推しを担保に その1
北水路第三管理塔からは、まだ煙が上がっていた。
オタクミは水路沿いの石段に腰を下ろし、渡された水を少しずつ飲んでいた。
「……げほっ」
喉が痛い。
大きく息を吸うと、胸の奥がむず痒くなって咳が出る。
管理塔で倒れていた男性を助け出したとき、煙を吸ってしまったのだ。
男は近くにいた人々によって管理人だと確認され、救護を受けている。意識はまだ戻っていないらしい。
火災の原因も、男が倒れていた理由も、分かっていなかった。
「まだ苦しいか?」
アーグが尋ねる。
「さっきよりはまし。でも、今から全力で走れって言われたら断る」
「誰も言っていない」
「先に宣言しておかないと、追跡が始まった途端に走りそうだから」
「自覚があるなら抑えろ」
オタクミは水をもう一口飲んだ。
火災現場へ駆けつけた人々の中に、けが人の手当てに慣れた者がいた。そこで呼吸や意識の状態を確かめてもらい、煙から離れて休むように言われている。
調べたいことは山ほどあった。
だが、今の自分が倒れてしまえば、仲間に余計な負担をかける。
「……分かってるよ」
珍しく素直に答えると、アーグは少しだけ表情を緩めた。
セラがオタクミの手帳を指さした。
「それで、逃げた人のことだけど」
「うん」
「最後に見た場所なら、もう一度案内できるわ」
オタクミは顔を上げた。
「図面筒みたいなのを持ったまま、荷車の通る道へ出たんだよな」
「ええ。そこまでは間違いない」
「小舟の方は?」
「下流へ離れるのを見た。でも、あの人が乗ったわけじゃないし、筒を渡すところも見ていないわ」
アーグが頷く。
「だから、まず追うのは逃走者の方だ。小舟との関係は、まだ分からん」
「了解」
オタクミは手帳を閉じた。
「じゃあ、最後に見た場所へ行こう」
「歩けるか?」
「走らなきゃ何とか」
「無理なら言えよ」
「今日、何回それ言うんだよ」
「お前が忘れなくなるまでだ」
腰元のゴルドスが笑った。
「それでは一生終わらんな」
「二人して俺への信用が低すぎる!」
◇
逃走者を見失った場所には、今も荷車が行き交っていた。
水路沿いの細い作業路から、少し広い道へ出る地点だ。
セラは足を止め、前方を指さした。
「ここ。あの荷車の向こうへ消えたの」
オタクミは周囲を見回した。
道は市街地側と水路の下流側へ分かれている。
その先にも、別の通りへ抜ける道がありそうだった。
「……逃げ道、多いな」
「そうなのよ」
セラが悔しそうに眉を寄せる。
「黒っぽい外套で、細長い筒を抱えていた。顔は見えなかったけど、そこは覚えてる」
「十分だ」
アーグが答えた。
「見ていないことまで付け加える必要はない」
オタクミは頷いた。
「まずは聞き込みか」
三人は、近くで荷車の車輪を確かめていた御者へ声をかけた。
「すみません。少し前に、黒っぽい外套の人がここを通りませんでしたか?」
「黒い外套?」
御者は首を傾げた。
「そんな格好の客なら珍しくないぞ」
「細長い筒を抱えていたんです」
「ああ……」
男は少し考えた。
「それなら見たような気がするな」
「本当ですか!?」
「落ち着け」
アーグがオタクミを制した。
「どこで見たのか、覚えている範囲で教えてもらえますか?」
「この道を横切っていったよ。俺が荷車を停める前だったと思う」
「どちらへ?」
男は下流側の道を指した。
「向こうだ」
「北貨物港の方ですか?」
オタクミが尋ねると、御者は首を振った。
「そこまでは知らん。あの先は道が分かれる。港へ行く奴もいれば、市街地へ戻る奴もいる」
「……ですよね」
「そもそも顔は見てない。お前さんたちが探している奴と同じかも分からんよ」
「ありがとうございます」
オタクミは手帳を開いた。
――細長い筒を持つ人物らしい目撃情報。
――下流側へ進んだとの証言。
――同一人物かは未確認。
――その後の行き先は不明。
書き終え、手帳を閉じる。
