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痛武器勇者~最強武器らしいけど、観賞用にして推しを布教します~  作者: 桝田キゲン
10 市場を盗む者たち

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燃える管理塔

 北水路第三管理塔は、王都の水路に沿って建っていた。


 灰色の石壁には、長い年月を経たような染みが浮かんでいる。塔の脇には細い作業路が延び、そのすぐ下を水が流れていた。


 水面は見た目よりも速く動いている。


 時折、荷車が近くの道を通り過ぎ、その車輪の音が石壁に反響した。


「……ここか」


 オタクミは手帳を開いた。


 昨日、水路沿いで聞いた話が書かれている。


 ――北水路第三管理塔。


 ――通過した船について何か知っている可能性。


 ――記録の有無・内容は不明。


「とりあえず、船のことを聞けるか確認するんだったな」


「ああ」


 アーグが頷いた。


「管理塔という名前でも、荷の記録を扱っているとは限らん。帳簿を見せてもらえるものと思って話を始めるなよ」


「分かってるって」


「昨日もそう言っていたな」


「昨日はちゃんと守っただろ!」


 セラが小さく笑った。


「今日は何回言われるのかしら」


「もう二回目だよ!」


 軽口を交わしながらも、オタクミの目は塔へ向いていた。


 昨日、市場で調べた塩の価格情報。


 その紙には、値上がりに注意する理由として、水路からの入荷状況を考慮したと書かれていた。


 だが、どの船が、いつ、どれだけの塩を運んだのかまでは分からない。


 荷の遅延分だけを書き出すよう頼まれたという証言も得たが、その数字が実際に市場の紙へ使われたかは未確認だ。


 だからこそ、数字になる前の荷の動きを確かめたい。


「じゃあ、行こう」


 三人は塔へ向かった。


     ◇


 正面の扉は閉じていた。


 オタクミが近づき、扉を叩く。


「すみませーん! ちょっとお聞きしたいことがあるんですけど!」


 返事はない。


 もう一度叩く。


 やはり、誰も出てこなかった。


「留守か?」


「分からん」


 アーグは周囲を見回した。


「常に人がいる場所とは限らないからな」


「じゃあ、出直す?」


 セラはそう言いながら、塔の脇へ回った。


 水路側にも窓がある。


 その内側を見上げたとき、何かが動いたように見えた。


「……待って」


「どうした?」


「今、窓の向こうに影が見えた気がするの」


 オタクミも顔を上げた。


 窓の内側は薄暗い。


 人がいるようにも見えたが、はっきりとは分からない。


 そのとき。


 こつん、と何かが床へ落ちる音がした。


 三人が顔を見合わせる。


「……誰かいるのか?」


 オタクミは扉へ向かって声をかけた。


「大丈夫ですか!」


 返事はなかった。


 だが、扉の下から細い灰色のものが流れ出てきた。


 煙だった。


「アーグ!」


「見えている」


 アーグが扉へ近づく。


 煙は最初、わずかに漂う程度だった。


 しかし、数呼吸のうちに、その量が増えていく。


「火事……?」


 セラが呟いた。


 塔の奥から、ぱちぱちと乾いた音が聞こえる。


「まずいな」


 アーグは扉の取っ手へ伸ばしかけた手を止めた。


「開ければ空気が入って、火が強くなるかもしれん。正面には立つな」


「でも、中に人がいるかも」


「だからこそ、慎重に動く」


 セラが近くの道へ目を向けた。


 荷を運んでいる人々の姿が見える。


「私、助けを呼んでくる!」


「頼む!」


 セラが走り出した。


 オタクミは扉へ向かって、もう一度叫んだ。


「中に誰かいますか!」


 しばらく返事はなかった。


 そのあと。


「……う……」


 かすかな呻き声が聞こえた。


 オタクミは息を呑んだ。


「いる! 誰かいるぞ!」


 声は遠くない。


 扉のすぐ向こうから聞こえたように思えた。


 アーグも耳を澄ませる。


「聞こえるか! 動けるなら返事をしてくれ!」


