憧れを持たれる結末と嫌悪を持たれる結末。なにがそれらを分けるのか?
最近、とあるアニメを見た。そのアニメでは、選択の果てに主人公は死んでしまうわけだが、この結末に多くの人が涙し、人々は「結末はこうだけど、謎に爽やかさがあった」、「憧れる」といった感想を持っているようだ。
その一方で、『山田さんとみいちゃん』という漫画では、主人公が既に死んでいる描写が物語の始まりにあり、おそらく選択の果てにあるこの結末に対して、嫌悪を抱く人はいても、「爽やかさ」や「憧れ」を感じる人間は少ないと思う。
憧れを持たれる結末。
嫌悪を持たれる結末。
2人とも死んでいるのに、なにが違うのだろうか。
とても不思議だ。
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私が思うに、選択をする際に、それが「意志による選択なのか」、それとも「惰性による結果なのか」という主体性と客体性(=受動的)の違いが、爽やかさや憧れの有無を作り出しているのではないかと思う。
憧れを持たれた方のアニメの主人公は、自分の意志で選択をした果てに、死んでしまった。
その主人公は誰かの大きな夢や何かの願いを背負っていたから、自分だけの純粋な意志で死を選んだとは言えないかもしれない。しかし、「自分は死ぬ」と分かっていても進み続けたのは、まぎれもなく主人公の意志による選択で、これは世界や運命への宣戦布告でもある。
一方で、『山田さんとみいちゃん』の主人公であるみいちゃんは、特定の成功体験を繰り返した結果、その強力な成功体験を自分の武器にしてしまい、それに頼りすぎた結果、「周囲の世界に流されてしまった」という印象がある。
みいちゃんは問題を解決するために、武器を振るうが、その武器が効くかは相手の気質に依存するため、問題が解決するかどうかは、みいちゃんの純粋な能力や意志によるものではない。
そのことを踏まえると、みいちゃんは自分で人生を選択しているように見えて、他人の気質に強く依存する武器の副作用により、自身の選択に他人の気質が強く影響してしまう。
その結果、自身の意志による選択が人生に及ぼす影響は少なくなり、世界や運命に惰性で流されているように見えてしまう。
つまり、「意志による選択」と「意志に欠けた惰性の結果」では、人生の主導権に明確な違いがあるため、その主導権の有無の差が「憧れ」と「嫌悪」を分けているものなのかもしれない。
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人間には、「駆け落ち」というものがある。これに憧れる人は、まぁまぁいるだろうが、この良さとは自身の意志による「剥き出しの生命活動」にあるのではないだろうか。
人間は生まれたときから、国や社会、家族から責任を課され、保護されるようになっている。その保護を捨て去り、自身の意志による選択で苦しみを感じ、愛を探すことは、保護を必要としない剥き出しの生命活動であり、「純粋な生命活動」とも言える。
人は生まれたときから、自分以外のものから自動的に責任を負わされ、人生の主導権を奪われる。そのかわりに、社会的なインフラ(=病院や法など)による膨大な保護が与えられるわけだが、それがあるからこそ、自分の意志による人生の決定権はほとんど機能しない。
枠をはみ出れば、すぐ保護はなくなり、全てが剥き出しのまま生きなければならない。
そうなると、後ろ指を心に刺され、同調圧力によってその存在を世界から否定される。
とても生きてはいけない。
だからこそ私たちは、自分の意志で保護を抜け出し、人生を進んでいく人間に憧れを抱くのだろう。
その先がどんな結末になるのか分からない。
けれど、その先には「真実の愛」や「温かい繋がり」のような、保護の内では滅多に手に入らない、非合法的なものが眠っているのかもしれない。
窓から眺める人々はとても美しい。
【あとがき】
「――青春を駆け抜ける」というフレーズは、2度もない「青春」と、自分の意志によって「駆け抜ける」という主体的な深みを感じさせる言葉のために、それを見た人間は、誰かが1度きりの青春を自分の意志で駆け抜ける様子を感じ、自身のままならなかった青春を思い出させる。
「あの頃に戻りたい」と願う気持ちと、あの夏に吹いていた風を今も思い出して、戻れない今に胸が締め付けられる。
だからこそ、このフレーズはいいのだ。
締め付けられた胸の苦しみは、記憶の中の自身が青春を送っていた分だけ強くなる。
決して。――物語的な青春ではないけれど、あの夏はいまも、私たちの心に残っていることを教えてくれるから。
あの日。私たちは自分の意志と周囲の圧力に揺れていた。だからこそ、主体的な選択をしようとしていたあの夏に戻りたくなるのだと私は思う。