「少しだけ進んだな」
「ええ。でも、ここで追いつけなかった以上、もう随分距離が開いているでしょうね」
セラが答えた。
その言葉に、オタクミは思わず下流側の道を見た。
追跡には時間がかかっている。
管理塔の火災。
管理人の救出。
自分の手当て。
ここまでの聞き込み。
どれも必要なことだったが、その間に逃走者がどれほど先へ進んだかは分からない。
「今から走っても、追いつけないか」
「お前の身体では、なおさらだ」
アーグが答える。
「だから、行き先の候補を絞るんだ。追いかけるだけが追跡じゃない」
◇
下流側へ進むと、道は再び分かれていた。
一方は人家の並ぶ通り。
もう一方は、荷車が多く行き交う道だ。
その道端で、荷札を結び直している男がいた。
アーグが声をかける。
「北貨物港へ行くなら、どちらの道ですか?」
「港なら、そっちの荷道だよ」
男は荷車の多い方を指した。
「途中で別の通りにも抜けられるが、大きな荷はだいたいこっちを使う」
「黒い外套で、細長い筒を持った人物を見ませんでしたか?」
セラが尋ねる。
男は首を横に振った。
「そこまでは覚えてないな。筒を持った奴なんて珍しくもないから」
「そうですか……」
オタクミが肩を落とす。
だが、男は続けた。
「急いで港の方へ行きたいなら、あっちの道が分かりやすい。ただし、途中で市街地へ抜けることもできるぞ」
アーグが頷いた。
「ありがとうございます」
三人は礼を言い、少し離れた場所へ移動した。
「どうする?」
オタクミが尋ねる。
アーグは地面に簡単な線を描いた。
「最後の目撃地点がここ。そこから下流側へ進んだらしいという証言がある」
「で、今いる分かれ道がここ」
セラが指で示す。
「そうだ。北貨物港方面への荷道はこっちだが、ほかの道にも抜けられる」
「逃走者が港へ向かったとは限らないわね」
「ああ」
アーグは荷道へ目を向けた。
「それでも、俺は北貨物港方面を先に確かめたい」
「理由は?」
オタクミが尋ねる。
「水路沿いの移動先を調べるという目的に合う。荷を扱う人間も多い。筒を持った人物を見た者がいるかもしれん」
「なるほど」
「それに、向かっていないと分かれば別の経路を調べられる。何も決めずにここで立っているよりはいい」
オタクミは頷いた。
港へ向かったと決めつけるのではない。
確かめる候補を選ぶ。
昨日まで調べてきた相場の数字と同じだ。
見たい結論に合わせて情報を選ぶのではなく、得られた情報から次に確かめる場所を決める。
「じゃあ、北貨物港方面だな」
「ああ」
セラが道の先を見た。
「でも、歩いて行くの?」
オタクミも目を向けた。
逃走者はもう、どこまで進んでいるか分からない。
「……歩いて追いつける気がしない」
「そもそも、お前は今走れないだろう」
アーグが言う。
「認めたくないけど、そうなんだよな」
「なら、移動手段を借りる」
「馬?」
「ああ。近くに貸馬屋があるはずだ」
オタクミは少し考えた。
「……俺、馬にちゃんと乗ったことないんだけど」
アーグが顔を向ける。
「それなら、まず乗れるか確かめないとな」
「今から!?」
「今からだ」
セラが小さく笑った。
「追跡より先に、乗馬の授業ね」
「授業料まで取られたりしないだろうな……」
ゴルドスが呟く。
「馬が気の毒になってきた」
「まだ会ってもないのに!?」
◇
貸馬屋は、荷道から少し戻った通りにあった。
厩の前では、大柄な店主が馬の脚を確かめている。
三人が近づくと、男は手を止めた。
「何だい?」
「馬を借りたい」
アーグが答える。
「三人で北貨物港方面へ向かう。できれば三頭だ」
店主は三人を見回した。
アーグ。
セラ。
それから、煤の残る服で、ときどき咳をしているオタクミ。
「……急ぎか?」
「できるだけ早く出たい」
「急いでる客ほど、馬を雑に扱うんだよな」
店主は少し顔をしかめた。
