作られた相場 その2
翌朝。
オタクミたちは、南区市場から少し離れた小さな宿の一室に集まっていた。
卓上には、昨日書き写した相場表が広げられている。
小麦。
塩。
油。
乾燥肉。
布。
鉄。
白鉄製装飾品。
それぞれの横には基準価格、前週との差、供給予測が並び、その最下部には例の印があった。
円の中に一本の横線。
閉じた目のようにも、地平線のようにも見える。
オタクミは椅子へ浅く腰掛けたまま、その印を何度も指先でなぞっていた。
「見れば見るほど、怪しいマークだな。秘密結社なら、もう少し分かりやすく蛇とか髑髏とか使えばいいのに。」
「分かりやすくしてどうする。」
アーグは窓辺に立ち、外の通りを確認しながら答えた。
「これは威圧するための紋章ではない。内部の人間だけが意味を理解できれば十分だ。むしろ、目立たない方が都合がいい。」
ゴルドスも腰の鞘から低い声を響かせる。
「戦場の伝令印と同じだな。知らぬ者には落書きにしか見えず、知る者だけが命令を読み取れる。」
オタクミは紙から顔を上げた。
「つまり、この印を見て何かする奴がいるってことか。」
「少なくとも、これが何かの承認を示す可能性は高い。」
アーグは卓上へ戻ると、相場表の端を指で押さえた。
「問題は、この印がどこで使われているかだ。会計事務所の看板にはなかった。倉庫の木箱にもない。古い建物で見たのは白い花の紋章だけだった。」
セラは椅子の背へ手を置き、紙を覗き込む。
「じゃあ、別の組織の印なのかしら。カルテルの中にも、役割ごとに違う紋章があるとか。」
「あり得る。」
アーグは頷いた。
「白い花が流通を示し、この印が価格決定を示す。役割を分けているなら、それぞれの人間が全体を知らずに済む。」
オタクミは腕を組んだ。
「また責任の切り分けか。荷物を運ぶ奴は荷物だけ、数字を集める奴は数字だけ、値段を決める奴は値段だけ。誰を捕まえても、俺は自分の仕事をしただけですって言える。」
「その通りだ。」
アーグの表情がわずかに険しくなる。
「しかも、相場表には『推奨』としか書かれていない。値上げを命じたわけでも、仕入れを強制したわけでもない。商人が勝手に従ったと言われれば、それまでだ。」
オタクミは紙を睨んだ。
昨日、市場で見た光景が頭から離れない。
相場表が貼られた直後、商人たちは値札を書き換え、仕入れを急ぎ、在庫を抱え込もうとした。
誰かに命じられたわけではない。
だが、誰もが同じ方向へ動いていた。
「だったら、あの相場表が間違ってるって証明すればいいんじゃないか。」
口にしてから、オタクミは自分の言葉を確かめるように続けた。
「実際の在庫や供給量を調べて、数字が操作されてると示す。そうすれば、商人も信用しなくなるだろ。」
アーグはすぐには答えなかった。
代わりに、卓上へ三枚の硬貨を並べる。
一枚目を相場表。
二枚目を商人。
三枚目を客として置いた。
「仮に、相場表が嘘だと証明できたとする。」
「うん。」
「商人は何を基準に値段を決める?」
「それは……自分で調べるんじゃないか。」
「王都中の在庫を?」
「全部は無理か。」
「上流の収穫量、川の水位、街道の封鎖、工房の生産数、他国からの輸入量。それらを毎日、個人の商人が調べられると思うか?」
オタクミは言葉に詰まった。
相場表を疑うことはできる。
だが、それを捨てたあとに頼るものがない。
ゴルドスが静かに補う。
「偽りの地図でも、地図が一枚しかなければ、人はそれを使う。破り捨てたところで、道が分かるようになるわけではない。」
「じゃあ、嘘だと分かっても従うしかないのかよ。」
「そうなる。」
アーグは硬貨の一枚を裏返した。
「情報が不完全でも、何もないよりはましだと考える。相場表が長く使われてきたなら、商人たちはそれを基準に帳簿をつけ、契約を結び、仕入れの予定を立てている。信用だけではない。商売の習慣そのものが、この表へ依存しているんだ。」
セラは眉を寄せた。
「それなら、相場表を作っている人を捕まえても意味がないの?」
