燃える管理塔
北水路第三管理塔は、王都の水路に沿って建っていた。
灰色の石壁には、長い年月を経たような染みが浮かんでいる。塔の脇には細い作業路が延び、そのすぐ下を水が流れていた。
水面は見た目よりも速く動いている。
時折、荷車が近くの道を通り過ぎ、その車輪の音が石壁に反響した。
「……ここか」
オタクミは手帳を開いた。
昨日、水路沿いで聞いた話が書かれている。
――北水路第三管理塔。
――通過した船について何か知っている可能性。
――記録の有無・内容は不明。
「とりあえず、船のことを聞けるか確認するんだったな」
「ああ」
アーグが頷いた。
「管理塔という名前でも、荷の記録を扱っているとは限らん。帳簿を見せてもらえるものと思って話を始めるなよ」
「分かってるって」
「昨日もそう言っていたな」
「昨日はちゃんと守っただろ!」
セラが小さく笑った。
「今日は何回言われるのかしら」
「もう二回目だよ!」
軽口を交わしながらも、オタクミの目は塔へ向いていた。
昨日、市場で調べた塩の価格情報。
その紙には、値上がりに注意する理由として、水路からの入荷状況を考慮したと書かれていた。
だが、どの船が、いつ、どれだけの塩を運んだのかまでは分からない。
荷の遅延分だけを書き出すよう頼まれたという証言も得たが、その数字が実際に市場の紙へ使われたかは未確認だ。
だからこそ、数字になる前の荷の動きを確かめたい。
「じゃあ、行こう」
三人は塔へ向かった。
◇
正面の扉は閉じていた。
オタクミが近づき、扉を叩く。
「すみませーん! ちょっとお聞きしたいことがあるんですけど!」
返事はない。
もう一度叩く。
やはり、誰も出てこなかった。
「留守か?」
「分からん」
アーグは周囲を見回した。
「常に人がいる場所とは限らないからな」
「じゃあ、出直す?」
セラはそう言いながら、塔の脇へ回った。
水路側にも窓がある。
その内側を見上げたとき、何かが動いたように見えた。
「……待って」
「どうした?」
「今、窓の向こうに影が見えた気がするの」
オタクミも顔を上げた。
窓の内側は薄暗い。
人がいるようにも見えたが、はっきりとは分からない。
そのとき。
こつん、と何かが床へ落ちる音がした。
三人が顔を見合わせる。
「……誰かいるのか?」
オタクミは扉へ向かって声をかけた。
「大丈夫ですか!」
返事はなかった。
だが、扉の下から細い灰色のものが流れ出てきた。
煙だった。
「アーグ!」
「見えている」
アーグが扉へ近づく。
煙は最初、わずかに漂う程度だった。
しかし、数呼吸のうちに、その量が増えていく。
「火事……?」
セラが呟いた。
塔の奥から、ぱちぱちと乾いた音が聞こえる。
「まずいな」
アーグは扉の取っ手へ伸ばしかけた手を止めた。
「開ければ空気が入って、火が強くなるかもしれん。正面には立つな」
「でも、中に人がいるかも」
「だからこそ、慎重に動く」
セラが近くの道へ目を向けた。
荷を運んでいる人々の姿が見える。
「私、助けを呼んでくる!」
「頼む!」
セラが走り出した。
オタクミは扉へ向かって、もう一度叫んだ。
「中に誰かいますか!」
しばらく返事はなかった。
そのあと。
「……う……」
かすかな呻き声が聞こえた。
オタクミは息を呑んだ。
「いる! 誰かいるぞ!」
声は遠くない。
扉のすぐ向こうから聞こえたように思えた。
アーグも耳を澄ませる。
「聞こえるか! 動けるなら返事をしてくれ!」
弱い音が返ってきた。
言葉にはならない。
その直後、塔の奥で何かが割れる音がした。
橙色の光が、扉の隙間からちらつく。
「火が回ってる!」
オタクミが叫んだ。
アーグは扉の脇へ位置を移した。