「貸すのは構わんが、王都の外へ向かうなら保証が要る。馬は安くないからな」
「料金と保証は?」
アーグが尋ねる。
店主は馬の数と貸し出す条件を確認し、必要な額を告げた。
アーグが手持ちを数える。
セラも自分の分を確かめた。
しかし、二人の表情はすぐに曇った。
「……足りないな」
アーグが呟く。
「三頭分の料金は払えるけど、保証まで合わせると届かないのね」
セラも頷く。
オタクミは二人の顔を見た。
「じゃあ、二頭なら?」
店主は腕を組んだ。
「三人で二頭か。そこの若いのは乗れるのか?」
「……これから覚えます」
「つまり乗れないんだな」
「言い方!」
「事実だろう」
店主は首を振った。
「慣れない客を乗せて急ぐなら、なおさら無茶はさせられん。馬にけがをさせられたら困る」
アーグが尋ねる。
「現金以外の担保は?」
「物による」
店主は短く答えた。
「売って損を補える物なら考える。だが、値打ちの分からん物を押しつけられても困るぞ」
その言葉を聞いた瞬間。
オタクミの手が、自分の痛バッグへ伸びた。
指先が布地に触れる。
「……」
動きが止まった。
ゴルドスがすぐに気づく。
「何か思いついた顔だな」
「思いついてない」
「その返事の速さは怪しいぞ」
「気のせいだ」
アーグもオタクミを見た。
「何か担保にできそうな物があるのか?」
「ない」
「まだ何も聞いていないが」
「ないものはない!」
セラが少し考えてから、口を開いた。
「……ミスティアのグッズ?」
オタクミの肩が跳ねた。
「何で分かった!?」
「今ので分かったわ」
「しまった!」
◇
オタクミは痛バッグを抱えたまま、しばらく動かなかった。
現実世界から持ち込んだ、大切な推しグッズ。
そこには、ミスティアの姿が描かれた缶バッジが並んでいる。
一つ一つが大事だった。
同じ顔がいくつ並んでいようと、それぞれに意味がある。
好きなものを好きだと示すために集めた。
目にするたびに、元気をもらってきた。
それを、馬を借りるために預ける?
「……無理だ」
オタクミが呟く。
「まだ何も頼んでいない」
アーグが答えた。
「気持ちの問題なんだよ」
「なら、無理に出す必要はない」
アーグはあっさりと言った。
オタクミが顔を上げる。
「……え?」
「大切な物なんだろう。ほかの方法を考える」
セラも頷いた。
「二頭で移動できる方法がないか、もう少し聞いてみてもいいし」
「……」
オタクミは痛バッグを見下ろした。
簡単に手放したくない。
たとえ一時的に預けるだけでも、見知らぬ誰かの手に渡すのは嫌だった。
だが、逃走者はまだ見つかっていない。
筒の中身も分からない。
管理塔の火災についても、何一つ答えが出ていない。
そして、ここまで調べてきたことを、無駄にはしたくなかった。
「……ちょっと待って」
オタクミは痛バッグを開いた。
並んだ缶バッジを見つめる。
どれを選べばいいのか。
そもそも、選ぶこと自体が嫌だった。
「……同じ顔だから一個くらい平気、とか思ってないよな?」
アーグが首を横に振る。
「思っていない」
「本当に?」
「ああ」
「セラは?」
「私は、どれも大切なんだろうなって思ってる」
オタクミは少しだけ息を吐いた。
「……そうなんだよ」
そして、しばらく迷った末に、一つを選んだ。
ミスティアの姿が描かれた缶バッジ。
ほかと同じように、大事に持ってきた物だった。
オタクミはそれを布で包み、両手で持った。
「……これなら、担保になるかな」
アーグはすぐには手を伸ばさなかった。
「店主に見せてみるか?」
「……うん」
オタクミは自分で、店主の前へ進んだ。
◇
「これを、見てほしいんですけど」
オタクミは布を開いた。
中から現れたのは、小さな丸い飾りだった。
表面には、精密な絵が施されている。
店主は眉を寄せた。
「何だ、それは」
「聞いて驚け」
オタクミの目に、急に力が戻った。
