかしくないか?」
「何が?」
セラが尋ねる。
「荷が届かなくて店を閉めてる人がいるのに、別の荷はどんどん運ばれてる」
アーグも荷車の列へ目を向けた。
「確かに、確認すべき点だな」
「もし、誰かがわざと荷の流れを変えてたら?」
オタクミは閉まった屋台を指した。
「売りたい人は売れない。買いたい人も買えない」
「ああ」
「でも、別の誰かが商品を持ってきたら?」
「客は買える店へ流れるだろうな」
アーグは答えた。
オタクミは少し考え込んだ。
「……商品だけじゃないんだな」
「何が?」
「どこで買えるかってことも、大事なんだ」
アーグが頷いた。
「そうだ」
「市場そのものを押さえようとしてる、なんてこともあるのかな」
「可能性としてはある」
アーグは答えた。
「だが、今の情報だけでは分からん。単なる荷の遅れかもしれないし、別の事情かもしれない」
「……うん」
オタクミは手帳を閉じた。
そのとき。
市場へ向かっていた荷車の一台が、急に速度を落とした。
「おい! そっちはまだ入れるな!」
屋台の並ぶ通りから声が響いた。
荷車の御者が顔を上げる。
「何だよ! こっちは運べって言われたんだぞ!」
「確認が取れてないんだ!」
「またかよ!」
オタクミは思わず声を上げた。
「……こっちも!?」
アーグは険しい顔で荷車を見つめた。
「同じ問題が、別の場所でも起きている」
セラが呟く。
「誰の指示を信用していいか、分からなくなってるのね」
オタクミは荷場の方を振り返った。
水路側でも。
市場側でも。
荷の移動をめぐって、人々が揉めている。
同じ仕事をしているはずの者同士が、互いを疑い始めていた。
「……これ、もし誰かがわざとやってるなら」
オタクミは低く呟いた。
「仲間同士を信用できなくして、その隙に別の荷を動かしてるってことか?」
アーグはしばらく黙っていた。
「……そういうやり方もあり得る」
やがて答える。
「だが、それを確かめるには、指示を出している者を見つける必要がある」
オタクミは頷いた。
「……分かった」
ただ怪しいと思うだけでは足りない。
実際に何が起きているのかを確かめなければならない。
◇
日が傾き、街道の影が長くなっていた。
三人は荷場へ戻り、預けていた馬の様子を確かめた。
オタクミの灰色の馬は、相変わらず落ち着いている。
「……お前、俺より落ち着いてるな」
オタクミが鼻先を撫でた。
「当然であろう」
ゴルドスが答える。
「比較対象がお前だからな」
「その言い方!」
笑いかけたところで、軽く咳き込んだ。
「……げほっ」
セラが心配そうに顔を覗き込む。
「大丈夫?」
「うん。ちょっと喉が痛いだけ」
「無理しないでね」
「分かってる」
オタクミは水を飲み、少し休んだ。
その間に、アーグは手帳の内容を確認していた。
「……現時点で分かっていることを整理するぞ」
「うん」
「まず、逃走者についてだ。黒っぽい外套で、細長い筒を抱えた人物の目撃談がある」
「でも、直接見た人にはまだ会えてない」
セラが答えた。
「そうだ。荷場で見えた細長い物も、図面筒かどうかは分からん」
「うん」
「次に、水路側の荷については、運搬指示が食い違っている。誰が全体の指示を出しているのか、現場では確認できていない」
「それで、互いに疑い始めてる」
オタクミが言った。
「ああ」
アーグは頷いた。
「最後に、市場側だ。閉めている屋台があり、荷が届かないという話もある。その一方で、別の荷が運び込まれようとしている」
セラが顔を上げた。
「でも、それが全部つながっているとは限らない」
「その通りだ」
アーグは手帳を閉じた。
「だから、次に何を確かめるかが重要になる」
オタクミは水路の方を見た。
逃走者が持っていた図面筒。
その行方は、まだ分からない。
水路へ移された可能性もある。