「開ける。お前は少し下がれ。熱が強ければすぐ閉めるぞ」
「分かった」
アーグが身体を低くして、扉をわずかに押す。
隙間から、熱を帯びた煙が流れ出した。
「っ……!」
アーグが顔を背ける。
そのまま扉を戻そうとしたが、途中で何かにつかえた。
「内側に物があるな」
扉は半ばまでしか閉まらない。
隙間の向こうには、倒れた木製の棚が見えた。
奥の方では炎が揺れている。
オタクミは低い位置から中を覗き込んだ。
「……あっ!」
棚の向こう。
床へ伸びた腕が見えた。
その持ち主は、扉から数歩も離れていない場所に倒れている。
「人だ!」
アーグも姿を確認した。
仕事着のような服を着た男だった。
額の脇に血が滲んでいる。
倒れた理由までは分からない。
だが、男の指先がわずかに動いた。
「生きてる!」
オタクミは扉へ手をかけた。
アーグが腕を掴む。
「待て!」
「でも、あそこにいる!」
「見えている。だが、煙が濃い。奥には入れん」
オタクミは男と入口の距離を見た。
ほんの数歩。
近い。
それでも、煙が満ちた建物の中では、その距離さえ危険だ。
このまま待つべきなのか。
助けを呼びに行ったセラが戻ってくるまで、男が持ちこたえられるのか。
その間にも、奥では火が広がっている。
「……あの棚を動かせば、手が届く」
オタクミが言った。
「無理に奥まで行かなくても」
アーグは倒れた棚の位置を確かめた。
棚の端は扉のすぐ内側にある。
動かせば、男へ近づけるかもしれない。
だが、棚の向こうでは黒煙が濃くなりつつあった。
「一度だけだ」
アーグが言った。
「動かなければ退く。火が近づいても退く。いいな」
「……うん」
「返事だけじゃなく、守れよ」
「分かった」
二人は低い姿勢のまま、倒れた棚の端を掴んだ。
◇
木材が石床を擦った。
棚は重かったが、二人で引くと少しずつ動いた。
「もう少し……!」
オタクミが力を込める。
棚が傾き、扉の前に人ひとり分の隙間ができた。
その向こうに倒れた男の上半身が見える。
オタクミは身を低くして、男の腕へ手を伸ばした。
指先が届く。
「……届いた!」
「そこで止まれ!」
アーグが声を張った。
「それ以上は入るな。こっちへ引け!」
オタクミは男の身体を少しずつ手前へ寄せた。
男の肩が棚の残骸に引っかかる。
「うわっ、重い!」
「腕だけ引っ張るな。肩と背中を支えろ」
アーグも手を伸ばし、男の身体を持ち上げるように支えた。
二人で少しずつ後退する。
男の靴が石床を擦った。
入口まで、あとわずか。
そのとき。
塔の奥で大きな音がした。
積まれていた木箱が崩れ、火の粉が舞った。
新しい煙が押し寄せる。
「退くぞ!」
アーグが叫ぶ。
オタクミは男を支え直した。
「あと少し!」
二人は力を合わせ、男の身体を外へ引き出した。
冷たい空気が頬に触れる。
その瞬間、オタクミは激しく咳き込んだ。
「げほっ……!」
膝が石畳につく。
目が痛い。
喉も焼けるようだった。
アーグも片膝をつき、荒い息を吐いている。
だが、二人の間には男が横たわっていた。
オタクミは顔を近づけた。
胸が、わずかに上下している。
「……生きてる」
声が震えた。
「よかった……」
アーグは男の呼吸を確かめ、すぐに塔から離れた場所へ運ぼうとした。
「まだ安全じゃない。煙から遠ざけるぞ」
「うん」
二人は男を支え直し、石畳の端へ移動した。
その間にも、塔の内部では火が広がっている。
灰色だった煙が、次第に黒くなっていった。
◇
「こっちよ!」
セラの声が聞こえた。
振り返ると、何人もの人が駆け寄ってくる。
近くで作業していた者たちらしい。
セラは先頭に立ち、倒れた男のところへ走った。
「大丈夫!?」
「呼吸はある」
アーグが答える。