「これはミスティア。歌と舞台によって人々に希望を届ける、唯一無二の存在だ。まず注目してほしいのは、この表情。見ろ、この絶妙な角度。正面から見てもいいし、少し傾けても――」
「待て」
アーグが止めた。
「何だよ!」
「説明が長い」
「価値を理解するには背景が必要なんだよ!」
「今は店主が担保にできるか判断するための説明をしろ」
「だからしてるだろ!」
店主が缶バッジへ顔を近づけた。
「銀か?」
「違う」
「宝石か?」
「違う」
「魔道具か?」
「違う」
「じゃあ、何に使う?」
オタクミは胸を張った。
「飾る」
店主は真顔になった。
「いらん」
「判断が早すぎる!」
オタクミは一歩踏み出した。
「いいか? 大切なのは、物が何をするかだけじゃない。持っている人に、どういう気持ちをくれるかなんだよ!」
「馬の餌にはならん」
「馬より俺の心に必要なんだ!」
「なら、担保に出すな」
「ぐっ……!」
あまりにも正しい返答だった。
オタクミは言葉を失う。
セラは口元を押さえ、笑いを堪えていた。
ゴルドスは遠慮なく笑っている。
「小僧よ。布教したいのか、手放したくないのか、どちらだ」
「布教はしたい。でも渡したくない」
「厄介な信徒だな」
「推し活って、そういうものなんだよ!」
アーグは缶バッジへ目を向けた。
「店主。確かに金や宝石ではない。だが、こちらでは珍しい加工の品だ。表面の絵も精密だし、飾りとして興味を持つ者はいるかもしれない」
「かもしれない、ではな」
店主は腕を組んだ。
「売れるかどうか分からん物を、高い保証として受け取るのは難しい」
「それはそうだ」
アーグは頷いた。
「だから、これだけで保証を満たしてほしいとは言わない」
アーグは手持ちの硬貨をもう一度並べた。
「三頭分の料金は払う。残りも、現金で出せるだけ保証に回す。そのうえで、不足する分の追加担保として、この品を預かってもらえないか」
店主は硬貨を数え、顔をしかめた。
「まだ足りないぞ」
「分かっている。だから、借り手の名前と返却条件を記録してくれ。馬を返すときには、俺たち三人が責任を持って精算する」
セラも一歩前へ出た。
「私も借り手として名前を書きます。馬の状態も、一緒に確認します」
店主は二人の顔を見比べた。
「三人とも責任を負うということか」
「ああ」
アーグが頷く。
「もし追加費用が出れば、担保だけで済ませず支払う」
店主はしばらく黙っていた。
その後、オタクミの手元にある缶バッジへ視線を落とす。
「……珍しい品なのは確かだな」
オタクミがすぐに反応した。
「だろ!?」
「だが、いくらで売れるかは分からん」
「売るな!」
「だから、期限までに馬を返せと言ってるんだ」
「そのつもりだよ!」
店主は腕を組み直した。
「よし。条件を変えよう。三頭とも、明日の夕方までに返すこと」
アーグが確認する。
「明日の夕方だな」
「ああ。返ってきた馬の状態を確かめて、追加の費用があれば精算する。それが済んだら、預かった品を返す」
「期限に間に合わなかった場合は?」
「連絡もなく戻らず、支払いもなければ、預かった物を処分する場合がある。戻りが遅れるなら、先に知らせろ」
オタクミの顔色が変わった。
「しょ、処分……」
「嫌なら預けるな」
「……いや」
オタクミは布包みを握り直した。
これを預けると決めたのは、自分だ。
仲間に取り上げられたわけじゃない。
それに、明日の夕方までに返すという条件なら、今の時点で不可能だとは思わない。
「……預ける」
オタクミが言った。
アーグもセラも、何も言わずに待っていた。
「でも、絶対に返してもらうからな」
店主は頷いた。
「約束どおりに返してくれれば、こちらも約束を守る」
◇
店主は小さな箱を持ってきた。
オタクミはすぐに口を開く。
「待って。まず確認したい」
「何だ?」
「布は外さないでくれ。表面を直接触らないでほしい。裏の針も無理に動かさないでほしい。それから、水に濡れる場所は絶対に駄目だし、重い物を上に載せるのも――」