 弱い音が返ってきた。


 言葉にはならない。


 その直後、塔の奥で何かが割れる音がした。


 橙色の光が、扉の隙間からちらつく。


「火が回ってる!」


 オタクミが叫んだ。


 アーグは扉の脇へ位置を移した。


「開ける。お前は少し下がれ。熱が強ければすぐ閉めるぞ」


「分かった」


 アーグが身体を低くして、扉をわずかに押す。


 隙間から、熱を帯びた煙が流れ出した。


「っ……!」


 アーグが顔を背ける。


 そのまま扉を戻そうとしたが、途中で何かにつかえた。


「内側に物があるな」


 扉は半ばまでしか閉まらない。


 隙間の向こうには、倒れた木製の棚が見えた。


 奥の方では炎が揺れている。


 オタクミは低い位置から中を覗き込んだ。


「……あっ!」


 棚の向こう。


 床へ伸びた腕が見えた。


 その持ち主は、扉から数歩も離れていない場所に倒れている。


「人だ!」


 アーグも姿を確認した。


 仕事着のような服を着た男だった。


 額の脇に血が滲んでいる。


 倒れた理由までは分からない。


 だが、男の指先がわずかに動いた。


「生きてる!」


 オタクミは扉へ手をかけた。


 アーグが腕を掴む。


「待て!」


「でも、あそこにいる!」


「見えている。だが、煙が濃い。奥には入れん」


 オタクミは男と入口の距離を見た。


 ほんの数歩。


 近い。


 それでも、煙が満ちた建物の中では、その距離さえ危険だ。


 このまま待つべきなのか。


 助けを呼びに行ったセラが戻ってくるまで、男が持ちこたえられるのか。


 その間にも、奥では火が広がっている。


「……あの棚を動かせば、手が届く」


 オタクミが言った。


「無理に奥まで行かなくても」


 アーグは倒れた棚の位置を確かめた。


 棚の端は扉のすぐ内側にある。


 動かせば、男へ近づけるかもしれない。


 だが、棚の向こうでは黒煙が濃くなりつつあった。


「一度だけだ」


 アーグが言った。


「動かなければ退く。火が近づいても退く。いいな」


「……うん」


「返事だけじゃなく、守れよ」


「分かった」


 二人は低い姿勢のまま、倒れた棚の端を掴んだ。


     ◇


 木材が石床を擦った。


 棚は重かったが、二人で引くと少しずつ動いた。


「もう少し……!」


 オタクミが力を込める。


 棚が傾き、扉の前に人ひとり分の隙間ができた。


 その向こうに倒れた男の上半身が見える。


 オタクミは身を低くして、男の腕へ手を伸ばした。


 指先が届く。


「……届いた!」


「そこで止まれ!」


 アーグが声を張った。


「それ以上は入るな。こっちへ引け!」


 オタクミは男の身体を少しずつ手前へ寄せた。


 男の肩が棚の残骸に引っかかる。


「うわっ、重い!」


「腕だけ引っ張るな。肩と背中を支えろ」


 アーグも手を伸ばし、男の身体を持ち上げるように支えた。


 二人で少しずつ後退する。


 男の靴が石床を擦った。


 入口まで、あとわずか。


 そのとき。


 塔の奥で大きな音がした。


 積まれていた木箱が崩れ、火の粉が舞った。


 新しい煙が押し寄せる。


「退くぞ!」


 アーグが叫ぶ。


 オタクミは男を支え直した。


「あと少し!」


 二人は力を合わせ、男の身体を外へ引き出した。


 冷たい空気が頬に触れる。


 その瞬間、オタクミは激しく咳き込んだ。


「げほっ……!」


 膝が石畳につく。


 目が痛い。


 喉も焼けるようだった。


 アーグも片膝をつき、荒い息を吐いている。


 だが、二人の間には男が横たわっていた。


 オタクミは顔を近づけた。


 胸が、わずかに上下している。


「……生きてる」


 声が震えた。


「よかった……」


 アーグは男の呼吸を確かめ、すぐに塔から離れた場所へ運ぼうとした。


「まだ安全じゃない。煙から遠ざけるぞ」


「うん」


 二人は男を支え直し、石畳の端へ移動した。


 その間にも、塔の内部では火が広がっている。


 灰色だった煙が、次第に黒くなっていった。


     ◇


「こっちよ!」


