私のエッセイとの付き合い方
私は自分が考えた仮説や思ったことを、いろんな範囲で書く。間違っていることも多いだろうし、断定しているように見えるエッセイもあると思う。
だから私のエッセイは、「答え」ではなく、「考えるための材料」として読んでほしい。
私が仮に断定していたとしても、それは意志的な断定ではなく、頭の中にある考えの形式がそのまま文字として反映されている。いわば、脳の情報を文字へと変換する際の致命的なミスみたいなものだ。
↓こんな感じ
・悪い例「脳:『〜だ』」→「文字:『〜だ』」
・良い例「脳:『〜だ』」→「文字:『〜と私は思う。』」
他の人がどうかは知らないが、おそらく私の脳には癖がある。
それは、頭の中でものを考えるときに、「〇〇だ」や「〇〇だから」といった表現を使わないと、次のステップにスムーズに進めないという問題である。
適切な表現として、「〇〇だと仮定して〜」や「〇〇であるならば」を使うと、その時点で検証する必要性や他の可能性に気を取られてしまって、なかなか先に進めなくなる。
そうなると、1つの仮説の検証に数年以上かかるため、エッセイの作成ができず、他の人々への情報共有がまったくできなくなる。
だから私は、脳内で「〜だ」という表現を使って考えを進める。
そうしてできた『考え』をエッセイにするわけだが、このときの「『脳』から『文字』へ」という変換に問題があると、断定的な文章ができあがる。
そんな物理的な変換ミスが在りつつも、そもそも私は、認識として「断定的な表現」にあまり関心がないような気もしてる。
◇
私の脳のバックグラウンドには、常に懐疑的な私がいる。その「私」は、私の考えにいつも懐疑的だし、世界の在り方や見え方、あるいは感動的な実話にすら懐疑的な目を向ける。
「節操がない」というのだろうか?
亡くなった人間の遺体や、その人の周囲にいた人々の今後の変化を見ない限り、接点のない著名な人間が死去したという話にすら懐疑の目を向け、信用していない。
「論文がある」といった情報に対してもそうだ。
一般的に「論文がある」「研究が発表された」「検証がある」といった表現は、その情報の正当性を高めるために使われる。
しかし、私は誰かと議論をしたいわけでもないし、その情報を拡散することもないので、そこにある情報の真偽よりも「その人が何を言いたいのか」「何をしようとしているのか」といった方面に興味が湧く。
だから私は、そもそも「情報」を信頼しておらず、そんな情報に使われがちな「断定的な表現」にもあまり関心がないのかもしれない。
「何を主張しているのか」
それにしか興味がない。
――それに。
私は私のエッセイを好み読む人間を、考えるための材料を探している情報リテラシーの高い人間だと思っている。
私のエッセイは「人間が可哀想」といった綺麗なエッセイではなく、毒にも薬にもなる、やや汚めでトゲトゲしたエッセイだ。
こんなエッセイを好む人間は、私のような変人的な気質をもっているか、あるいは一風変わった考えや歴史を持つ人間だと、私は勝手に想像している。
自分の主張に正当性を持たせることに論文を使う「論文憑き」は、確かにそこに存在しているけれど、私はその存在を信用しない。
このエッセイを読んでいる知らない誰かは、存在しているのかすら分からない。けれど、その存在や意志は信頼するなんて、不思議な話だよね。
私の話は全て「仮説」だよ。
【あとがき】
そうだ。あともう一つ付け加えることがあった。
「人間はいずれ死ぬ」といったマクロ(=全体的なこと、大きなこと、広い視点)な考えもいいけれど、マクロ視点は個人の特別な事情を解決してくれないから、変わった歴史を持つ私は具体的なことを考えるようにしている。
私は中学のとき、家庭環境が大変だった。そんな時期に祖母や保護司は「時間が解決してくれる」と言った。
時間が解決してくれることなんて、何も無かった。
船の進路が数センチ右にズレとき、そのズレを「時間が解決してくれる」と思っていたら大間違いだ。
時間が経つほどにそのズレは大きくなって、意味のわからない海域や島に踏み込み、望んでいない結末を迎えることになる。
この船の話は比喩だけど、そんな事があるから、私は「時間が解決してくれる」といったマクロ視点で人生を語ることは苦手だ。




