他人からの「甘えている」という審判を考える。
他人の行動を「甘えている」と判断するとき、確かに限りなく甘えているように見えることもあるだろう。
だが、自身の特別な才能を一般化し、他人を「甘えている」と断じることこそが、「自身の甘え」である場合も考慮しなければならない。
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私は昔、不安障害になっていたが、病院へ通わずに自力で治してしまった。急に立ていられなくなったり、家中に毒が塗られていて、呼吸一つを間違えれば、毒は粒子となって広範囲に撒き散らされると怯えていたから、決して軽い症状ではなかった。
しかし、「例外を作る」「不安に負けない」といったルールと根性論によって、1年くらいで治してしまった。
これは強力な成功体験であり、精神医学的には稀なことだ。私の精神が特別強いことを素直に認め、間違っても、その才能を一般化し、他人の努力を測る基準にするべきではない。
たしかに、謙虚や謙遜は美徳ではあるが、明らかに異常な状況で出した成果すらも、「自身の才能が凄い」と認めないことは、もはや他人への暴力である。
もし私が、自身の成功体験を基準に精神疾患を抱えている人々をジャッジすると、全ての人は甘えになってしまう。
そんなバカなことはあり得ない。
そこまでくるとおかしいのは私であり、「謙虚は美徳」という言葉で自身の才能から目を背け、才能があると自負することによる「他者からの攻撃」を避けようとする姑息な精神にほかならない。
その歪さを抱えたまま、他人の事情や努力をジャッジする様子は、自身の才能による功績から目を背けているはずなのに、他人を「甘えている」と断じることで、自身の才能の再確認をしているように見える。
いうなれば、部屋のクローゼットに優勝トロフィーを隠すように配置している一方で、友達と話す際には、どんな話でも必ず「あの日の優勝経験」に持っていく歪な人間のようだ。
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「甘えている」という言葉1つは主観的なものに過ぎない。けれど、具体的なエピソードがくっつくことによって、「甘えている」というジャッジは、客観的で絶対的な判断のように思えてしまう。
それは、辛い人を刺し殺すために紡ぎ出された言葉の暴力である。
甘えの審判者たちが、そのペテン師の技術の構造を意識的に使っているのかは知らないが、「甘えているという主観的言葉」と主観の続きでしかない「具体的な成功例による客観性の持たせ方」による構造的歪さがある。
その歪さが人の人生を殴りつけ、終わらせる。
つまり、大抵の「甘えている」という判断はその言葉の主が自身の才能や状況を無視したことによる誤りであり、絶対的な審判ではない。
【あとがき】
甘えの審判者たちも辛い歴史を持っているのだろうが、他人をジャッジして自身の才能をチラ見するよりも、自身の才能を認めた方が辛さが減るのではないかと思う。
審判者たちが自身の才能を認められないのは、その論理性や自身の成果物に対して変に客観的すぎるために「根拠」や「データ」を求めてしまう癖も関係しているのだろうか?
今ならAIに、自身の成功体験を話し「一般的なことですか?」と聞けば、ある程度のデータが手に入るため、自身の心を締め付けているものが解消しやすいのではないかと思う。
私はそうした。
――そういえば、「あれ、精神が強いのに精神疾患になったの?」と思う方もいるかもしれないが、パーソナリティ障害の母親の支離滅裂な言動と居場所を常に特定しようとする策略が20年以上、付き合っているパートナーの10回の浮気と200回を超える嘘は、さすがに無理だった。
これは私の選択によるものであるわけだから、代償みたいなものだ。後悔はしていない。