 セラの声が聞こえた。


 振り返ると、何人もの人が駆け寄ってくる。


 近くで作業していた者たちらしい。


 セラは先頭に立ち、倒れた男のところへ走った。


「大丈夫!?」


「呼吸はある」


 アーグが答える。


「だが、意識は戻っていない。煙を吸っている可能性もある。すぐ手当てが必要だ」


「分かった!」


 セラは一緒に来た人々へ状況を伝えた。


 そのうちの一人が男の顔を見て、声を上げる。


「この人、塔の管理人だ!」


「知ってるのか?」


 オタクミが尋ねた。


「ああ。何度か見かけている」


 男はそう答え、周囲の者へ呼びかけた。


 管理人を安全な場所へ移す者。


 手当てのできる者を探しに走る者。


 塔の近くへ人が寄らないよう声をかける者。


 火災への対応が始まった。


 アーグは、管理人が倒れていた位置や火災を発見したときの様子を、近くにいた者たちへ説明した。


「原因は分からない。入口の近くに倒れていた。額には傷があったが、どうして負傷したかは見ていない」


 話を聞いた者が頷く。


 セラも、救護に必要な人を呼んでくると告げた。


 オタクミはしばらくその場に座り、呼吸を整えていた。


 目の奥が痛い。


 大きく息を吸おうとすると、喉がひりついた。


「……オタクミ」


 アーグが振り返る。


「何?」


「次からは、もっと早く人を呼べ」


「……うん」


「お前まで倒れたら、助ける人間が増えるだけだ」


「分かってる」


 アーグは少し驚いたような顔をした。


「反論しないのか?」


「したいけどさ」


 オタクミは燃える塔を見た。


「本当に、危なかったから」


 倒れていた男の腕。


 煙の向こうで揺れた炎。


 手が届く距離だったのに、引き出すまでがあんなに長く感じられた。


「……助けられてよかった」


 アーグはしばらく黙っていた。


 それから、短く息を吐く。


「ああ。それは俺も同じだ」


 腰元から、ゴルドスの声がした。


「勇気と無謀は、同じではないぞ」


「分かってるよ」


「本当に分かっておるならよいが」


「今日は説教が多いな……」


「心配をかけたからだ」


 オタクミは言い返しかけた。


 だが、結局、何も言わなかった。


 代わりに、もう一度だけ管理人を見た。


 周囲の人々が手当てを始めている。


 まだ意識はない。


 それでも、塔の中へ置き去りにせずに済んだ。


 そのことだけは、確かだった。


     ◇


 そのときだった。


「……あっ!」


 セラが鋭い声を上げた。


 オタクミが顔を向ける。


 セラは塔の水路側を見ていた。


「誰か、裏の方から出てきた!」


 作業路に、人影があった。


 黒っぽい外套を着た人物だ。


 その腕には、革張りの細長い筒が抱えられている。


 オタクミは目を凝らした。


「……図面筒?」


 遠目には、そう見える。


 だが、中に何が入っているかは分からない。


 人物は塔から離れる方向へ、足早に進んでいた。


「待って!」


 セラが呼びかける。


 相手は止まらなかった。


 むしろ、速度を上げる。


「アーグ、あいつ!」


 オタクミが立ち上がろうとした。


 だが、すぐに咳が出る。


 アーグが肩を押さえた。


「お前は動くな」


「でも、あいつ――」


「煙を吸ったばかりだろう」


「……っ」


 オタクミは唇を噛んだ。


 追いたい。


 火災が起きた管理塔から出てきた人物だ。


 何かを持ち出しているかもしれない。


 だが、今の自分が全力で走れば、足手まといになる可能性が高い。


「俺はセラと行く」


 アーグが言った。


「管理人のことは、来てくれた人たちに任せる。お前はここで休め」


「……分かった」


 セラはすでに走り出していた。


 アーグも、その後を追う。


 オタクミは二人の背中を見送った。


「……くそっ」


 思わず拳を握る。


 けれど、管理人を助けたことを後悔したわけではない。


 ただ、身体が一つしかないことが、悔しかった。


     ◇


 水路沿いの作業路は狭かった。


