盤面の外側 その1
倉庫街を離れてしばらく。
誰も口を開かなかった。
市場へ戻れば人々の笑い声や呼び込みの声が聞こえる。それなのに、四人にはその賑わいがどこか遠くの出来事のように感じられた。
やがて、人通りの少ない川沿いまで来ると、アーグがようやく足を止めた。
「ここなら話せる。」
オタクミは周囲を見回す。
人影はまばらで、耳を澄ませても水音しか聞こえない。
「ここまで来る必要があったのか?」
「必要だ。」
アーグは即答したが、その口調は先ほどまでより穏やかだった。
「尾行されている可能性を捨てるな。あの老人が監視役なら、俺たちがどこまで気付いたかを確かめる人間が、もう一人いてもおかしくない。」
セラが肩越しに市場の方を見る。
「……そこまで警戒するものなの?」
「相手が普通の商会なら、ここまではしない。」
アーグは川面へ小石を投げた。
波紋がゆっくりと広がる。
「だが、カルテルは違う。あいつらは情報を財産にしている。誰が何を知ったか、それ自体が価値になる。」
オタクミは腕を組みながら考え込む。
「でも、俺たちが見たのは倉庫だけだろ?」
「そう思わせることが目的だったら?」
「……。」
その一言で、思考が止まった。
ゴルドスが静かに口を開く。
「盤上で戦う者は、駒を見る。
盤を支配する者は、相手の思考を見る。
敵は、お前たちが何を見たかより、何を考えたかを知りたいのだ。」
オタクミは苦笑した。
「嫌な相手だな。本当に。」
「だから勝っている。」
アーグは短く答えると、懐から一枚の紙を取り出した。
市場で買った包み紙だった。
裏は白い。
彼は腰から炭筆を抜き、紙の上に四角を描き始める。
「何を書いてる?」
「今日見た倉庫だ。」
線が一本、また一本と増えていく。
大きな倉庫。
中継倉庫。
市場。
そして荷馬車が通った道。
「あれ?」
オタクミは身を乗り出した。
「何か変か?」
「数が合わない。」
アーグは炭筆を止めずに答える。
「倉庫は七つ見た。荷馬車は五台だった。」
「それが?」
「一台で全部回るなら、荷車が足りない。
二台で分担したなら、時間が合わない。
三台以上なら、人夫の数が少なすぎる。」
オタクミは図を見ながら首を傾げる。
「つまり?」
「俺たちは途中しか見ていない。」
アーグは炭筆で地図の外側を指した。
「始まりも終わりも見ていない。」
「始まり……工房か。」
「終わりは?」
「分からん。」
「店じゃないのか?」
アーグは静かに首を横へ振る。
「市場は終点じゃない。」
「え?」
「客が買って終わりなら、補充の時期は読めない。
だが、あいつらは正確すぎた。」
オタクミの頭の中で、何かが繋がり始める。
「……売れた数を把握してる?」
「その可能性が高い。」
「屋台から報告が上がるのか。」
「あるいは、もっと効率的な方法がある。」
セラが不思議そうな顔をした。
「もっと効率的?」
アーグは紙に小さな印を付ける。
「例えば、一日に何箱補充したかだけで十分だ。
売上を全部聞く必要はない。
補充量が分かれば、どれだけ売れたかは計算できる。」
「なるほど……。」
オタクミは感心したように息を漏らした。
「だから帳簿だったのか。」
「商品じゃなくて数字を見ていた。そういうことだ。」
アーグは頷く。
「商品の管理じゃない。市場の管理だ。」
ゴルドスが低く笑う。
「敵ながら見事だな。
戦争でも補給を制する者が勝つ。
この連中は、剣ではなく金で戦争をしている。」
その言葉に、オタクミは思わず天を仰いだ。
「異世界まで来て経済戦争かよ……。」
「剣で勝てる相手なら、もっと昔に終わっている。」
アーグは淡々と返す。
「だから王国も手を焼いている。」
その時だった。
オタクミの視線が、一つの違和感を捉えた。
川の向こう岸。
荷船が一隻、ゆっくりと岸へ近付いている。
「……あれ。」
「どうした?」
「船だ。」
三人も視線を向ける。
荷船は特別大きくはない。
だが、積まれている木箱には、見覚えのある焼き印があった。
白い花。
倉庫街で見たものと同じ紋章。
「船でも運んでるのか。」
オタクミが呟く。
しかしアーグは、その船ではなく川そのものを見ていた。
そして数秒後、小さく笑う。
「そういうことか!」
「何が分かった?」
オタクミが尋ねると、アーグは紙の地図へ一本の線を書き加えた。
「俺たちは倉庫街ばかり見ていた。
だが、本当の物流は陸だけじゃない。
川も使っている。」
線は王都の外へ伸びていく。
さらに、その先へ。
「これなら説明がつく。
荷馬車が少なかった理由も。
工房が見つからなかった理由も。
市場の補充が異常に早かった理由も。」
オタクミは図を見つめたまま、ゆっくりと息を飲んだ。
「……王都の外にも、拠点があるのか。」
アーグは静かに頷く。
「しかも、一つや二つじゃない。
俺たちが見たのは、巨大な仕組みの入口に過ぎない。」
川を下る荷船は、何事もなかったかのようにゆっくりと橋の下へ消えていく。
四人は誰一人として、その姿から目を離せなかった。
敵は、思っていたよりもずっと大きい。
その事実だけが、静かに胸へとのしかかっていた。