「意味がないわけではない。だが、それだけでは市場が混乱する。」
アーグは紙を二つに折る仕草をした。
「明日から相場表が消えれば、誰も基準価格を知らない。店ごとに値段がばらばらになり、買い占めや便乗値上げが起きる。混乱したところへ別の組織が新しい相場表を持ち込めば、結局同じことが繰り返される。」
オタクミは椅子の背へ深くもたれた。
敵の仕組みを知るほど、単純な解決策が消えていく。
倉庫を壊しても駄目。
帳簿を奪っても駄目。
相場表を破っても駄目。
「……面倒くさすぎるだろ、市場。」
思わず本音が漏れる。
セラは困ったように笑った。
「昨日までは、全部壊せば終わると思っていたものね。」
「さすがに全部とは思ってない。八割くらいだ。」
「残りの二割は何だったの?」
「説得。」
「壊したあとで?」
「順番は今後見直す。」
ゴルドスが呆れたように唸り、アーグは額へ手を当てた。
それでも、張り詰めていた空気はいくらか緩んだ。
オタクミはもう一度、相場表を手元へ引き寄せる。
「でもさ。正しい相場表があればいいんだろ?」
アーグの目がわずかに動いた。
「簡単に言うな。」
「簡単じゃないのは分かってる。でも、今の問題は、カルテルだけが市場全体の数字を持ってることだ。だったら別の場所でも数字を集めて、比べられるようにすればいい。」
オタクミは紙の余白へ二つの四角を描いた。
一つ目には、会計事務所。
二つ目には、まだ名前のない何か。
「相場表が一枚しかないから、みんな信じるしかない。二枚あれば、おかしいところを比べられる。三枚あれば、もっと分かる。」
「数字を集める人間はどうする。」
「商人から聞く。」
「カルテルの影響下にいる商人が、正直に話すと思うか?」
「全部の店が駄目なら、工房から聞く。農家でも、船着き場でもいい。倉庫の在庫を直接見られなくても、作った数と運んだ数を別々に集めれば、大体の流れは分かるだろ。」
アーグは反論せず、オタクミの描いた二つの四角を見つめた。
オタクミは勢いを得て続ける。
「それに、客の側からも調べられる。昨日いくらで買ったか、どこで売り切れていたか、何人並んでいたか。正確じゃなくても、たくさん集めれば偏りは見える。」
セラが感心したように目を見開いた。
「それなら、特別な帳簿を持っていない人でも協力できるわね。」
「そう。市場って、商人だけでできてるわけじゃないだろ。買う人も、作る人も、運ぶ人もいる。カルテルが全部を分けて情報を隠してるなら、こっちは逆に繋げればいい。」
言い切ったあと、オタクミはアーグの顔を見た。
いつもなら、すぐに欠点を指摘される。
だがアーグは黙ったまま、紙の上の二つの四角を見比べていた。
やがて、ゆっくり口を開く。
「方法としては荒い。」
「やっぱりそうか。」
「情報の精度も低い。嘘を混ぜられる危険もある。協力者がカルテルに知られれば、取引を止められるかもしれない。」
アーグは炭筆を手に取り、オタクミが描いた二つ目の四角から、工房、市場、船着き場へ線を伸ばした。
「だが、考え方は間違っていない。」
「本当か?」
「一つの数字を正しいと決めつけない。複数の場所から情報を集め、互いに照合する。少なくとも、今の相場表がどこを歪めているかは見つけられる可能性がある。」
オタクミの顔が明るくなる。
「じゃあ、やろう。」
「待て。」
アーグは即座に釘を刺した。
「始める前に、何を調べるかを絞る。王都中の商品を一度に追えば、こちらが先に潰れる。」
「白鉄製装飾品だな。」
オタクミは迷わず答えた。
「偽物の推しグッズに使われている。正規品との価格差も分かる。カルテルが今、意図的に供給を増やそうとしている商品でもある。」
「それが妥当だろう。」
「まずは一商品。小さく試して、数字が使えるか確かめる。」
アーグは新しい紙を取り出した。
その中央へ、白鉄製装飾品と書く。
周囲には、原料工房、加工工房、問屋、正規店、屋台、客という項目を並べた。
「聞く内容も統一する。感想ではなく、確認できる事実だけだ。
昨日いくつ作ったか。いくらで卸したか。何個売れたか。