 片側には石壁。


 もう片側には、流れの速い水路。


 セラは前を走る人物を見失わないよう、距離を詰めていく。


「待ちなさい!」


 声をかけても、相手は止まらない。


 細長い筒を抱えたまま、下流へ向かって走っている。


 セラは相手の背中を見つめた。


 管理塔から出てきた人物。


 火災の最中に何かを持って逃げた人物。


 ただし、その人物が火をつけたかどうかは分からない。


 それでも、話を聞く必要がある。


「止まって! 管理塔で何があったの!」


 返事はなかった。


 前方で作業路が少し広くなる。


 水路へ降りる石段があり、その先には小舟が浮かんでいた。


 岸へ寄せられた舟には、櫂を持った人物がいる。


 逃走者は石段へ向かった。


「船に乗るつもり……?」


 セラも足を速める。


 だが、その瞬間。


 小舟が岸から離れた。


「えっ?」


 逃走者も足を止めた。


 船の方へ向かって何かを叫ぶ。


 だが、水音にかき消され、言葉までは分からなかった。


 船頭は振り返らず、下流へ舟を進めていく。


 セラは一瞬、迷った。


 小舟と逃走者は関係があるのか。


 それとも、偶然そこにいた舟なのか。


 どちらとも決められない。


 だが、今追っているのは、図面筒のようなものを抱えた人物だ。


 その筒は、まだ逃走者の腕の中にある。


 セラは視線を戻した。


「その筒、何なの?」


 相手は答えなかった。


 代わりに、筒を抱え直す。


「管理塔から出てきたのを見たわ。火事のこと、何か知っているんでしょう?」


 逃走者が後ずさる。


 そして、突然向きを変えた。


「……っ!」


 作業路の先へ走り出す。


 セラもすぐに追った。


 しかし、相手は通路の端に積まれていた木箱を押し倒した。


 箱が崩れ、道を塞ぐ。


「危ない!」


 セラは足を止めた。


 木箱が石床を転がる。


 避けようとした一瞬で、相手との距離が開いてしまった。


 そのとき、後ろからアーグの声がした。


「セラ!」


「こっち! 筒を持ったまま下流へ逃げてる!」


 アーグが追いつく。


 セラは前方を指さした。


「黒っぽい外套の人! あの角を曲がった!」


「分かった。無理に近づくな」


「でも、このままじゃ――」


「二人で動く。相手が何を持っているか分からん」


 セラは悔しさを飲み込み、頷いた。


 二人は木箱を避け、作業路を進んだ。


     ◇


 曲がり角の先には、荷車が行き交う道があった。


 水路沿いの細い通路とは違い、人の往来がある。


 逃走者の姿が、一度だけ見えた。


 黒っぽい外套。


 腕に抱えた細長い筒。


 その人物が、荷車の向こうへ走っていく。


「あそこ!」


 セラが叫ぶ。


 だが、ちょうど別の荷車が横切った。


 進もうにも、道が塞がれる。


 荷車を避けて前へ出たときには、人影は見えなくなっていた。


「……見失った」


 セラが立ち止まる。


 アーグは周囲を見回した。


「最後に見たのは?」


「あの荷車の向こう。筒も、まだ持っていた」


「そのあとは?」


「分からない……」


 セラは唇を噛んだ。


「もう少しで追いつけそうだったのに」


「無理に突っ込まなかったのは正しい判断だ」


「でも……」


「相手がどこへ逃げるつもりかも分からん。人混みの中で見失った以上、手当たり次第に追っても危険だ」


 セラは足元を見つめた。


 逃走者の顔は見ていない。


 所属も、目的も分からない。


 持っていた筒が何なのかさえ、確かめられなかった。


 それでも、最後に見たとき、筒は確かに相手の腕にあった。


 そこまでは言える。


「……戻りましょう」


 セラが言った。


「オタクミに、見たことを伝えないと」


「ああ」


 アーグも頷いた。


 水路の方へ視線を向ける。


 さっきの小舟は、もう見えない。


 だが、あの舟と逃走者に関係があると決めつけるわけにはいかない。


 まずは、確かめたことを整理する必要がある。


 二人は管理塔へ引き返した。


     ◇


 管理塔の周辺では、火災への対応が続いていた。