「だが、意識は戻っていない。煙を吸っている可能性もある。すぐ手当てが必要だ」
「分かった!」
セラは一緒に来た人々へ状況を伝えた。
そのうちの一人が男の顔を見て、声を上げる。
「この人、塔の管理人だ!」
「知ってるのか?」
オタクミが尋ねた。
「ああ。何度か見かけている」
男はそう答え、周囲の者へ呼びかけた。
管理人を安全な場所へ移す者。
手当てのできる者を探しに走る者。
塔の近くへ人が寄らないよう声をかける者。
火災への対応が始まった。
アーグは、管理人が倒れていた位置や火災を発見したときの様子を、近くにいた者たちへ説明した。
「原因は分からない。入口の近くに倒れていた。額には傷があったが、どうして負傷したかは見ていない」
話を聞いた者が頷く。
セラも、救護に必要な人を呼んでくると告げた。
オタクミはしばらくその場に座り、呼吸を整えていた。
目の奥が痛い。
大きく息を吸おうとすると、喉がひりついた。
「……オタクミ」
アーグが振り返る。
「何?」
「次からは、もっと早く人を呼べ」
「……うん」
「お前まで倒れたら、助ける人間が増えるだけだ」
「分かってる」
アーグは少し驚いたような顔をした。
「反論しないのか?」
「したいけどさ」
オタクミは燃える塔を見た。
「本当に、危なかったから」
倒れていた男の腕。
煙の向こうで揺れた炎。
手が届く距離だったのに、引き出すまでがあんなに長く感じられた。
「……助けられてよかった」
アーグはしばらく黙っていた。
それから、短く息を吐く。
「ああ。それは俺も同じだ」
腰元から、ゴルドスの声がした。
「勇気と無謀は、同じではないぞ」
「分かってるよ」
「本当に分かっておるならよいが」
「今日は説教が多いな……」
「心配をかけたからだ」
オタクミは言い返しかけた。
だが、結局、何も言わなかった。
代わりに、もう一度だけ管理人を見た。
周囲の人々が手当てを始めている。
まだ意識はない。
それでも、塔の中へ置き去りにせずに済んだ。
そのことだけは、確かだった。
◇
そのときだった。
「……あっ!」
セラが鋭い声を上げた。
オタクミが顔を向ける。
セラは塔の水路側を見ていた。
「誰か、裏の方から出てきた!」
作業路に、人影があった。
黒っぽい外套を着た人物だ。
その腕には、革張りの細長い筒が抱えられている。
オタクミは目を凝らした。
「……図面筒?」
遠目には、そう見える。
だが、中に何が入っているかは分からない。
人物は塔から離れる方向へ、足早に進んでいた。
「待って!」
セラが呼びかける。
相手は止まらなかった。
むしろ、速度を上げる。
「アーグ、あいつ!」
オタクミが立ち上がろうとした。
だが、すぐに咳が出る。
アーグが肩を押さえた。
「お前は動くな」
「でも、あいつ――」
「煙を吸ったばかりだろう」
「……っ」
オタクミは唇を噛んだ。
追いたい。
火災が起きた管理塔から出てきた人物だ。
何かを持ち出しているかもしれない。
だが、今の自分が全力で走れば、足手まといになる可能性が高い。
「俺はセラと行く」
アーグが言った。
「管理人のことは、来てくれた人たちに任せる。お前はここで休め」
「……分かった」
セラはすでに走り出していた。
アーグも、その後を追う。
オタクミは二人の背中を見送った。
「……くそっ」
思わず拳を握る。
けれど、管理人を助けたことを後悔したわけではない。
ただ、身体が一つしかないことが、悔しかった。
◇
水路沿いの作業路は狭かった。
片側には石壁。
もう片側には、流れの速い水路。
セラは前を走る人物を見失わないよう、距離を詰めていく。
「待ちなさい!」
声をかけても、相手は止まらない。
細長い筒を抱えたまま、下流へ向かって走っている。