「分かった、分かった」
「分かってない顔だ!」
「お前が気にしていることは分かった」
店主は布包みを箱に収めた。
オタクミはその箱を見つめる。
「……ミスティア」
ぽつりと声が漏れた。
「すぐ戻るからな」
アーグが言う。
「絵に話しかけるな」
「絵じゃない。存在の窓口だ」
「ますます分からん」
「分からないなら、今度ちゃんと説明する」
「今は遠慮する」
「布教の機会を断るな!」
セラが笑いながら、オタクミの肩を軽く叩いた。
「ちゃんと返してもらいましょうね」
「……うん」
オタクミは頷いた。
今は、手元から離れる。
だが、手放したわけではない。
預けると決めたのは、自分だ。
だからこそ、必ず戻ってくる。
「……絶対に取り戻す」
その言葉には、さっきまでの軽口とは違う重みがあった。
◇
厩から三頭の馬が連れてこられた。
アーグとセラには、それぞれ扱いやすそうな馬が用意された。
オタクミの前には、比較的落ち着いた灰色の馬が立っている。
店主が手綱を持ち、説明した。
「こいつは急に走り出したりしにくい。初心者なら、まずはこいつだ」
「頼むぞ、相棒」
オタクミが鼻先へ手を伸ばす。
馬は静かに息を吐いた。
「……嫌がられてない?」
「まだ何もしていないからな」
アーグが答える。
「ここからが問題だ」
「最初から不吉なこと言うなよ!」
店主が鐙の位置を示した。
「左から乗れ。鞍に手を置いて、勢いをつけすぎるな」
「分かった」
オタクミは鐙へ足をかけた。
身体を持ち上げる。
ところが、途中で足が引っかかり、変な姿勢で止まってしまった。
「……あれ?」
「どうした?」
「身体が上がらない」
「足だけで登ろうとするな」
店主が腰を支えた。
アーグも反対側から手を貸す。
ようやく鞍へ跨がることができた。
「……乗れた!」
「まだ動いてないぞ」
ゴルドスが指摘する。
「成功体験は細かく積むんだよ!」
オタクミは胸を張った。
その拍子に身体が少し傾き、慌てて鞍を掴む。
「うわっ!」
「だから、急に動くな」
店主が馬の手綱を押さえた。
「まずは真っ直ぐ座れ。手綱を強く引っ張らない。馬が驚くような大声も出すな」
「分かった」
「本当に分かったか?」
「今日は信用されない日だな……」
馬が一歩進んだ。
オタクミの身体が揺れる。
「おおっ!」
「騒ぐな」
「今のは感動の声だよ!」
「馬には分からん」
店主はしばらく手綱を引き、厩の前を歩かせた。
オタクミは最初、揺れに合わせられず、身体が前後へ動いた。
それでも、教えられた姿勢を少しずつ試しているうちに、どうにか座っていられるようになる。
「……お、いけるかも」
「まだ歩いているだけだ」
アーグの声が飛ぶ。
「いいんだよ。まずは歩けることが大事なんだ」
セラも鞍の上から頷いた。
「その調子。無理に馬を動かそうとしない方がいいわ」
「了解」
オタクミは馬の首筋を軽く撫でた。
「よろしくな。俺、初めてだから」
馬は静かに鼻を鳴らした。
「終わったら、ミスティアの話を聞かせてやる」
「馬まで布教するのか」
ゴルドスが呆れたように言う。
「推しを知る機会は平等に与えるべきだろ」
「その馬は、今は草の方に興味があると思うぞ」
「興味の入口は人それぞれだから!」
「馬だがな」
セラが吹き出した。
アーグは店主へ向き直る。
「今日は無理をさせずに移動する。明日の夕方までには戻るつもりだ」
「約束を忘れるなよ」
「ああ」
店主は最後に馬の状態を確認し、三人を送り出した。
◇
貸馬屋を出るころには、空の色が少しずつ変わり始めていた。
三人は馬を並べ、通りをゆっくり進んでいた。
アーグが先頭。
セラがオタクミの近くを進む。
オタクミは灰色の馬の背で、まだ少し緊張していた。
だが、最初に乗ったときほど身体が揺れることはない。
「……意外と何とかなるな」
