正義を実行したい欲求を宿す眼は汚いという話
ちょっと重めの内容と胸糞⋯⋯?
昨日、少年審判(=未成年の裁判)の話を書いて思い出したことがある。それは、正義を実行したいと願う眼は、ドブ川が清流に見えるほどに汚いという話だ。
私は少年審判を受けるために、鑑別所に入っていた。その鑑別所では、「少年の罪が確定したわけではない」という大前提を弁えた大人が多かったが、1人だけ、自分が正義の立場に立っていると勘違いしている人間がいた。
私の家庭環境が悪かったのはあの通り(=前回のエッセイ)だが、両親は鑑別所に何度も面会に来た。
その面会での両親の仕草は、初めての経験によって不安定になった心を落ち着かせるための行動であり、私の安否を気遣ったものではなかった。
だから私は、両親と面会をしている最中に、自身の心を守るために「俺が鑑別所に入ってること、友達とか祖父母に言っていいよ。」と言った。
両親は必ず、私が鑑別所にいることを周囲に言いふらす。
それは誰かの心配を解消するための慈愛に満ちた理由ではなく、子供が自分たちの支配下にあり、「私たちがまともな大人であること」を証明する客観的な出来事であるためだ。
そんな酷いことが私の手の届かない場所で起こるなら、両親より先に自身で許可を出していたほうが、幾分か心の痛みが減ることを私は知っていた。
――すると、面談の内容を書き留めていた職員が、「あなた、自分が何を言っているのか分かっているの?」と正義の目で私を問い詰めてきた。
そのときの職員の目は、一方的な「断罪の眼」であり、あらかじめ結果が決まっている問いかけであったために、私は「分かってます」と答えた。
その職員は薄っすら黄色になった眼をこちらに向けたまま3秒ほど固まっていたが、ふいに下を向いてノートに何かを書き始めた。
◇
この正義の人間は、正義を実行したいあまりに、自分が鑑別所の職員であることを忘れ、その職業に勤めるものとして必須である「少年の意図を汲み取る努力」を怠り、表面的な言葉のみから、「私が反省していない」という妄想を組み立てたようだ。
きっと、あの3秒の静止の中で頭にある知識をフル動員し、「いかにこの少年は反省していないか」という筋書きを考えたと思うのだが、鑑別する立場にある人間が少年の人生を加害してしまうのは、なんてグロテスクなんだろう。
何もない人間は何かに成ろうとする。その虚無感が強ければ強いほどに、正義のような抽象的で汎用性のある強いスローガンに縋り付く。
この様子は、ただの自分探しとは理由が違う。空っぽの中身を隠してくれる宿主を探し、「空っぽの自分」という虚無な存在すら許してくれる、意志がなく、都合の良い宿主を探す、寄生的な動きである。
断じて、自分に迷い、探している人間とは性質が異なる。
見つけた宿主が、自分を真に満たしてくれるわけでもないのに、手に持った「正義」に腕を引っ張られ、集団の中から突如として宙に浮き出す姿は、その身に宿る質量の無さを、周囲へ盛大にアピールしてしまう。
よく回る舌と宇宙しか見えない眼。
それは果たして『正義』なのだろうか。
私にそれは、汚い醜態に見えてしまう。
――あぁ、メガネをかけていなかった。
かけるとより汚いや。
【あとがき】
私が鑑別所から少年院へ行き、少年院から外の世界に戻ると、私が少年院に入っていたことを、友達や祖父母、親戚や教師などの、私と接点があった人間の全員が知っていた。
友達は「ぽぴのお母さんから聞いた」と言い、いとこは「正月集まったときに、ぽぴの義父が『俺が少年院に入れてやったぜ!』って騒いでたから知ってる」と言っていた。
これは私が許可を出したから起きたことではない。
いつまでも自分が若い気でいる母は、私の友達と連絡を取りたがり、極田舎の出自である義父は、自身の力をアピールしないと不安で生きていけない。
それらの欲望を満たす大義名分が「子供が少年院に入る」というイベントの特典であるため、両親が言いふらすのは必然だ。
通常、子供が鑑別所や少年院に入ることは、「両親の養育能力の不全」を表す。つまり、両親は「大人として欠陥品」であると行政から暗に伝えられている。
その意味が分からないからこその欠陥品であるのだろうが、穴の開いたバケツから必ずしも水が漏れる必要はないのに――と今日も思う。