あるいは、まったく別の道へ運ばれたのかもしれない。
一方、市場では、品が届かない店があり、別の荷が運び込まれている。
もし、それが偽物だったら。
もし、買える店と買えない店が意図的に作られているのだとしたら。
「……これ、二つとも放っておけないな」
オタクミが呟いた。
「そうだな」
アーグが答える。
「逃走者を追う手掛かりはまだ残っている。だが、市場の方も確かめる必要がある」
セラが二人を見た。
「どちらも、今すぐ答えが出る話じゃないわね」
「うん」
オタクミは痛バッグへ視線を落とした。
いつもあるはずの缶バッジが一つ、欠けている。
馬を借りるために預けた、大切なミスティアのグッズ。
明日の夕方までに馬を返せば、約束どおり戻ってくる。
だが、そのためにも無茶はできない。
「……推しまで預けて来たんだからさ」
オタクミは小さく笑った。
「何も分からないまま帰るのは嫌だな」
ゴルドスが答える。
「焦って決めつけるより、確かなことを一つずつ増やす方がよい」
「……そうだな」
オタクミは頷いた。
そのとき。
水路側から怒鳴り声が響いた。
「おい! その船、待ってくれ!」
三人が振り返る。
荷場の向こうで、小舟が岸を離れようとしていた。
船頭は何度も振り返っている。
「確認が取れないなら、こっちは行くぞ!」
作業員が必死に手を振った。
「待ってくれ! 荷の確認がまだ終わってないんだ!」
「こっちだって時間があるんだよ!」
小舟はゆっくりと岸を離れた。
オタクミは水路へ目を向けた。
「……あの船、行っちゃうぞ」
「行き先は北貨物港方面だと聞いた」
アーグが答えた。
「荷の受け渡し先を調べるなら、追う価値はある」
その直後。
市場側からも声が響いた。
「おい! その荷を中へ入れるな!」
荷車の御者が怒鳴り返す。
「こっちは運べって言われてるんだ!」
オタクミが振り返る。
市場へ向かう荷車が、閉まった屋台の並ぶ通りへ進もうとしていた。
荷台には木箱が積まれている。
その一つから、白く濁った板状の物が覗いていた。
「……あっちも!」
セラが声を上げた。
水路では、小舟が離れていく。
市場では、別の荷が動き始めている。
どちらも、今すぐ確かめたい。
だが、オタクミは走れない。
馬も、急に全力で走らせられる状態ではない。
アーグが険しい顔で二つの方向を見比べた。
「……どちらも、今動いている」
セラが呟く。
「両方を同時には追えないわね」
オタクミは黙った。
水路の先には、図面筒につながる手掛かりがあるかもしれない。
市場の方では、商品を売れずに困っている人々がいる。
もし、あの荷が偽物なら。
もし、荷の流れを変えることで、買える場所そのものが変えられているのだとしたら。
それを見過ごしていいのか。
オタクミは痛バッグへ目を落とした。
缶バッジが一つ欠けた場所。
そこにあったミスティアの姿を思い浮かべる。
推しを守りたい。
そのために、大切な物を預けてまでここへ来た。
だが、推しを好きな人たちが、買いたい物を買えなくなるのだとしたら。
「……どうする?」
セラが尋ねた。
オタクミは水路を見た。
小舟は少しずつ遠ざかっている。
次に、市場へ向かう荷車を見る。
こちらも、止まらず進もうとしていた。
追跡を続けるか。
市場の異変を確かめるか。
両方が重要だと分かっている。
だからこそ、簡単には選べなかった。
「……待ってくれ」
オタクミは手帳を握り直した。
アーグもセラも、何も言わずに待っている。
水路の向こうで、櫂が水を叩く音がした。
市場側では、荷車の車輪が石畳を軋ませている。
二つの音が、夕暮れの空気に重なった。
オタクミは顔を上げた。
「……俺たちが今、本当に止めなきゃいけないのは――」
言葉の先は、まだ出なかった。
その間にも、小舟は水路を下り、荷車は市場へ進もうとしていた。