「まだ急がせていないからな」
アーグが答える。
「分かってるよ」
「道が空いても、無理に速度を上げるな。今のお前が落ちたら、追跡どころじゃなくなる」
「はいはい」
「返事は一回」
「はい!」
セラが笑った。
「今日はアーグが先生みたいね」
「先生なら、もう少し優しくしてほしい」
「生徒が言うことを聞けばな」
「ぐっ……」
オタクミは言い返しかけたが、やめた。
代わりに、遠くの空を見た。
北水路第三管理塔の方向には、まだ薄い煙が残っている。
倒れていた管理人。
逃げた人物。
持ち去られた図面筒のような物。
どれも、まだ分からないことばかりだった。
「……なあ、アーグ」
「何だ?」
「北貨物港に行って、何も見つからなかったらどうする?」
「戻って別の経路を調べる」
「そっか」
「港へ向かったと決めつけているわけじゃない。まず候補を一つ確かめるだけだ」
「うん」
オタクミは頷いた。
逃げた奴がいるなら追え。
それだけでは、もう足りない。
確かめたことと、分からないことを分ける。
情報が足りなければ、別の場所で確かめる。
それが、今の自分たちにできる調査だった。
「……よし。まずは港方面だな」
「ああ」
アーグが頷いた。
三頭の馬は、街の北側へ向けて進み始めた。
◇
荷車の行き交う道へ出ると、三人は通行の邪魔にならないよう、速度を落として進んだ。
オタクミはまだ馬の揺れに慣れない。
少し歩調が変わるだけで、身体が前後する。
それでも、アーグとセラが近くにいることで、落ち着いていられた。
「……なあ、ゴルドス」
「何だ、小僧」
「俺、今日すごいことした気がする」
「馬に乗ったことか?」
「それもあるけど」
オタクミは痛バッグへ視線を落とした。
そこには、いつもあるはずの缶バッジが一つ、欠けている。
「……推しを預けた」
「そうだな」
「めちゃくちゃ怖い」
「分かるとも言い切れんが、大切な物なのだろう」
「うん」
オタクミは頷いた。
「だから、絶対に戻る」
ゴルドスは少し間を置いた。
「ならば、まず落馬せぬことだ」
「そこに戻るのかよ!」
「戻るべき場所を間違えるな」
オタクミは思わず笑った。
咳が少し出る。
だが、馬から降りなければならないほどではなかった。
前方で、アーグが手を上げる。
「ここから先は荷車が多い。速度を上げず、周囲を見ろ」
「了解!」
三人は道の端へ寄り、荷車を避けながら進んだ。
そのとき、セラが前方を指さした。
「……あそこ」
「どうした?」
アーグが尋ねる。
「水路の方に、人が集まっているみたい」
オタクミも目を向けた。
少し先の水路沿いで、何人かが立ち止まっている。
荷車も一台、道の脇へ寄せられていた。
大きな声で言い合っている様子が見える。
「……何かあったのかな」
オタクミが呟く。
「確かめてみよう」
アーグが答えた。
三人は馬を進め、人だかりへ近づいた。
◇
「だから、通れないって言ってるだろ!」
荷車の御者らしい男が声を荒らげていた。
その向かいには、水路沿いで荷を扱っているらしい男が立っている。
「こっちだって困ってるんだよ。さっきから荷の積み替えが止まってるんだ」
「何かあったんですか?」
アーグが声をかけた。
男たちが振り返る。
「何だ、お前たちは」
「北貨物港方面へ向かっている。道が塞がっているのか?」
「完全に塞がってるわけじゃない」
荷車の御者が答えた。
「ただ、荷を運ぶ連中が急に集まってきて、通りにくくなってる」
「どうして?」
セラが尋ねる。
御者は肩をすくめた。
「さあな。水路の方で何かあったらしい」
オタクミは水路へ目を向けた。
そこには小さな荷場があり、何人かの作業員が集まっている。
ただし、何が起きたのかは見えない。
「……図面筒を持った人とか、見ませんでした?」
オタクミが尋ねた。
御者は眉を寄せた。
「図面筒?」
「革張りの、細長いやつです。黒っぽい外套の人が持ってたんですけど」
