人の心に入るための『印』
ボツにした話の修整版。
私は最近、「傷ついた人の心を開くには共通の『印』が必要だ」という話を書いた。この『印』とは、中学のときに、傷ついた人たちと関わった経験から学んだ極めて個人的な考えだ。
みんなも『印』のことは体感的に知っているはずだ。
『印』は、言葉を変えれば「属性」という。この属性とは、「人が相手を受け入れるための鍵になるもの」であり、私はそれを「誰かの心の門をくぐるための通行証(=印)」と認識している。
この印をより現実的に言うならば、もしあなたがヤンキーのコミュニティに入りたいならば、服装や口調を相手に合わせる。
――だけでは不十分なので、「筋を通すことにこだわる姿勢」、「周りの怒りに感染する」、「何者にもビビらない様子」などの行動的な『印』が必要になる。
そして、今から話す具体例は、『印』を便利なものと誤用しないために必要な話だ。少し違う角度から説明する。
若者は、大人が「若者言葉(=印)」を使うと激しく嫌がる。
それは、若者のコミュニティに「若者言葉」と言う『印』を使って入ろうとする“大人”を不気味に感じているからこその反応であり、『印』を持っているからといって、他人の心に入るために必要な「複雑な手続き」を省略できるわけではない。
『印』はあくまで、「――印があるなら、話を聞いてやらんことでもないけど⋯?」といった反応をもらうためのものであり、他人の心の門をくぐり抜けた後は、自分のコミュニケーション能力が即座に関係へと反映される。
もし、印を使って傷ついた人の心に入り、「あ!この傷はなに?」と傷口に指を近づけたり、「自分の好きにしたらいいよ。人生は一度きりだから」と強く騒ぐなら、間違いなく締め出され、2度と心の門が開くことはないだろう。
『印』は誰かの心の門を開く鍵にはなるが、そこから絆を結ぶためには、その先にある広場で、自身の振る舞いが「常に見られている」という意識が必要だと思う。