 塔の内部からはまだ煙が上がっているが、火の勢いは少しずつ弱まり始めていた。


 管理人は建物から離れた場所で手当てを受けている。


 意識は戻っていない。


 オタクミは近くに座り、手帳を開いていた。


 セラとアーグの姿を見つけると、すぐに顔を上げる。


「どうだった?」


 セラは首を横に振った。


「逃げられたわ」


「そっか……」


「図面筒みたいなものを抱えていた。最後に見たときも、まだ持っていた」


「中身は?」


「分からない」


 アーグが続けた。


「逃走者は水路沿いの作業路を下流へ進み、途中で荷車の通る道へ出た。そこで見失った」


「……じゃあ、船には乗ってない?」


「少なくとも、俺たちが見ていた範囲ではな」


 セラが頷いた。


「途中に小舟がいたの。逃走者が乗ろうとしたようにも見えたけど、舟は先に下流へ離れたわ」


「関係があったのか?」


「それは分からない」


 アーグが答えた。


「小舟と逃走者を、同じ目的で動いていたと決めつける材料はない」


「なるほど……」


 オタクミは手帳に書き留めた。


 ――管理塔から図面筒らしい物を持った人物が出た。


 ――セラとアーグが追跡。


 ――逃走者は作業路を下流へ。


 ――途中で荷車の通る道へ出た。


 ――最後に確認したとき、筒は逃走者が所持。


 ――小舟も下流へ移動。


 ――逃走者と小舟の関係は不明。


 書き終えると、オタクミは燃えた塔を見上げた。


「……結局、船のことを聞きに来たのに、何も聞けなかったな」


「ああ」


「代わりに、火事が起きて、管理人が倒れてて、図面筒みたいなのを持った奴が逃げた」


 セラが頷く。


「全部が関係しているのかもしれない。でも、偶然同じ時に起きたことなのかもしれない」


「そうだな」


 アーグは塔の入口へ目を向けた。


「火災の原因も、逃走者の目的も分からん。管理人が意識を取り戻せば、何か聞ける可能性はある」


「……それまでは、決めつけない」


 オタクミは手帳に一行加えた。


 ――管理塔火災と逃走者の関係、不明。


 腰元からゴルドスの声がした。


「分からぬことばかり書いておるな」


「分からないのに、分かったことにしたらまずいからな」


「ふむ。少しは学んだようだ」


「昨日から何回それ言われてるんだよ」


 オタクミは苦笑した。


 だが、次の瞬間には、再び真剣な顔になった。


「……でも、あの筒は気になる」


 アーグが頷く。


「火災のあった塔から持ち出されたものだ。無関係と決めることもできん」


「だったら、追わないと」


 セラが言った。


「でも、どこへ行ったか分からないわ」


 オタクミは水路の下流を見た。


「最後に見たのは、下流へ向かう道だったんだろ?」


「ええ」


「その先って、どこへつながってる?」


 アーグは少し考えた。


「水路沿いの道はいくつか分かれる。下流へ進む道もあれば、市街地の方へ戻る道もある」


「じゃあ、逃げ道は一つじゃないのか」


「ああ」


 アーグは水路の先を指した。


「ただ、北側へ向かえば、外周の水路につながる。その先には北貨物港方面へ通じる経路もある」


「北貨物港……」


 オタクミは名前を繰り返した。


「でも、あいつが港へ行ったとは限らない」


「その通りだ」


「じゃあ、まずは下流の分かれ道を調べる必要があるな」


 アーグが頷く。


「そうだ。最後に見た地点から、どの道へ進めるかを確かめる。北貨物港は、その候補の一つだ」


 オタクミは手帳へ書いた。


 ――逃走者の行き先は不明。


 ――下流方面の分岐を確認する。


 ――北貨物港は候補の一つ。


 書き終えてから、顔を上げる。


「……追う方法は?」


「徒歩では、もう距離が開きすぎている可能性が高い」


 アーグが答えた。


「船を探す手もあるが、すぐに使える船があるとは限らん。陸路で先回りできる場所があれば、馬を使う方法もある」


「馬か……」


 オタクミは少し考えた。


「……乗ったことないんだけど」


 セラが目を丸くした。


「それで追いかけるつもりだったの?」