セラは相手の背中を見つめた。
管理塔から出てきた人物。
火災の最中に何かを持って逃げた人物。
ただし、その人物が火をつけたかどうかは分からない。
それでも、話を聞く必要がある。
「止まって! 管理塔で何があったの!」
返事はなかった。
前方で作業路が少し広くなる。
水路へ降りる石段があり、その先には小舟が浮かんでいた。
岸へ寄せられた舟には、櫂を持った人物がいる。
逃走者は石段へ向かった。
「船に乗るつもり……?」
セラも足を速める。
だが、その瞬間。
小舟が岸から離れた。
「えっ?」
逃走者も足を止めた。
船の方へ向かって何かを叫ぶ。
だが、水音にかき消され、言葉までは分からなかった。
船頭は振り返らず、下流へ舟を進めていく。
セラは一瞬、迷った。
小舟と逃走者は関係があるのか。
それとも、偶然そこにいた舟なのか。
どちらとも決められない。
だが、今追っているのは、図面筒のようなものを抱えた人物だ。
その筒は、まだ逃走者の腕の中にある。
セラは視線を戻した。
「その筒、何なの?」
相手は答えなかった。
代わりに、筒を抱え直す。
「管理塔から出てきたのを見たわ。火事のこと、何か知っているんでしょう?」
逃走者が後ずさる。
そして、突然向きを変えた。
「……っ!」
作業路の先へ走り出す。
セラもすぐに追った。
しかし、相手は通路の端に積まれていた木箱を押し倒した。
箱が崩れ、道を塞ぐ。
「危ない!」
セラは足を止めた。
木箱が石床を転がる。
避けようとした一瞬で、相手との距離が開いてしまった。
そのとき、後ろからアーグの声がした。
「セラ!」
「こっち! 筒を持ったまま下流へ逃げてる!」
アーグが追いつく。
セラは前方を指さした。
「黒っぽい外套の人! あの角を曲がった!」
「分かった。無理に近づくな」
「でも、このままじゃ――」
「二人で動く。相手が何を持っているか分からん」
セラは悔しさを飲み込み、頷いた。
二人は木箱を避け、作業路を進んだ。
◇
曲がり角の先には、荷車が行き交う道があった。
水路沿いの細い通路とは違い、人の往来がある。
逃走者の姿が、一度だけ見えた。
黒っぽい外套。
腕に抱えた細長い筒。
その人物が、荷車の向こうへ走っていく。
「あそこ!」
セラが叫ぶ。
だが、ちょうど別の荷車が横切った。
進もうにも、道が塞がれる。
荷車を避けて前へ出たときには、人影は見えなくなっていた。
「……見失った」
セラが立ち止まる。
アーグは周囲を見回した。
「最後に見たのは?」
「あの荷車の向こう。筒も、まだ持っていた」
「そのあとは?」
「分からない……」
セラは唇を噛んだ。
「もう少しで追いつけそうだったのに」
「無理に突っ込まなかったのは正しい判断だ」
「でも……」
「相手がどこへ逃げるつもりかも分からん。人混みの中で見失った以上、手当たり次第に追っても危険だ」
セラは足元を見つめた。
逃走者の顔は見ていない。
所属も、目的も分からない。
持っていた筒が何なのかさえ、確かめられなかった。
それでも、最後に見たとき、筒は確かに相手の腕にあった。
そこまでは言える。
「……戻りましょう」
セラが言った。
「オタクミに、見たことを伝えないと」
「ああ」
アーグも頷いた。
水路の方へ視線を向ける。
さっきの小舟は、もう見えない。
だが、あの舟と逃走者に関係があると決めつけるわけにはいかない。
まずは、確かめたことを整理する必要がある。
二人は管理塔へ引き返した。
◇
管理塔の周辺では、火災への対応が続いていた。
塔の内部からはまだ煙が上がっているが、火の勢いは少しずつ弱まり始めていた。
管理人は建物から離れた場所で手当てを受けている。
意識は戻っていない。
