NTRという加害性の置換を考える(NTRにモヤモヤする人向け、長め)
NTRが嫌いな人やその存在がよく分からない人だけに読んでほしい。
NTRを解剖したために、それらを好む人間には不向きだ。
NTRを好んでいる人間が読むと、
実在の恐怖に囚われ、楽しめなくなる。
だから、読まないほうがいい。
――いや、読まないで。
ただ、面白いからって自分の認識を解剖されたら痛くて苦しいと思う。
ここまで忠告したから、読み進める人は「NTRが嫌いな人」、「NTRとはなんなのか考えたい人」、「視点を増やしたい人」。
そんな人間が読んでいると想定して話を進める。
これは禁書でありながら、劇薬でもある。
合わない人間は不快な思いをするし、合うなら⋯⋯NTRを看破する力を得られると思う。
私はNTR(=寝取り、寝取られ)が嫌いなわけだが、その理由を5年間ぐらい考えていた。彼女に10回浮気され、その内の明確なNTRは6回くらいだが、その心の痛みの理屈がよく分からなかった。
「裏切られた」
――にしては、痛みが深すぎる。
そんな単調な理屈でこの痛みは考えられない。
NTRへの嫌悪は本能によるものなのか。
それとも自身の聖域への侵略が嫌なのか。
並べられたお利口な理由にしっくりこない。
そして、その理由がさっき分かった。
私はNTRが持つ自己保身が嫌いなのだ。
◇
正直、私はNTRの深みには詳しくない。だから取りあえず、「NTR(=寝取り)」と定義して話を進めるが、この場合のNTRは、「他人への加害性を性欲として置換し、その相手の心体的な同意を得たことで、自身が持っている加害性を『恋愛の範疇』というロマンスへと加工し、その他害を正当化する行為」だと私は捉えている。
「NTR」には最低でも3人の人間が関わる。付き合っているAとB、加害をするC。
加害をする人間Cは、ただ存在している誰かへの単純な加害(=ナイフで刺す、階段から蹴落とす、急ハンドルをきるなど)ではなく、結びついた関係の加害を執拗に求める。
これはおそらく、他人への加害はするが、「自分は自分を嫌いになりたくない」という自分可愛さゆえの行動だと私は感じる。
なぜなら、人間は自分の汚さを直視すると死んでしまう。もし自分の加害性から、罪もない誰かを傷つけてしまうと自身の格が「野性」に落ちてしまう。
だから加害性を性欲に置換し、他者の築いた「愛」というロマンスに潜り込むことで「あれは、自分が選ばれただけ⋯⋯」という自己保身をしている。
そうすれば、自分は相手と同じ土俵で戦った正当な者という夢を見れるからだ。だが、他者の関係に手を出している時点で正当ではない。
もし「動物的には正解」というならば、動物界のように「いつでも殺されるリスク」を、きっちりそのNTRに織り込んでいてほしい。
「動物的に正解」と言うならば、他人が自分の命を守ってくれる「人を殺すのは悪いこと」といった倫理や道徳、良心に頼っているのは奇妙だ。
だから、動物界のように、常に殺される準備をしていてほしい。それができるのなら、私は何も言わない。
むしろ、筋が通っていて良い!!!
とても大満足だ。
「NTRは動物的に正解。だから私は、動物として命を狙われる。」
震えるほどに一貫性がある!!
生き方が美しい!!とても良い!!!!!
もし死んだらその身体と心をそのままで保存させてほしい!!現代アートとして毎日観賞したい。
葬儀をするなんて勿体ない。
――それにしても。
他人の尊厳を破壊することが目的であるならば、その寝取る相手の小骨を折るなり何なりして、一生涯、相手の内部に自分の悪意を住ませればいいのではないか?
しかし、そこまではしたくない人が多いだろう。
なぜなら、NTRの本質は、自身の加害性を徹底的に隠すことにあるからだ。
◇
つぎは、NTR(=寝取られること)を望む人間を解剖する。この場合のNTRは、「過度な加虐性を持っている人間が、何らかの理由によって愛する人にそれができないために代理人を立て、パートナーの心を加害する行為」であると私は捉えている
このNTRは不思議だ。なぜなら、「行為をする相手はアウトラインは越えないだろう」という見知らぬ他者への妙な信頼と大切なはずのパートナーを道具として扱う様子が、パートナーより他者への情愛を抱いているように見えるからだ。
このNTRではよく「奪われる絶望感がいい」と語られる。しかし、その絶望感を成り立たせているものは、「パートナーを絶望を作り出すための道具として扱う態度」と「自身は手を汚したくない」という、加害と自己保身から書き出された「悲劇の皮を被った狂気の脚本」にあると私は考える。
どんな理由を並べようとも、このNTRの根底にあるものも、加害性と自己保身である。
ゆえに『NTR』の本質は、「加害性」と「自己保身」にあると私は考えた。
私はその「加害はしたいが責任は取りたくない⋯⋯」という思いから、ロマンスや『愛』に寄生する自己保身が酷く嫌いらしい。
◇
そう言えば――怖い話をする。
このエッセイもNTRも、所詮は創作されたフィクションだ。書いてあることは真実ではない。
NTRをフィクションとして楽しむのであれば、何ら問題はない。けれど現実でNTRをした場合、一生涯、自分の命を狙われる覚悟が必要だと私は警告する。
なぜなら、私の実父は妻を取られた日から、ずっとその相手を「殺したい」と思っているからだ。
人間は大きく年を取ると脳機能が低下する。そうなると、善性や道徳による加害者への保護膜が薄くなるために殺人も起きやすくなる。
実父が今後、どんな動きをするのか私にはまったく読めないし、止める意義も感じない。
現実で自身の加害性を性欲に置換した場合、どんな理屈を並べようが、加害は「加害」であり、現実で物言う被害者は加害者を殺したいと願う。
だから、NTRを現実で行うのはオススメしない。
NTRが何なのか考えられて楽しかった。
【あとがき】
調べてみると、女性自身がNTRを好むこともあるようだ。どうやら、意志が快楽に落ちていくという様子が好きらしい。
意志の消失が好きならば首でも絞めたらいいと思うのだが、そんな単純なものではなく「快楽がある」というのが大事なのだろう。
そうなると、「意志は誰かとの絆が絶たれないための抵抗」であり、「快楽はその絆を絶とうとする刺激」であると考えることもできる。
そうすると、「快楽に落ちていく感覚」とは、付き合っている人間との思い出と絆を踏み台にして成り立つものであるから、誰かを踏み台に快楽を感じる「加害をする快楽」と――仕方なかった――という被害者の立場に座れる「自己保身による快楽」があるように私は見える。
なるほど。NTRは深くてぜんぜん分からない。
とりあえず私は「加害性」と「自己保身」で、NTRというジャンルを規定しようと思う。
――それと、このエッセイは個人が考えていることだから真実にはならない。気になるところは修正して、NTRというジャンルを繁栄させたり、破壊したりしてほしい。