その言葉に、水路側の男が顔を上げた。
「……黒い外套?」
三人の視線が集まる。
「見たんですか?」
セラが尋ねる。
男は少し考えた。
「いや、俺が見たわけじゃない」
オタクミは手帳を開きかけた手を止めた。
「じゃあ……」
「さっき、荷を運んでた奴が言ってたんだよ。妙な客が通ったって」
「妙な客?」
「ああ。黒っぽい外套で、細長い物を抱えてたらしい。人にぶつかりそうになっても、荷物だけは離さなかったってさ」
オタクミとセラが顔を見合わせた。
似ている。
管理塔から逃げた人物の特徴に。
だが、まだ同じ人物とは限らない。
アーグがすぐに尋ねた。
「その人は、どちらへ向かったと?」
男は水路の下流側を指した。
「港の方へ歩いていったらしい。でも、俺は見てないから、詳しいことは分からん」
「話した人は、まだここにいますか?」
セラが尋ねる。
「ああ。向こうで荷を積み直してるはずだ」
男は人だかりの奥を指した。
オタクミは手帳を開いた。
――黒い外套、細長い荷物を抱えた人物の目撃談。
――水路沿いの荷場付近。
――港方面へ歩いたとの伝聞。
――直接の目撃者に確認が必要。
書き終えた瞬間。
水路側から、何かが倒れるような大きな音がした。
人々が一斉に振り返る。
「何だ!?」
「おい、そっちへ行くな!」
怒鳴り声が響いた。
続いて、作業員らしい男が一人、人混みを押し分けて出てきた。
その男は、周囲を見回してから低い声で言った。
「……また荷が動かされたぞ」
御者が眉を寄せる。
「また?」
「さっきから、置いたはずの荷が勝手に場所を変えてるんだ」
「誰が動かした?」
「分からん。運び先も聞いていない」
オタクミは、手帳を持つ手に力を込めた。
荷が動く。
だが、誰が動かしたか分からない。
昨日まで調べていた、数字になる前の荷の動き。
管理塔から逃げた人物。
図面筒のような物。
そして、今この場所で起きている、行き先の分からない荷の移動。
全部がつながっているとは限らない。
それでも、確かめずに通り過ぎるわけにはいかなかった。
「……アーグ」
「ああ」
アーグも水路側を見ていた。
「まず、直接見た人に話を聞こう」
セラが頷いた。
「それから、荷がどう動いたのかも確認しましょう」
オタクミは手帳を閉じた。
北貨物港へ向かう途中で、ようやく一つ、確かめるべき手掛かりが見えてきた。
しかし、その直後。
荷場の奥から、別の声が響いた。
「おい! あの荷を運ぶなって言っただろ!」
人々がざわめく。
水路沿いに停められていた荷車の陰で、誰かが素早く動いた。
オタクミには、その姿がはっきりとは見えなかった。
ただ、荷を覆っていた布の端が、一瞬だけ持ち上がる。
その下に、細長い何かが見えた。
「……あれ?」
オタクミは目を凝らした。
次の瞬間、布は元へ戻される。
荷車が動き出そうとしていた。
「待って!」
セラが声を上げる。
だが、荷車を動かそうとしている人物は、こちらを見なかった。
アーグが手綱を引き、馬を止める。
「慌てるな。まず、何を運んでいるか確かめる」
「でも、今の……」
「見えたのは細長い物だけだろう」
オタクミは唇を噛んだ。
確かに、図面筒だとは言い切れない。
だが、見過ごしたくもなかった。
馬上から、ゆっくりと手帳を開く。
そして、一行だけ書いた。
――荷場で不明な荷の移動あり。細長い物を一瞬確認。中身・所持者は未確認。
書き終えたとき、荷車の車輪が軋んだ。
三人は、動き出そうとする荷車を見つめた。
逃走者の正体も、図面筒の行方も、まだ分からない。
だが、追うべき手掛かりが、本当に目の前にあるのかもしれなかった。
オタクミは手綱を握り直した。
「……今度こそ、ちゃんと確かめるぞ」
アーグが頷く。
セラも、荷車から目を離さなかった。
水路の向こうでは、夕暮れの光が少しずつ弱まり始めていた。




