あるものを「あり得ない」と考える脳
本文にある「一次的な感情」は誤字ではなく、悲しい、ムカつく、怖いといった短い言葉で表すことができる感情のことです。
矮小化とは、簡単にいえば過小評価や事実を過剰に小さくして理解することです。
「人間の脳は怠け者」であるというのはよく聞く言い回しだが、日常生活において脳はあらゆる怠けを行う。
私自身は脳の一部ではあるが、脳全体に対する支配権がないから怠けている自覚はない。しかし、脳がものを認識するとき、認知バイアスを例にあらゆる手抜きがされているというのが通説だ。
私は前回のエッセイで「人を食べ物として見ている」と言った。
それを聞いて、あなたはいま何を思う?
「変な人」「怖い人」「中二病」「嘘つき」
「サイコパス」「犯罪者予備軍」「精神疾患」
いろいろな感想があると思う。
それらの感想が『仮:変な人(?)』のような「仮定」であるならばいいのだが⋯⋯「サイコパス」といった“断定”になっているなら、それは脳が手抜きをしている証拠に他ならない。
現実は思い通りにならない。それは自分一人では何もできず、世界に泣くことでしか対抗できない赤子ですら体感的に学習している。
人間の脳はこうした「思い通りにならない、かつ予測がつかない世界」に対抗するために、目の前にある情報(たとえば、このエッセイ)に加工を加えることでストレスを軽減しているわけだが、それが安易なレッテル貼りや事実の矮小化に繋がる。
私は今から高級品に関する怖い話をする。
聞きたくない人は無理に聞かなくていい。
◇
現代の文化として、情報過多な社会(=関わる人間、触れる知識の増大)であるために、脳が理解しやすく、扱いやすい「視覚的マウント」が流行している。
(※脳が理解しやすいとは、五感的な情報や一次的な感情のこと。理解しにくいものとしては、新しい情報、二次的な感情などがある。)
そんな流行の中に、ブランドの名前や象徴がガッツリ入った物を身辺に置き、結果的に経済力をアピールしている人間がいるわけだが、「高級車がきっかけで『あの家、お金持ちだ』と勘違いされ、一家4人が殺害された事件がある」と聞いたら、あなたは怖くなる?
これは実際にあった事件だ。
「福岡一家4人殺害事件」と調べれば出てくる。
この事件を知ったあなたは、高級品を身辺に置くことをリスクと理解する?
――それとも、「自分は気をつけてるから大丈夫」「いや、あり得ないでしょ」「統計的に無視できる」といったリスクの実在を拒む?
「一家4人殺害」という言葉は、脳が自身の生命に関わる重要な情報として認識しやすいものだ。
事件を過剰に評価して、「ブランド物を身につけていたらいつか死ぬ」と思う必要はまったく無いのだが、逆に「私は大丈夫」「関係ない」と思ってしまうならば、脳が新しい情報の受け取りを拒否している。
「殺害」という脳が反応しやすい言葉で、かつ「高級車(=高級品)から殺害」という現代の視覚的マウントに重なる事件であるのに、このリスクを過小評価してしまうのは、日々、「大人」や「子供」という役割を演じることで脳が疲れているように思える。
――そして重要なことだが、この話は「人間を食べ物として見ている人間」が書いている。
もしあなたが、私を「サイコパス」や「中二病」などと断定していたならば、あなたはなぜここまで読んでしまった?
問い詰めている訳では無い。
私はずっと、脳の怠け癖を説明をしている。
不思議に思うなら、続きを聞いてほしい。
通常、「変な人間」「サイコパス」などと断定した人間の話は「信用できない」とするのが必然だ。まともに取り合っていたら、疲れてしまう。
しかし、あなたはここまで読んでしまった。
なぜなら、冒頭にあった文章。
「 現実は思い通りにならない。それは、自分一人では何もできず、世界に泣くことでしか対抗できない赤子ですら体感的に学習している。 」
という文章から、脳が“共感し、知性による信頼性の高さがある”と判断したからだ。
その信頼の高さによって、「サイコパス」といった事実を矮小化した小さな思い込みが簡単に剥がされ、信頼の彼方に忘れ去られてしまった。
つまり、私が言いたいことは、「事実を矮小化した理解は簡単に忘れ去られてしまう」ということであり、矮小化しているからこそ、雪だるま式に分からないことが増えてゆくという話である。
その「分からない雪だるま」を作り出しているのは、あなたではなく怠け癖のある脳だ。
このエッセイをここまで読んで、私を「よく分からない人間」「複雑な人間」「高級品にはリスクがある」と思えているなら、それは脳が必死に働いている証拠だ。
そういった「複雑なものを『複雑なもの』として受け止める様子」が知性の始まりだと私は思う。
【あとがき】
中学のとき、友達から勧められた『ギャングキング(入れ墨ヤンキー漫画)』を読んだら、「強くなりたいなら自分の大切な人が酷い目に遭う想像をしろ」といった話があった。
私はその想像をしてみたけれど、そもそも大切な人が居なかったのでよく分からなかった。
だから、「精神に負荷をかければいいのか?」と考え、海外の凄惨な事件や国内の凶悪な事件を読んでいたとき、その関連で「福岡一家4人殺害事件」を知った。
そして、凶悪な事件を読む中で思ったことがあって。
海外の凄惨な事件は、犯人の生い立ちや事件などが物語化されている印象があって、割とサッパリとしたものが多かった。逆に、「福岡一家4人殺害事件」を例に国内の凶悪事件は憂鬱なものが多く、加害者に1ミリも共感できない物が多かった。
当時はその理由として、「日本のホラーは海外と比べて陰湿だから、そもそも陰湿な雰囲気が日本にあるのだろうな」と思っていた。
いま考えてみると、海外の凄惨な事件は英語を日本語に翻訳している。つまり、海外の事件と日本語話者である者を結ぶための「翻訳作業」が事件の凶悪性を弱めているのだろうと思う。
国内の凶悪事件を読むとより憂鬱になるのは、国内で起きた悪意をそのまま日本語で記述したわけだから、日本語話者である者からすると、表現の意図や使われた言葉から事件の映像を鮮明に想像することができるため、その事件が持つ「悪意の原液」をそのまま受け取りやすいのだと思う。
ちなみに、凶悪な事件を読んでも心は強くなることはなく、憂鬱な気分になるだけだった。まったくオススメしない。
凶悪な事件は「命」に関する情報だから脳が理解しようとする。読みたくないのに読み続けてしまうのは、脳が「生命を守るために必要な情報だ」と強く反応するためだ。