オタクミは近くに座り、手帳を開いていた。
セラとアーグの姿を見つけると、すぐに顔を上げる。
「どうだった?」
セラは首を横に振った。
「逃げられたわ」
「そっか……」
「図面筒みたいなものを抱えていた。最後に見たときも、まだ持っていた」
「中身は?」
「分からない」
アーグが続けた。
「逃走者は水路沿いの作業路を下流へ進み、途中で荷車の通る道へ出た。そこで見失った」
「……じゃあ、船には乗ってない?」
「少なくとも、俺たちが見ていた範囲ではな」
セラが頷いた。
「途中に小舟がいたの。逃走者が乗ろうとしたようにも見えたけど、舟は先に下流へ離れたわ」
「関係があったのか?」
「それは分からない」
アーグが答えた。
「小舟と逃走者を、同じ目的で動いていたと決めつける材料はない」
「なるほど……」
オタクミは手帳に書き留めた。
――管理塔から図面筒らしい物を持った人物が出た。
――セラとアーグが追跡。
――逃走者は作業路を下流へ。
――途中で荷車の通る道へ出た。
――最後に確認したとき、筒は逃走者が所持。
――小舟も下流へ移動。
――逃走者と小舟の関係は不明。
書き終えると、オタクミは燃えた塔を見上げた。
「……結局、船のことを聞きに来たのに、何も聞けなかったな」
「ああ」
「代わりに、火事が起きて、管理人が倒れてて、図面筒みたいなのを持った奴が逃げた」
セラが頷く。
「全部が関係しているのかもしれない。でも、偶然同じ時に起きたことなのかもしれない」
「そうだな」
アーグは塔の入口へ目を向けた。
「火災の原因も、逃走者の目的も分からん。管理人が意識を取り戻せば、何か聞ける可能性はある」
「……それまでは、決めつけない」
オタクミは手帳に一行加えた。
――管理塔火災と逃走者の関係、不明。
腰元からゴルドスの声がした。
「分からぬことばかり書いておるな」
「分からないのに、分かったことにしたらまずいからな」
「ふむ。少しは学んだようだ」
「昨日から何回それ言われてるんだよ」
オタクミは苦笑した。
だが、次の瞬間には、再び真剣な顔になった。
「……でも、あの筒は気になる」
アーグが頷く。
「火災のあった塔から持ち出されたものだ。無関係と決めることもできん」
「だったら、追わないと」
セラが言った。
「でも、どこへ行ったか分からないわ」
オタクミは水路の下流を見た。
「最後に見たのは、下流へ向かう道だったんだろ?」
「ええ」
「その先って、どこへつながってる?」
アーグは少し考えた。
「水路沿いの道はいくつか分かれる。下流へ進む道もあれば、市街地の方へ戻る道もある」
「じゃあ、逃げ道は一つじゃないのか」
「ああ」
アーグは水路の先を指した。
「ただ、北側へ向かえば、外周の水路につながる。その先には北貨物港方面へ通じる経路もある」
「北貨物港……」
オタクミは名前を繰り返した。
「でも、あいつが港へ行ったとは限らない」
「その通りだ」
「じゃあ、まずは下流の分かれ道を調べる必要があるな」
アーグが頷く。
「そうだ。最後に見た地点から、どの道へ進めるかを確かめる。北貨物港は、その候補の一つだ」
オタクミは手帳へ書いた。
――逃走者の行き先は不明。
――下流方面の分岐を確認する。
――北貨物港は候補の一つ。
書き終えてから、顔を上げる。
「……追う方法は?」
「徒歩では、もう距離が開きすぎている可能性が高い」
アーグが答えた。
「船を探す手もあるが、すぐに使える船があるとは限らん。陸路で先回りできる場所があれば、馬を使う方法もある」
「馬か……」
オタクミは少し考えた。
「……乗ったことないんだけど」
セラが目を丸くした。
「それで追いかけるつもりだったの?」
「馬が速いってことは知ってる!」