在庫がいくつ残っているか。」
セラも会話へ加わりながら、項目を書き足していく。
「急に値段が変わった日。仕入れ先を変えた時期。取引を断られた店。」
オタクミは紙を見ながら頷いた。
「それなら、相場表に書かれた『北部工房からの供給増加』が本当かどうか分かる。
北部工房が実際には増産していなければ、予測の根拠が崩れる。」
アーグはそこで炭筆を止めた。
「ただし、調査していることを悟られるな。一度に聞き回れば、カルテルへ報告が行く。」
「買い物のついでに聞くとか?」
「それがいい。商談を装ってもいい。別々に動き、同じ質問をしないことだ。」
ゴルドスが楽しそうに声を響かせる。
「ようやく戦いらしくなってきたな。」
オタクミは腰の鞘へ手を置いた。
「剣を抜かない戦いだけどな。」
「剣を抜かずに勝てるなら、それに越したことはない。剣は最後に残った者が使うものだ。」
その言葉は、以前のゴルドスなら口にしなかったかもしれない。
オタクミは一瞬だけ鞘を見下ろしたが、何も言わず手を離した。
アーグが調査先を割り振ろうとした、その時だった。
扉が三度、叩かれた。
全員の動きが止まる。
宿の者なら、声をかけるはずだ。
だが扉の向こうは静かなままだった。
少し間を置いて、さらに二度。
昨日、古い建物で事務員が使った合図と同じだった。
セラが腰の武器へ手を伸ばす。
オタクミも立ち上がろうとしたが、アーグが掌で制した。
「誰だ。」
扉へ向けて問いかける。
返事はない。
代わりに、扉の下から一枚の封筒が滑り込んできた。
白い封筒。
封蝋には、閉じた目の印が刻まれている。
誰もすぐには近づかなかった。
しばらく待っても、廊下から物音はしない。
アーグはセラへ目配せし、彼女が扉の横へ立つ。
オタクミがゴルドスへ手をかけたのを確認してから、アーグは慎重に扉を開いた。
廊下には誰もいなかった。
宿の階段を下りる足音もない。
まるで、封筒だけが突然現れたようだった。
「完全に動きを読まれてるじゃないか。」
オタクミの声に、苛立ちよりも薄い恐怖が混じる。
「俺たちがここにいることも、何を調べてるかも知ってる。」
「少なくとも、相場表の印を調べていることは知られている。」
アーグは布越しに封筒を拾い上げた。
裏返しても、宛名はない。
封蝋だけが、こちらを見返すように刻まれている。
「開けるの?」
セラが尋ねる。
「罠かもしれん。」
ゴルドスが警告する。
アーグは封筒の重さを確かめ、慎重に振った。
「紙が一枚。硬い物は入っていない。」
「毒は?」
オタクミの問いに、アーグは眉を上げた。
「急に慎重になったな。」
「成長したんだよ。さっき自分で言っただろ。」
「言っていない。」
「意味としては言った。」
やり取りを交わしながらも、アーグの手つきは慎重だった。
封蝋の端を切り、直接指が触れないよう布で紙を引き出す。
中に入っていたのは、簡素な招待状だった。
日時。
場所。
そして、短い文章。
アーグが声に出して読む。
「『作られた相場に気付いた者へ。今宵、鐘が九つ鳴る時、北水路第三管理塔へ来られたし。
市場を壊したいのか、作り直したいのか。その答えを聞きたい』」
部屋の空気が重くなる。
オタクミは招待状を見つめた。
自分たちが先ほど交わしていた会話を、誰かが聞いていたかのような文面だった。
「行くの?」
セラの問いに、オタクミはすぐ答えようとした。
だが、口を開く前にアーグが言う。
「行かないという選択肢も考える。」
「でも、向こうから接触してきたんだぞ。数字を決めてる奴に近づけるかもしれない。」
「近づけるのではなく、呼び込まれている。」
アーグは招待状を卓上へ置いた。
「場所も時間も相手が決めた。罠なら、これほど分かりやすい罠はない。」
「だからって無視したら、次の手掛かりが消える。」
「それも相手の計算かもしれない。焦って来るかどうかを試している。」
オタクミは反論しかけたが、そこで言葉を止めた。
以前なら、迷わず行くと言っていただろう。
だが、ここまでの調査で何度も思い知らされた。
