人の連続性を考える
【今回のあらすじ】
シャワーを浴びていると、「死にたくないなー。全部消えちゃうもんな〜」と思った。
でも、「“全部”消える⋯⋯?」と思い直し、「人の行動には連続性があるかもしれない。そうだとしたら、全部消えることはあり得ない」と考えた。
この文章はシャワーから戻って2分以内に書きはじめた。そんなできたてホヤホヤの考えを説明してみる。
私は、死んだ人の“全てが消えることはあり得ない”と考えた。これは遺伝や分子のような物質的な存在の話ではなく、「個人が行動した結果は永劫に消えない」という五感では可視化にくいものの話だ。
※断っておくが、スピリチュアルや霊的な話ではない。
人は生きていても死んでいても、周囲や何かに影響を与え続ける。生きていればその影響は「常」であるし、死んでいればその影響は「限定的」になる。
つまり私は、人は生死に関わらず、『恒久的影響性』を持っていると考えている。
私はあらすじで「死にたくないなー。全部消えちゃうもんな〜」と、死への恐怖を語った。しかし、その『恒久的影響性』という考えを使うと、肉体や精神が消えようとも、私が生きて動いた影響が世界から完全に消失することはあり得ないのではないか?と考えた。
その根拠となっているものが「歴史」である。
人類史のマクロ視点。
日本史の半マクロ視点。
個人の生涯(=個人史)のミクロ視点
こういった歴史は、人が持つ恒久的影響性を記録し、可視化したものであり、古人が残した選択による影響は、いまも私たち「現存する人間」に影響を与えている。
歴史には、名物として記録された物事がある。例をあげるならば、人類史の「火の道具化」、日本史の「明治維新」、個人史の「就職」などがその名物にあたる。
記録された名物は、それ単体で存在した「イベント」ではなく、様々な人間の選択として名物は生まれる。
名物が発生するには、人による集合的選択が必要になるわけだが、集合的選択をする人の隣には、街ゆく人や誰かと愛を育む人、あるいはキュウリを水で洗うような、「普通の人たち」も必ず存在している。
その「普通の人たち」は、直接的に名物の発生に関わらない一方で、極微弱な間接的影響によって名物の発生に関わる。
具体的に言えば、「革命を起こそう」と決起する人間は、名物の発生に直接的に関わる者だが、その決起人を白い目で見る普通の人間もまた、極微弱な間接的影響によって名物の発生に関わる。
「革命を起こそう」と決起する人間は、正義感や当事者意識によって動くわけだが、白い目で見られることでその意志をさらに固める性格がある。
そして、その「決起人」と「普通人」もまた、両親や友達、あるいは役人の選択による政策の影響を浴びた結果、その行動をとっている。
名物に関わった決起人などの両親もまた、自身の親や家訓などの「周囲にあるもの(=物質、概念)」の影響を受けて行動をとる。
つまり歴史は、こうした人の行動の影響によって作られているため、人には『恒久的影響性』があると私は考えた。
だからこそ、私が死んだとしてもその影響が永久に消えることはなく、極微弱であったとしても、私が生きていた痕跡は歴史に存在している。
私はこの『恒久的影響性』を、「人の行動の連続性」と名付けたファイルに挟むことにした。このエッセイの執筆に1時間半かけたわけだが、まだ語りきれていない話や拡張できる部分があると思う。
ただ、今はすごく眠たいので私は髪を乾かして寝ようと思う。おやすみなさい。
【あとがき】
私は2時間くらいでいろんなエッセイを書くわけだから、分かりにくい所があったり、考えが衝突してるように見えるときは、その考えを持って帰ってもらって自分ようにカスタマイズして使って欲しい。
ブーメランが刺さってることもあるだろうが、私は自分でブーメランを抜いてまた改良するから私の心配は大丈夫。
おやすみなさい
あ、人の選択の影響性をイメージするなら、この連載にある「ラプラスのキャベツ」というタイトルの前半を読むとイメージしやすいかも




