買春を一人称と鏡で考える。
「捕える」は誤字ではなく、意図的な表現です。
私は女子高生や女子大生のような若い異性に興味がない。意志の主張をするわりには、簡単にコントロールできるから気味が悪い。
だから、そのような若い異性群を「不思議な生物」と観ることはあっても、恋愛的な興味は持たない。
しかし、一般的な風潮としては、若い異性を好むのが普通だ。私はそれに共感ができない。中学の頃から考えているがいまだに感覚すら分からない。
その「分からない」という疑問の嵐の中でも、特に買春をしてまで若い異性を求める理由は、もっと分からない。
だから今回は、買春をする理由を勝手に作り出して納得することにした。
もちろん生物学的な理由は分かっている。
ただ、自分が納得できて、何度も噛めるガムみたいな理由がほしいから、もっともらしい理由をかんがえる。
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「売春・買春」という文字を見ると、「春」という文字が入っている。この売春等に使われている“春”からは、季節としての春よりも『青春』というイメージを私は感じる。
そのイメージを更に膨らませてみると、若い異性を買う人々は買春によって、あの日の『青春』を買っているのだと私は思った。
人間は一人称視点しか持たない。これを読んでいるあなたが、道具を使わなければ自身の顔を見られないように、人は単体で自分の姿を見ることができない。
そして大抵の人間は青春に心残りがある。
つまり、買春をする人々は、売春をしている若い異性を一人称視点で捕え、捕らえたあとの空間構築によって、あの日の青春をやり直しているのだと私は考えた。
制服のような青春の象徴が人気な理由も、この「青春のやり直し」という要因が関係しているように思える。
つぎに私は、その空間に「買春した自分の姿を捕える鏡」を置いたら、青春の追体験のために買春をしている人間の心境にはどんな変化が生まれるのか気になった。
もし私のでっち上げた「買春は青春の追体験である」という理由がその深淵に触れているならば、現在の変わってしまった自分の姿を映す鏡の設置は、そのような理由で買春をしている人間の心に不快感を生むはずだ。
◇
とりあえずこんな感じかな。
考える余地があっていいと思う。
買春をする人の中には、「支配欲を満たしたい」「人間の尊厳を踏みにじりたい」といった理由を持つ人間もいると思う。そんな人たちにとって鏡は、よりその満足感を高めるための道具であるだろうから、鏡に不快感を抱くことはないだろう。
売春をする側も、「死にたい」「自分を傷つけたい」といった理由を持つ人もいるだろうから、破滅していく自分を映す鏡は良くないだろう。本人としては嬉しいのだろうが、破滅が加速していく様子は、周囲にいる人間の心をその加速したスピードによって擦り減らしてしまうからだ。
――そう考えてみると、人間は一人称だからこそ、救われてる事があると言える。
【あとがき】
もし本当に、買春を青春の追体験として行なっている人間がいるならば、それは性欲や支配欲による現在的な欲ではなく、過去の感情や時間の喪失を埋めるための、過去を振り向いた過去的な欲だと思う。
売春や買春を規制するのは勝手にすればいいが、買春をする人間の心のケアに力を入れてみると、新しい何かが生まれるのかもしれない。