相手は、こちらが何を見るかだけではなく、どう考えるかまで読もうとしている。
「……行く。」
それでも、オタクミはそう答えた。
アーグの視線が向く。
「理由は?」
「会いたいからじゃない。」
オタクミは招待状の一文を指した。
市場を壊したいのか、作り直したいのか。
「こいつは俺たちが何を考えてるか知りたがってる。
だったら、俺たちも向こうが何を正しいと思ってるのか聞ける。」
「正しさを語る相手とは限らない。」
「分かってる。でも、市場をここまで作り替えた奴が、何も考えずにやってるとは思えない。」
オタクミは昨日の相場表を手に取った。
「こいつらは、ただ金を儲けたいだけじゃない。安売りして赤字を出してまで店を潰し、情報を集め、相場を作ってる。そこまでして市場を支配する理由があるはずだ。」
アーグは黙って聞いている。
「その理由を知らないと、仕組みを壊しても同じ奴がまた出てくる。俺たちが代わりの仕組みを作ろうとしても、どこを間違えたら同じ支配になるのか分からない。」
セラは招待状とオタクミを交互に見た。
「相手の考えを知るために、罠へ入るの?」
「罠に入るつもりはない。話を聞いて、帰る。」
ゴルドスが低く笑った。
「罠へ向かう者は、皆そう言う。」
「不吉なこと言うなよ。」
「だから我も行く。」
鞘が小さく震える。
「お前が口車に乗せられそうになったら、叩き起こしてやる。」
「抜かずに?」
「鞘でも殴れる。」
オタクミは腰のゴルドスを押さえながら、苦笑した。
アーグはしばらく考え込んでいたが、やがて招待状を折り畳んだ。
「行くなら、相手の条件どおりには行かない。」
「どうする?」
「先に場所を調べる。出入口、水路、周囲の建物、逃げ道。招待された者が全員で正面から入る必要もない。」
「私が外に残る?」
セラが尋ねると、アーグは頷いた。
「俺かセラのどちらかが外で状況を見る。中へ入る人数も、直前まで決めない。」
オタクミは少し考え、口を開く。
「俺は行く。」
「それは最初から分かっている。」
「アーグも来てくれ。」
「どうしてだ?」
「俺一人だと、経済の話で言いくるめられそうだから。」
あまりに率直な返答に、セラが思わず笑う。
アーグも呆れた顔をしたが、否定はしなかった。
「自覚があるのは結構だ。だが、俺が一緒なら言いくるめられないとは限らん。」
「その時はゴルドスが殴る。」
「我を最終手段にするな。」
「剣は最後に残った者が使うんだろ?」
「都合のいいところだけ覚えおって。」
その日の午後。
四人は別々に宿を出た。
目指すのは、王都北部を流れる水路。
第三管理塔。
まだ名も知らぬ相手が用意した、最初の対話の場所。
そして同じ頃。
古い建物の最上階では、一人の男が新しい報告を受け取っていた。
「招待状は受け取ったようです。」
事務員の報告に、男は地図から目を離さない。
「反応は?」
「すぐには動きませんでした。宿の周辺を確認し、午後から管理塔の下見を始めています。」
「悪くない。」
男は地図上に置かれた四つの駒を見た。
そのうち一つだけが、他とは異なる色をしている。
「来るでしょうか。」
事務員が尋ねる。
男は少し考えたあと、静かに答えた。
「来る。」
断定だった。
「なぜそう思われるのです?」
「彼は、敵を倒すことより、敵がなぜその形になったかを知ろうとし始めた。」
男は異なる色の駒を指先で押し、北水路の管理塔へ進める。
「そういう人間は、問いを置かれると無視できない。」
駒が塔を示す印の上で止まった。
「問題は、どんな答えを持って来るかだ。」
室内の奥で、時計が一度だけ音を立てる。
男は窓の外へ目を向けた。
まだ夕刻には早い。
それでも王都の影は、ゆっくりと長くなり始めていた。
「市場は、誰かが形を与えなければ混乱する。」
男の声は、独り言のように静かだった。
「彼がそれを支配と呼ぶのか。」
わずかな間を置く。
「それとも、責任と呼ぶのか。」
答えを待つように、閉じた目の印が刻まれた駒だけが、盤上で沈黙していた。