「知っていることと、乗れることは別だぞ」
アーグの指摘が飛ぶ。
「ぐうの音も出ない!」
ゴルドスが低く笑った。
「小僧が馬から落ちる姿が目に浮かぶな」
「まだ乗ってもいないだろ!」
三人の間に、少しだけ笑いが戻った。
だが、アーグはすぐに表情を引き締めた。
「それより、まずお前の身体だ」
「俺?」
「さっき煙を吸っただろう。まだ咳も出ている」
「……まあ、ちょっと喉は痛い」
「ちょっとで済ませるな。手当てを受けろ」
オタクミは反論しかけた。
だが、アーグの目を見て、口を閉じた。
「……分かった」
セラが少し安心したように笑う。
「今日は素直ね」
「今日の俺、ずっとそれ言われてない?」
「それだけ心配されてるのよ」
オタクミは頭を掻いた。
そして、管理人の方へ目を向ける。
倒れていた男は、周囲の人々に見守られていた。
火災を見たことや、男が倒れていた位置については、すでにアーグが説明している。
セラも、現場から逃走した人物のことを、近くで対応に当たっている者へ伝えた。
そのうえで、三人がこれから逃走経路を調べたいと申し出る。
事情を聞いた相手は、無理をしないよう注意し、必要なら後で詳しい話を聞かせてほしいと告げた。
オタクミは頷いた。
自分たちが見たことは、まだ全部を説明できていない。
だから、あとで必ず伝える必要がある。
ただ、逃走者の行方を調べるなら、時間も無駄にはできなかった。
◇
塔から少し離れたところで、オタクミは足を止めた。
振り返る。
灰色の石壁は、煙で黒く汚れていた。
扉の周囲には、火災への対応に追われる人々の姿がある。
船の通過情報を尋ねるつもりで訪ねた場所だった。
それが、今は火災の現場になっている。
調べたかった数字のことは、何も分からなかった。
管理人がなぜ倒れていたのかも。
図面筒の中身も。
逃げた人物の正体も。
まだ、何一つ答えは出ていない。
それでも、オタクミは手帳を開いた。
最後に、短い一文を書き加える。
――今、確かめられることから追う。
「……よし」
顔を上げる。
アーグとセラが待っていた。
「まずは手当てを受ける。それから、逃げた奴が最後に見えた場所へ行こう」
「ああ」
アーグが頷いた。
「そこから先の道を調べる」
「北貨物港へ向かっている可能性もあるのね」
セラが言った。
「可能性の一つだ」
オタクミは水路の下流を見つめた。
市場の紙に書かれた数字。
その根拠とされた、水路の荷。
数字の出所を確かめようとした先で、火災が起きた。
そして、何かを抱えた人物が逃げた。
全部がつながっているとは、まだ言えない。
だが、ここで止まれば、確かめる機会を失うかもしれない。
オタクミは、腰元のゴルドスへ声をかけた。
「……なあ」
「何だ、小僧」
「今日は、何もかも中途半端だった気がする」
「そうか?」
「船のことは聞けなかったし、逃げた奴も捕まえられなかった」
ゴルドスは少し間を置いた。
「だが、一人助けただろう」
オタクミは顔を上げた。
「……うん」
「ならば、何もできなかった日ではない」
それ以上、ゴルドスは何も言わなかった。
オタクミは小さく頷いた。
逃げた人物を追うことも大事だ。
だが、目の前で倒れていた人を助けたことまで、失敗にしてはいけない。
「……そうだな」
オタクミは手帳を閉じた。
そして、二人へ向き直った。
「次は、俺たちが確かめに行く番だ」
セラが頷く。
アーグも、静かに歩き出した。
水路の流れる音は、火災の騒ぎの中でも変わらず響いている。
その先へ逃げた人物。
持ち去られた図面筒。
そして、まだ分からない火災の理由。
三人はまず、逃走者が最後に確認された場所から、追跡できる道を調べることにした。