「馬が速いってことは知ってる!」


「知っていることと、乗れることは別だぞ」


 アーグの指摘が飛ぶ。


「ぐうの音も出ない!」


 ゴルドスが低く笑った。


「小僧が馬から落ちる姿が目に浮かぶな」


「まだ乗ってもいないだろ!」


 三人の間に、少しだけ笑いが戻った。


 だが、アーグはすぐに表情を引き締めた。


「それより、まずお前の身体だ」


「俺?」


「さっき煙を吸っただろう。まだ咳も出ている」


「……まあ、ちょっと喉は痛い」


「ちょっとで済ませるな。手当てを受けろ」


 オタクミは反論しかけた。


 だが、アーグの目を見て、口を閉じた。


「……分かった」


 セラが少し安心したように笑う。


「今日は素直ね」


「今日の俺、ずっとそれ言われてない?」


「それだけ心配されてるのよ」


 オタクミは頭を掻いた。


 そして、管理人の方へ目を向ける。


 倒れていた男は、周囲の人々に見守られていた。


 火災を見たことや、男が倒れていた位置については、すでにアーグが説明している。


 セラも、現場から逃走した人物のことを、近くで対応に当たっている者へ伝えた。


 そのうえで、三人がこれから逃走経路を調べたいと申し出る。


 事情を聞いた相手は、無理をしないよう注意し、必要なら後で詳しい話を聞かせてほしいと告げた。


 オタクミは頷いた。


 自分たちが見たことは、まだ全部を説明できていない。


 だから、あとで必ず伝える必要がある。


 ただ、逃走者の行方を調べるなら、時間も無駄にはできなかった。


     ◇


 塔から少し離れたところで、オタクミは足を止めた。


 振り返る。


 灰色の石壁は、煙で黒く汚れていた。


 扉の周囲には、火災への対応に追われる人々の姿がある。


 船の通過情報を尋ねるつもりで訪ねた場所だった。


 それが、今は火災の現場になっている。


 調べたかった数字のことは、何も分からなかった。


 管理人がなぜ倒れていたのかも。


 図面筒の中身も。


 逃げた人物の正体も。


 まだ、何一つ答えは出ていない。


 それでも、オタクミは手帳を開いた。


 最後に、短い一文を書き加える。


 ――今、確かめられることから追う。


「……よし」


 顔を上げる。


 アーグとセラが待っていた。


「まずは手当てを受ける。それから、逃げた奴が最後に見えた場所へ行こう」


「ああ」


 アーグが頷いた。


「そこから先の道を調べる」


「北貨物港へ向かっている可能性もあるのね」


 セラが言った。


「可能性の一つだ」


 オタクミは水路の下流を見つめた。


 市場の紙に書かれた数字。


 その根拠とされた、水路の荷。


 数字の出所を確かめようとした先で、火災が起きた。


 そして、何かを抱えた人物が逃げた。


 全部がつながっているとは、まだ言えない。


 だが、ここで止まれば、確かめる機会を失うかもしれない。


 オタクミは、腰元のゴルドスへ声をかけた。


「……なあ」


「何だ、小僧」


「今日は、何もかも中途半端だった気がする」


「そうか?」


「船のことは聞けなかったし、逃げた奴も捕まえられなかった」


 ゴルドスは少し間を置いた。


「だが、一人助けただろう」


 オタクミは顔を上げた。


「……うん」


「ならば、何もできなかった日ではない」


 それ以上、ゴルドスは何も言わなかった。


 オタクミは小さく頷いた。


 逃げた人物を追うことも大事だ。


 だが、目の前で倒れていた人を助けたことまで、失敗にしてはいけない。


「……そうだな」


 オタクミは手帳を閉じた。


 そして、二人へ向き直った。


「次は、俺たちが確かめに行く番だ」


 セラが頷く。


 アーグも、静かに歩き出した。


 水路の流れる音は、火災の騒ぎの中でも変わらず響いている。


 その先へ逃げた人物。


 持ち去られた図面筒。


 そして、まだ分からない火災の理由。


 三人はまず、逃走者が最後に確認された場所から、追跡できる道を調べることにした。

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